100分de名著「デュルケーム“社会分業論” (3)「連帯」とそれをはばむもの」2025-02-19

2025年2月19日 當山日出夫

100分de名著 デュルケーム“社会分業論” (3)「連帯」とそれをはばむもの

この回をみながら、あるいは、これまでの回でもそうだったのだが、この企画……『社会分業論』……のなかで、ジェンダーについてどう言及するか、しないか、ということがある。これまでのところでは、まったく触れていない。

無論、ジェンダー論が盛んになったのは、近年のこと、今世紀になってからのこと、であるから、デュルケームの時代に、そのような概念やフェミニズムの議論が無かったとしても、それで特に問題だとは思わない。(ことばとしては、ジェンダーという用語はあったはずである。これは、言語の文法上の性のことである。男性名詞であるとか、女性名詞であるとか、というときの用語である。私が学生のときに憶えたことばは、まさに文法用語として憶えたのであった。)

今の時代になって、過去の社会的分業を考えるとなると、どうしても、男女の性差と社会的役割分担、という論点を避けることはできない。かつて、そのようなことがあったことは確かだし(すべての領域において、すべての地域において、ということではないかもしれない、またそれは時代や地域によって多様なものであった)、それについて、現代の視点からは非常に厳しい価値判断で見ることになっている。まあ、これも、「ジェンダーで考える~~」というテーマで、何について論じるか、という先着順争いのゲームになっているようなところもあるかと、私は思って見ているのだが。これが、一昔前なら、「~~の社会史」だった。

ともあれ、分業が連帯……特に、有機的連帯……を生むものである、ということは、確かなことだろうと思う。だが、これも、自分自身が、自分が分業としてやっていることが、社会のなかでどういう意味があることのか、自覚できれば、という条件がつくことになる。この意味で思い出すのは、『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)である。

また、デュルケームの時代は、まさに、マルクスが『資本論』を書いた時代でもある。この二人が、特に変わった現実を見ていたということはないだろう。十九世紀ヨーロッパの工業化社会のなかで、悲惨な生活を余儀なくされている工場労働者の姿は、目に入っていたはずである。そこから、どういうことを考えたのか、という意味では、これは興味深いことでもある。

有機的連帯が意味を持つのは、おそらくは、近代ヨーロッパの国民国家の内部において、ということもあるかもしれない。現実には、海外の殖民地で奴隷的に働いている人たちがいたはずだが、こういう人たちのことは、おそらくデュルケームの視野には入っていなかった、と考えていいだろうか。

2025年2月18日記

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
このブログの名称の平仮名4文字を記入してください。

コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://yamamomo.asablo.jp/blog/2025/02/19/9755718/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。