『べらぼう』「好機到来『籬の花』」 ― 2025-02-17
2025年2月17日 當山日出夫
『べらぼう』「好機到来『籬(まがき)の花』
江戸の出版のなかで、吉原細見という類の本は、そんなに売れてもうかるものだったのだろうか。もし、売れる本だったとしても、単価が安いから、ものすごく売れないと儲からないにちがいない。まあ、吉原の案内として、確実に一定部数は出る本であったにはちがいないが。
このドラマの作り方というか、方針として、江戸の文化を、いわゆるサブカルチャーを軸に描きたいことは分かる。吉原細見であり、赤本、青本、黄表紙、それから、浮世絵、というジャンルにおよぶことになる。これからの登場人物を見ても、例えば大田南畝が出てきたりとか、狂歌や戯作を中心として展開するようだ。
これはいいとしても、これで、江戸のこの時代の文化を描いたことになるのか、となると、ちょっとどうだかなあ、という気にもなる。戯作以外の物之本、これがどうだったのかということも、もう少し出てきてもいいのではないだろうか。この時代は、日本の古典や漢籍、それから、浮世草子など、多くの本が刊行されている。また、いろんな実用書もあった。こういう部分が、このドラマを見ていて、どうも想像できないのである。
出版史の方面からは、蔦屋重三郎の作った細見は、どのように考えられているのだろうか。どう画期的だったのか。
ドラマの中で描いたポイントは、二つ。
一つには、河岸女郎まで掲載したこと。しかし、このような女郎たちは、次々と死んでいくので、入れ替わりも激しかった。このことは、このドラマの始めの方で言っていたことである。また、このレベルの女郎を相手にするような客が、細見を買うのだろうか、という気もする。現代の感覚で言うならばであるが、ほしい情報は、女郎の名前ではなく、見世の場所と、値段、である。
二つには、花の井、が襲名して、瀬川、になったこと。これならば、このクラスの花魁を相手にする客なら、記念のために買っておきたいと思うだろう。しかし、このような客なら、別に本の値段が半分だから買うということはないだろうし、そもそも、こんなお大尽は数が限られると思うから、販売部数も一定以上は伸びないかと想像する。
どうも、蔦屋重三郎のアイデアでは、細見がそれほど売れるような内容になったとは思えないのだけれども、実際はどうだったのだろうか。半値にして倍の部数を売るというのは、そんなに簡単なこととは思えないが。
これを現代の感覚で言いかえるならば、コンパクト(小さい、薄い)であり、ほしい情報が載っている。吉原に行く客が欲しい情報としては、見世の場所と値段であるかと思う。女郎の源氏名が分かったところで、その名前だけを目当てに、吉原に行くということがあったのだろうか。これが「瀬川」なら別格であろうが、この種の情報を伝える媒体としては、細見だけだったのだろうか。
このあたりのことは、吉原の歴史と、細見の歴史、これらを総合的に考えることになる。無論、他の岡場所などについても、江戸時代に、どのようなメディアで、どのような情報が流通していたのか、という関心で見ることになる。
最後に、花の井、が、瀬川、と襲名した。そのために、蔦屋重三郎は細見を部分的に作り直した、という展開になっていた。これはいいとして、では、どうやって改めたのか。その作業の工程を、描いていなかった。常識的な書誌学の知識としては、埋木による訂正ということになるが、この部分がまったく描かれていなかった。
それから、本の大きさと、流通する紙の大きさ、という観点からはどうなのだろうか。そう簡単に、サイズを大きくできるものなのだろうか。紙の価格は、現代よりもずっと高価であったにちがいない。本の製造コストのかなりの部分を、紙がしめていたはずである。なるべく無駄が出ないように、紙のサイズと本のサイズは、一定の規格……事実上の業界標準とでもいうべきもの……におさまるようにしていたはずである。また、これは、使用する板木のサイズとも関連する。テレビに映っていた本を作る場面では、化粧断ちするとき切り落とす紙の余白が大きすぎるように思えたのだが。(経験的にはということになるが、現存する江戸時代の板本は、おおむね一定の種類の大きさの規格におさまるように作られている。)
新之助が、李白の「静夜思」の詩のことについて言っていた。どうせならば、この時代に読まれたであろう、李白の詩集の本などが出てきていてもよかった。これを小道具で作るのは、手間ということになるかもしれないが。この場面は、江戸時代のある一定以上の知識階層にとっては、中国の漢詩などは、基本的教養であった、という側面として、もうすこし丁寧に描いておくべきだったかと思う。蔦屋重三郎が李白を知らなくてもいい。映っていた限りでは、蔦屋重三郎は知らなかった、まったく関心がなかったようである。そういう階層による知識や教養の違いがあった時代ということで、別に隠すようなことではないと思うが。その様々な知的階層のなかで、蔦屋重三郎が、どのような人びとを相手にしていたのか、という方向が見えてくると、その方がいいと、私は思う。
吉原で蔦屋重三郎にしがみついた少女、小童(こじょく)であったが、ここはお稲荷さんの説明があってもよかったところかと思う。
鱗形屋の作った偽物(?)の「節用集」だが、3000部があったと言っていた。板木で本を作るとき、そんなに大量の部数を一度に作ったのだろうか。
吉原細見が、お土産としての需要がある。おそらくこれは、確かなことなのだろうと思うが、といって専門の論文を探して読んでみようとは思っていない。細見にかぎらずであるが、参勤交代で江戸に出てきた武士たちが、地方の藩に帰るとき、いったい何をお土産に買っていたのか、こういう視点は、とても興味深いものである。現存する細見が、どの地方の、どのようなところに、どれぐらい残っているのか、ということの調査になる。
2025年2月16日記
『べらぼう』「好機到来『籬(まがき)の花』
江戸の出版のなかで、吉原細見という類の本は、そんなに売れてもうかるものだったのだろうか。もし、売れる本だったとしても、単価が安いから、ものすごく売れないと儲からないにちがいない。まあ、吉原の案内として、確実に一定部数は出る本であったにはちがいないが。
このドラマの作り方というか、方針として、江戸の文化を、いわゆるサブカルチャーを軸に描きたいことは分かる。吉原細見であり、赤本、青本、黄表紙、それから、浮世絵、というジャンルにおよぶことになる。これからの登場人物を見ても、例えば大田南畝が出てきたりとか、狂歌や戯作を中心として展開するようだ。
これはいいとしても、これで、江戸のこの時代の文化を描いたことになるのか、となると、ちょっとどうだかなあ、という気にもなる。戯作以外の物之本、これがどうだったのかということも、もう少し出てきてもいいのではないだろうか。この時代は、日本の古典や漢籍、それから、浮世草子など、多くの本が刊行されている。また、いろんな実用書もあった。こういう部分が、このドラマを見ていて、どうも想像できないのである。
出版史の方面からは、蔦屋重三郎の作った細見は、どのように考えられているのだろうか。どう画期的だったのか。
ドラマの中で描いたポイントは、二つ。
一つには、河岸女郎まで掲載したこと。しかし、このような女郎たちは、次々と死んでいくので、入れ替わりも激しかった。このことは、このドラマの始めの方で言っていたことである。また、このレベルの女郎を相手にするような客が、細見を買うのだろうか、という気もする。現代の感覚で言うならばであるが、ほしい情報は、女郎の名前ではなく、見世の場所と、値段、である。
二つには、花の井、が襲名して、瀬川、になったこと。これならば、このクラスの花魁を相手にする客なら、記念のために買っておきたいと思うだろう。しかし、このような客なら、別に本の値段が半分だから買うということはないだろうし、そもそも、こんなお大尽は数が限られると思うから、販売部数も一定以上は伸びないかと想像する。
どうも、蔦屋重三郎のアイデアでは、細見がそれほど売れるような内容になったとは思えないのだけれども、実際はどうだったのだろうか。半値にして倍の部数を売るというのは、そんなに簡単なこととは思えないが。
これを現代の感覚で言いかえるならば、コンパクト(小さい、薄い)であり、ほしい情報が載っている。吉原に行く客が欲しい情報としては、見世の場所と値段であるかと思う。女郎の源氏名が分かったところで、その名前だけを目当てに、吉原に行くということがあったのだろうか。これが「瀬川」なら別格であろうが、この種の情報を伝える媒体としては、細見だけだったのだろうか。
このあたりのことは、吉原の歴史と、細見の歴史、これらを総合的に考えることになる。無論、他の岡場所などについても、江戸時代に、どのようなメディアで、どのような情報が流通していたのか、という関心で見ることになる。
最後に、花の井、が、瀬川、と襲名した。そのために、蔦屋重三郎は細見を部分的に作り直した、という展開になっていた。これはいいとして、では、どうやって改めたのか。その作業の工程を、描いていなかった。常識的な書誌学の知識としては、埋木による訂正ということになるが、この部分がまったく描かれていなかった。
それから、本の大きさと、流通する紙の大きさ、という観点からはどうなのだろうか。そう簡単に、サイズを大きくできるものなのだろうか。紙の価格は、現代よりもずっと高価であったにちがいない。本の製造コストのかなりの部分を、紙がしめていたはずである。なるべく無駄が出ないように、紙のサイズと本のサイズは、一定の規格……事実上の業界標準とでもいうべきもの……におさまるようにしていたはずである。また、これは、使用する板木のサイズとも関連する。テレビに映っていた本を作る場面では、化粧断ちするとき切り落とす紙の余白が大きすぎるように思えたのだが。(経験的にはということになるが、現存する江戸時代の板本は、おおむね一定の種類の大きさの規格におさまるように作られている。)
新之助が、李白の「静夜思」の詩のことについて言っていた。どうせならば、この時代に読まれたであろう、李白の詩集の本などが出てきていてもよかった。これを小道具で作るのは、手間ということになるかもしれないが。この場面は、江戸時代のある一定以上の知識階層にとっては、中国の漢詩などは、基本的教養であった、という側面として、もうすこし丁寧に描いておくべきだったかと思う。蔦屋重三郎が李白を知らなくてもいい。映っていた限りでは、蔦屋重三郎は知らなかった、まったく関心がなかったようである。そういう階層による知識や教養の違いがあった時代ということで、別に隠すようなことではないと思うが。その様々な知的階層のなかで、蔦屋重三郎が、どのような人びとを相手にしていたのか、という方向が見えてくると、その方がいいと、私は思う。
吉原で蔦屋重三郎にしがみついた少女、小童(こじょく)であったが、ここはお稲荷さんの説明があってもよかったところかと思う。
鱗形屋の作った偽物(?)の「節用集」だが、3000部があったと言っていた。板木で本を作るとき、そんなに大量の部数を一度に作ったのだろうか。
吉原細見が、お土産としての需要がある。おそらくこれは、確かなことなのだろうと思うが、といって専門の論文を探して読んでみようとは思っていない。細見にかぎらずであるが、参勤交代で江戸に出てきた武士たちが、地方の藩に帰るとき、いったい何をお土産に買っていたのか、こういう視点は、とても興味深いものである。現存する細見が、どの地方の、どのようなところに、どれぐらい残っているのか、ということの調査になる。
2025年2月16日記
英雄たちの選択「江戸を駆けたマルチクリエーター 平賀源内」 ― 2025-02-17
2025年2月17日 當山日出夫
英雄たちの選択 江戸を駆けたマルチクリエーター 平賀源内
これも、『べらぼう』関連の番組の一つといっていい。だが、意図的にだろうが、蔦屋重三郎も、田沼意次も、名前が出てこなかった。
私ぐらいの世代だと、平賀源内は、学校の教科書で出てきたのを憶えている。それから、NHKのドラマ『天下御免』(調べてみると、このドラマの脚本は早坂暁である)のことを記憶している人も多いだろう。その後、平賀源内は、いろんな歴史番組などで取りあげられてきている。
高松藩の藩主、松平頼恭の作った『衆鱗図』のことは、以前にこの番組でもとりあげていたことがあった。江戸時代に、博物学に熱中した大名たちのことである。博物大名、本草学大名、という人たちが多く現れた時代であり、その時代の空気のなかに平賀源内もいたという理解でいいだろうか。
平賀源内は多才な人であったので、どこに焦点をあてるかで、いろいろと語り口がある。この番組の場合は、高松藩でのことから、江戸での活躍、そして、その死にいたるまでを、かなり分かりやすくまとめていたという印象がある。基本としては、平賀源内の才能を、どう活かすか……ということになる。
江戸時代に盛んだった学問として本草学がある。今でいう博物学である。現代の科学、厳密にはサイエンスという方法論、ではない、それ以前に、自然界にあるいろんな植物や動物などについて観察し記述していく学問である。本草学は、江戸時代までは、人文学(今でいう)と離れたものではなかった。
この流れなのかもしれないが、江戸時代以前、あるいは、中国に由来する本草学の書物についての文献学的な研究は、国語学、日本語学の研究分野の一つということもある。(私は、この方面については、あまり詳しい知識はないけれど。)
身分や階層を超えた、知の世界。知のエンターテイメントでの、さまざまな人びとの交流ということは、江戸時代を特徴付けることの一つといっていいだろう。
私の場合、自分の専門に近いところで理解できることとしては、本居宣長の仕事がある。『紫文要領』などは、江戸の知の一つの頂点といえるかもしれない。無論、宣長の研究としては、『古事記伝』をあげなければならないが。
平賀源内が、江戸で、薬品会を開催するとき、全国から展示品を集めた、その集め方が興味深い。全国に取次所を作って、そこに持って行く。そして、そこから、(いまでいう料金着払いで)江戸に集める。このようなシステムが可能になった、全国規模の情報通信と物流のネットワークが、形成されていたことになる。(番組ではこのことには言及がなかったが、私は、これこそ重要な歴史のポイントだと思う。)
平賀源内の戯作は、今までのところ、日本文学研究の領域では、名前は知っているが、その作品をまともに論じるということはあまりなかったかと思う。私もその一人である。その作品名は知識としては知っているのだが、それ以上ということはなかった。文学者としての平賀源内についての研究が、これからさかんになっていくことだろうと思う。
NHKの作った番組だから、大阪万博にかこつけて、何か役にたつ……という面をいいたかったという気がするのだが、知的エンタテイメントというのは、それが何の役に立つか、というようなことはあまり考えないものだと、私は思っている。とにかく、それをやって楽しいからやる、これにつきる。そして、これが、今の日本の大学や学問の世界において、急速に失われてきていることである。
讃岐の生まれということで、ため池を管理する農業は、商品作物の栽培を計画的に行うことである、と磯田道史がいっていたが、これはそのとおりだと思う。このような藩だからこそ、平賀源内が生まれたというべきだろうか。
和三盆の製造に平賀源内がかかわっていたということは、正直いって知らなかった。なるほどそういうこともあるのかと、思ったことになる。
平賀源内の西洋画と、歌麿の大首絵、興味深い問題だと思うが、学問的には慎重な議論が必要になるだろう。
江戸時代の「知的財産権」は非常に面白いテーマだとは思うが、いろいろと考えることがある。伝統芸能の伝承とか、同好の士によるサークル(俳諧や狂歌など)とか、家塾における門弟の立場とか、いろいろと今日とは違ったところがあったと思う。
2025年2月12日記
英雄たちの選択 江戸を駆けたマルチクリエーター 平賀源内
これも、『べらぼう』関連の番組の一つといっていい。だが、意図的にだろうが、蔦屋重三郎も、田沼意次も、名前が出てこなかった。
私ぐらいの世代だと、平賀源内は、学校の教科書で出てきたのを憶えている。それから、NHKのドラマ『天下御免』(調べてみると、このドラマの脚本は早坂暁である)のことを記憶している人も多いだろう。その後、平賀源内は、いろんな歴史番組などで取りあげられてきている。
高松藩の藩主、松平頼恭の作った『衆鱗図』のことは、以前にこの番組でもとりあげていたことがあった。江戸時代に、博物学に熱中した大名たちのことである。博物大名、本草学大名、という人たちが多く現れた時代であり、その時代の空気のなかに平賀源内もいたという理解でいいだろうか。
平賀源内は多才な人であったので、どこに焦点をあてるかで、いろいろと語り口がある。この番組の場合は、高松藩でのことから、江戸での活躍、そして、その死にいたるまでを、かなり分かりやすくまとめていたという印象がある。基本としては、平賀源内の才能を、どう活かすか……ということになる。
江戸時代に盛んだった学問として本草学がある。今でいう博物学である。現代の科学、厳密にはサイエンスという方法論、ではない、それ以前に、自然界にあるいろんな植物や動物などについて観察し記述していく学問である。本草学は、江戸時代までは、人文学(今でいう)と離れたものではなかった。
この流れなのかもしれないが、江戸時代以前、あるいは、中国に由来する本草学の書物についての文献学的な研究は、国語学、日本語学の研究分野の一つということもある。(私は、この方面については、あまり詳しい知識はないけれど。)
身分や階層を超えた、知の世界。知のエンターテイメントでの、さまざまな人びとの交流ということは、江戸時代を特徴付けることの一つといっていいだろう。
私の場合、自分の専門に近いところで理解できることとしては、本居宣長の仕事がある。『紫文要領』などは、江戸の知の一つの頂点といえるかもしれない。無論、宣長の研究としては、『古事記伝』をあげなければならないが。
平賀源内が、江戸で、薬品会を開催するとき、全国から展示品を集めた、その集め方が興味深い。全国に取次所を作って、そこに持って行く。そして、そこから、(いまでいう料金着払いで)江戸に集める。このようなシステムが可能になった、全国規模の情報通信と物流のネットワークが、形成されていたことになる。(番組ではこのことには言及がなかったが、私は、これこそ重要な歴史のポイントだと思う。)
平賀源内の戯作は、今までのところ、日本文学研究の領域では、名前は知っているが、その作品をまともに論じるということはあまりなかったかと思う。私もその一人である。その作品名は知識としては知っているのだが、それ以上ということはなかった。文学者としての平賀源内についての研究が、これからさかんになっていくことだろうと思う。
NHKの作った番組だから、大阪万博にかこつけて、何か役にたつ……という面をいいたかったという気がするのだが、知的エンタテイメントというのは、それが何の役に立つか、というようなことはあまり考えないものだと、私は思っている。とにかく、それをやって楽しいからやる、これにつきる。そして、これが、今の日本の大学や学問の世界において、急速に失われてきていることである。
讃岐の生まれということで、ため池を管理する農業は、商品作物の栽培を計画的に行うことである、と磯田道史がいっていたが、これはそのとおりだと思う。このような藩だからこそ、平賀源内が生まれたというべきだろうか。
和三盆の製造に平賀源内がかかわっていたということは、正直いって知らなかった。なるほどそういうこともあるのかと、思ったことになる。
平賀源内の西洋画と、歌麿の大首絵、興味深い問題だと思うが、学問的には慎重な議論が必要になるだろう。
江戸時代の「知的財産権」は非常に面白いテーマだとは思うが、いろいろと考えることがある。伝統芸能の伝承とか、同好の士によるサークル(俳諧や狂歌など)とか、家塾における門弟の立場とか、いろいろと今日とは違ったところがあったと思う。
2025年2月12日記
ザ・バックヤード「天王寺動物園」 ― 2025-02-17
2025年2月17日 當山日出夫
ザ・バックヤード 天王寺動物園
天王寺動物園には、入ったことがない。我が家から比較的簡単に行けるところにあるのだが、行ったことがない。行くなら、京都の動物園か、さもなくば、和歌山の方になる。無論、パンダが目的である。
このごろの動物園、また、水族館でもそうだが、なるべく自然の環境に近い展示をしようとこころみていることは、ここでもそうである。だが、ライオンとシマウマが、同じ視野で見られることに、それほど意味があるとも思えないのだが、これは、ちょっとひねくれすぎた見方だろうか。
クロサイの行動の記録、分析は、興味深い。飼育下にある動物だからこそできる調査ということになる。おそらく、この他にも血液の検査とか、尿の検査とかも、化学的な分析は行っているのかと思うが、はたしてどうなのだろうか。
コンポストで、草食動物の糞を処理するというのは、合理的といっていいだろう。気になったのは、肉食動物の糞はゴミとして廃棄するということであったが、なぜ、そうなのか、ちょっと気になる。自然界では、草食動物の糞と、肉食動物の糞と、どういう過程で、分解されていくことになるのか、研究はあるのかとも思うが、はたしてどうなのだろうか。
2025年2月14日記
ザ・バックヤード 天王寺動物園
天王寺動物園には、入ったことがない。我が家から比較的簡単に行けるところにあるのだが、行ったことがない。行くなら、京都の動物園か、さもなくば、和歌山の方になる。無論、パンダが目的である。
このごろの動物園、また、水族館でもそうだが、なるべく自然の環境に近い展示をしようとこころみていることは、ここでもそうである。だが、ライオンとシマウマが、同じ視野で見られることに、それほど意味があるとも思えないのだが、これは、ちょっとひねくれすぎた見方だろうか。
クロサイの行動の記録、分析は、興味深い。飼育下にある動物だからこそできる調査ということになる。おそらく、この他にも血液の検査とか、尿の検査とかも、化学的な分析は行っているのかと思うが、はたしてどうなのだろうか。
コンポストで、草食動物の糞を処理するというのは、合理的といっていいだろう。気になったのは、肉食動物の糞はゴミとして廃棄するということであったが、なぜ、そうなのか、ちょっと気になる。自然界では、草食動物の糞と、肉食動物の糞と、どういう過程で、分解されていくことになるのか、研究はあるのかとも思うが、はたしてどうなのだろうか。
2025年2月14日記
最近のコメント