映像の世紀バタフライエフェクト「死の大地 ドイツ敗走の2200キロ」2025-03-05

2025年3月5日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 死の大地 ドイツ敗走の2200キロ

ここ数年で流れが変わってきたと感じる。おそらく一〇年前だったら、独ソ戦のことをこのような視点で描くことはなかっただろう。変化のきっかけにになったのは、やはり、『独ソ戦』(大木毅、岩波新書)の存在が大きいかと、思うところがある。それに加えて、ロシアとウクライナの戦争で、かつてのヨーロッパでの戦争の記憶がよみがえったということもある。プーチンに、スターリンを重ねてイメージするというところが、(少なくとも日本での報道などを見ていると)感じるところがある。むろん、ロシアにおける、スターリン時代の再評価ということもあるのだろうが。

これまでだったら、とにかく、ヒトラーが悪かった、ということを語っておけば番組が作れた。しかし、ウクライナでの戦争を契機にして、かつてのヨーロッパからソ連にかけての地域で、どんな戦いがおこなわれていたのか、それは、それ以前のどのような歴史的背景があってのことなのか、そして、その後、現在にいたるまでどんな影響を残しているのか……人びとの歴史の記憶、民族の記憶(とでも言っておくことになるが)が、そう簡単に正邪善悪で語れるものではない、ということが確認されてきたということなのかと思う。

独ソ戦、スターリングラード攻防戦、その戦場は悲惨で残酷なものだったことは、映像の語るとおりなのだが、このときに思っておくべきこととしては、そこに映っている兵士(ドイツ軍であれ、ソ連軍であれ)は、もし戦争ということがなければ、平穏な市民生活をおくっていた人びとだったろうということである。そして、戦争が終われば、まさに鬼畜としかいいようのない、ドイツ兵も、ソ連兵も、普通の生活にもどっていったにちがいないということである。

歴史のなかに、ヒトラーが出てきて、スターリンが出てきて、様々な民族と国家の歴史が錯綜するなかでこうなったのだろう……やや、無責任な言い方になるかもしれないが、覚めた目で見てみるならば、こうとしか言いようがないかもしれない。このような人びとの感情、強いていえば民族の怨念、というべきものを、現在の国民国家の制度の枠組みのなかで、どうコントロールしていくかということが、為政者にとっての課題ということになると、今の私としては思っている。

プーチンやゼレンスキーの考えていることとは別に、ロシアやウクライナの人びとが、さらに、そのなかでも地域や階層によって、あるいは民族によって、どのような歴史の心情のもとに生きているのか、これは落ち着いて考えるべきことのように思う。

と同時に、今、行われている戦闘や残虐行為に対して、とにかくストップをかけることも、必要である。特に、ウクライナに限らず、イスラエルでも、ミャンマーでも、そうであるべきだと思う。(だからといって、侵略者が勝利する形にしてはならない、というジレンマもあるのだが。)

2025年3月4日記

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