木村多江のいまさらですが「縄文時代〜DNA研究と考古学から見た最前線〜」 ― 2025-03-04
2025年3月4日 當山日出夫
木村多江の、いまさらですが 縄文時代〜DNA研究と考古学から見た最前線〜
たまたまテレビの番組表で見つけたので録画しておいて見た。
かなり手際よく、最新の研究成果をまとめていたと感じる。これが、NHKでも他の番組だったら、必要以上にドラマチックに盛り上げて、世紀の大発見だ、とでもしかねないところだが、そういうことはなかった。
ただ、やはり余計だなと感じたのは、岡本太郎のこと。岡本太郎を芸術家としては評価するが、しかし、彼が縄文時代について何を思ったかを、ここで持ち出すことはないだろう。
縄文時代に限らず、古代の人びとの精神面、文化面、あるいは、社会構造というようなことは、かなりの想像でなければ語ることができないことである。特に、宗教というようなことについては、私の考えでは、無理である。可能なこととしては、現在のいわゆる未開民族というような生活を残しているような人びとの暮らしから、文化人類学の知見を借りて、何か言えるかどうか、というぐらいのことだろう。それも、想像の域を出るものではない。
DNAから、いわゆる日本人の成り立ちを考えるという研究は、近年になって急速におこってきた学問である。基本的に、現在の人類(ホモ・サピエンス)については、DNAによる差違はまったくといっていいぐらいない。また、絶滅したネアンデルタール人のDNAも引き継いでいる。混雑したということは、分かっている。
だから、これを根拠に、「日本人」だとか「アーリア人」だとかいうことは意味のないことになる。「黒人」が劣っているとか、というような議論は無意味である、ということになる。
一方で、同じ論理で、「アイヌ人」の純粋さというような概念も、否定されることになる。(こういうことは、あまり言われないと思っているが。)
つまりは、「民族」とか「人種」とかという概念は、社会構成的なものである、ということになる。しかし、だから無意味である……とはならない、このあたりの議論が難しいところだろう。
「想像の共同体」ということを再確認することになる……こういうところに落ち着くのと思っている。これはある意味では虚構である。だが、その虚構は、人びとのものの感じ方や考え方を、強く規定するものである。そして、多くの人は、自分がどの「想像の共同体」に属することになるかを、自分の自由意志で選択することはできない。すくなくとも非常に困難である。いわば、宿命的なものとして受け入れざるをえない。人間とは、人間の社会とは、そういうものである。
この番組では、縄文時代について語っていたのだが、次の弥生時代、古墳時代、その後の時代にいたるまで、日本列島に住んできた「日本人」は、DNAの観点からは混雑した状態として今にいたっている。この事実をふまえて、では、「日本人」という歴史的な概念をどう構築していくのか、というのが歴史学の課題だろう。
素朴なDNA決定論でもなく、また、社会構築主義の肯定でもなく、人間とはどのようにして生きてきたものなのかを、ダイナミックに、また、多面的、総合的に、考えることが重要になってくる。
2025年2月25日記
木村多江の、いまさらですが 縄文時代〜DNA研究と考古学から見た最前線〜
たまたまテレビの番組表で見つけたので録画しておいて見た。
かなり手際よく、最新の研究成果をまとめていたと感じる。これが、NHKでも他の番組だったら、必要以上にドラマチックに盛り上げて、世紀の大発見だ、とでもしかねないところだが、そういうことはなかった。
ただ、やはり余計だなと感じたのは、岡本太郎のこと。岡本太郎を芸術家としては評価するが、しかし、彼が縄文時代について何を思ったかを、ここで持ち出すことはないだろう。
縄文時代に限らず、古代の人びとの精神面、文化面、あるいは、社会構造というようなことは、かなりの想像でなければ語ることができないことである。特に、宗教というようなことについては、私の考えでは、無理である。可能なこととしては、現在のいわゆる未開民族というような生活を残しているような人びとの暮らしから、文化人類学の知見を借りて、何か言えるかどうか、というぐらいのことだろう。それも、想像の域を出るものではない。
DNAから、いわゆる日本人の成り立ちを考えるという研究は、近年になって急速におこってきた学問である。基本的に、現在の人類(ホモ・サピエンス)については、DNAによる差違はまったくといっていいぐらいない。また、絶滅したネアンデルタール人のDNAも引き継いでいる。混雑したということは、分かっている。
だから、これを根拠に、「日本人」だとか「アーリア人」だとかいうことは意味のないことになる。「黒人」が劣っているとか、というような議論は無意味である、ということになる。
一方で、同じ論理で、「アイヌ人」の純粋さというような概念も、否定されることになる。(こういうことは、あまり言われないと思っているが。)
つまりは、「民族」とか「人種」とかという概念は、社会構成的なものである、ということになる。しかし、だから無意味である……とはならない、このあたりの議論が難しいところだろう。
「想像の共同体」ということを再確認することになる……こういうところに落ち着くのと思っている。これはある意味では虚構である。だが、その虚構は、人びとのものの感じ方や考え方を、強く規定するものである。そして、多くの人は、自分がどの「想像の共同体」に属することになるかを、自分の自由意志で選択することはできない。すくなくとも非常に困難である。いわば、宿命的なものとして受け入れざるをえない。人間とは、人間の社会とは、そういうものである。
この番組では、縄文時代について語っていたのだが、次の弥生時代、古墳時代、その後の時代にいたるまで、日本列島に住んできた「日本人」は、DNAの観点からは混雑した状態として今にいたっている。この事実をふまえて、では、「日本人」という歴史的な概念をどう構築していくのか、というのが歴史学の課題だろう。
素朴なDNA決定論でもなく、また、社会構築主義の肯定でもなく、人間とはどのようにして生きてきたものなのかを、ダイナミックに、また、多面的、総合的に、考えることが重要になってくる。
2025年2月25日記
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