3か月でマスターする江戸時代「(9)どのように「日本的文化」が生まれ、発展した?」 ― 2025-03-07
2025年3月7日 當山日出夫
3か月でマスターする江戸時代 (9)どのように「日本的文化」が生まれ、発展した?
この回は、化政文化、江戸の庶民文化という話し。
見ながら思ったことを書いておく。
蔦重関係の番組を見て書いたときにも書いたことなのだが、浮世絵、喜多川歌麿や東洲斎写楽は、たしかに蔦重のプロデュースということになる。しかし、同時に忘れてはならないことは、江戸時代の浮世絵は、その逸品の多くは海外にある。何故ならば、日本から流出したからであり、何故流出したのかいえば、それは、紙くずだったからである。(ちょっと極端に言えば、ということにはなるが。)
日本で浮世絵の価値が再発見されるのは、ヨーロッパで高く評価されたのをきっかけに、日本でも評価するようになったということである。美術、芸術の評価が時代によって変わることは、よくあることである。浮世絵が、それが作られた江戸時代からそのまま、人びとに愛好され鑑賞されてきたというわけではない。
同じようなことは、昨年の大河ドラマ『光る君へ』で出てきたことになる『源氏物語』でもいえる。今日のような評価が定まったのは、限定していえば、戦後になってからである。それ以前は、姦淫の書という評価がなされていた時代もある。あるいは、狂言綺語とも言われた。その一方、日本の古典として読まれてきた歴史もある。現存する写本などで、いわゆる嫁入り本といわれるようなあつかいがされる作品でもあった。無論、本居宣長のことを忘れるわけにはいかない。江戸時代には板本も刊行されている。いろいろあって、明治になってから、江戸時代の国学をふまえて、国文学という研究が成立するときに、日本の古典文学として、新たに定義され、見出され、価値を与えられた、ということもある。
江戸の外食文化については、民俗学的にはどう考えるべきことになるのだろうか。民俗学的な用語でいえば、外食は、別火、である。これが日常的に人びとに受け入れられるようになった社会というのは、根本的に人びとの生活の意識が変化してきたということになるのかもしれない。それが、近世における、江戸という都市の文化といっていいだろうか。
黄表紙、洒落本、と言っていたが、黄表紙は面白い短篇(絵入り)ということになるかと思うが、洒落本は遊廓のことをもっぱらに描いた作品である。これは、吉原などを考えるときに、一緒にあつかうのが適当かもしれない。
「洒落本大成」が刊行になったのは、私が学生のときのことだったが、これは買うことはなかった。今では、国立国語研究所のコーパスとして利用できる。なお、私が学生のころ出た本としては、「三田村鳶魚全集」もあるが、これも買うことはなかった。(「契沖全集」「宣長全集」は持っているが。)日本語史の資料として、洒落本は、話しことば資料……厳密には、その時代の遊廓における遊女や客の話しことばを、書きことばとして残したもの、とでもいうことになるが……として、あつかうことになる。
気になったシーンとしては、寺子屋の再現の部分。今の学校の教室のように、整然と机が並べられ、先生が生徒たちの前に座っていた。まさに、パノプティコンとしての学校の教室である。だが、江戸時代の寺子屋というのは、生徒それぞれが自由に学習し、指導する、というものであったということは、言われていることかと思う。番組で映っていた、江戸時代の寺子屋を描いた絵が、まさにそうであった。
江戸時代のリテラシが高かったというのは、そのとおりだろう。これも、戯作などでどのような文字を読めたのかを推測してみるならば、おそらくは、仮名と簡単な漢字であっただろう。このレベルのリテラシで読めるものも多くあったことは確かである。また、このようなリテラシは、江戸の庶民として、男女を問わずにあったと考えていいかと思う。(それを立証するには、どういう史料になるのかというと、ちょっと考えることになるが。庶民の女性が書いたことが確実な文書史料は、どれぐらいあると考えていいだろうか。)ある程度以上の階層の女性ならば、「女大学」「女重宝記」は読むことができた、と考えていいだろう。
その一方で、漢文の素養がなければ読めないような本もたくさん出版されていたし、写本としても多く残っている。
さらには、すこし昔に、中村真一郎が書たように、あるいは、今なら、揖斐高さんでもいいが、江戸時代の漢文、漢詩、という分野のことも、忘れてはならないことになる。こちらの方は、江戸の戯作や浮世絵に比べて、ぐっと研究者の数が減ることになるはずだが。(しかし、残っている作品の数は膨大である。)
(これも何度も書いていることだが)この時代、狂歌が流行ったことはたしかである。今でいう、サブカルチャーといってもいいだろう。だが、これは、非常に高度な教養がないとできないものであったことも、重要である。古代からの和歌の流れをふまえて、基本的な和歌の知識がないと、狂歌は詠めないし、また、読んでも意味を理解できない。ただ、五七五七七にことばをつらねただけのものではない。
サブカルチャーが隆盛になる時代というのは、同時に、正統的、伝統的とされるハイカルチャーというべきものが、しっかりと確立していることがある。この部分を見落としてはならないだろう。そして、社会の階層における、上下の交流があった時代ということにもなる。
吉原については、いろいろと言うべきことがあるはずである。あまりこういう視点からは言われないだろうと思うことを書いておくと、幕府公認の悪所としての吉原というのは、おそらくは、客の側からすると、ぼったくられる心配がない、という安心感でもあったはずである。吉原細見は、見方を変えれば、吉原の明朗会計の証左でもあった、といえるかもしれない。(これも、客の男性の立場から見ればということであり、遊女の立場からすれば、また違ったことを語ることになるにちがいないが。)
2025年3月6日記
3か月でマスターする江戸時代 (9)どのように「日本的文化」が生まれ、発展した?
この回は、化政文化、江戸の庶民文化という話し。
見ながら思ったことを書いておく。
蔦重関係の番組を見て書いたときにも書いたことなのだが、浮世絵、喜多川歌麿や東洲斎写楽は、たしかに蔦重のプロデュースということになる。しかし、同時に忘れてはならないことは、江戸時代の浮世絵は、その逸品の多くは海外にある。何故ならば、日本から流出したからであり、何故流出したのかいえば、それは、紙くずだったからである。(ちょっと極端に言えば、ということにはなるが。)
日本で浮世絵の価値が再発見されるのは、ヨーロッパで高く評価されたのをきっかけに、日本でも評価するようになったということである。美術、芸術の評価が時代によって変わることは、よくあることである。浮世絵が、それが作られた江戸時代からそのまま、人びとに愛好され鑑賞されてきたというわけではない。
同じようなことは、昨年の大河ドラマ『光る君へ』で出てきたことになる『源氏物語』でもいえる。今日のような評価が定まったのは、限定していえば、戦後になってからである。それ以前は、姦淫の書という評価がなされていた時代もある。あるいは、狂言綺語とも言われた。その一方、日本の古典として読まれてきた歴史もある。現存する写本などで、いわゆる嫁入り本といわれるようなあつかいがされる作品でもあった。無論、本居宣長のことを忘れるわけにはいかない。江戸時代には板本も刊行されている。いろいろあって、明治になってから、江戸時代の国学をふまえて、国文学という研究が成立するときに、日本の古典文学として、新たに定義され、見出され、価値を与えられた、ということもある。
江戸の外食文化については、民俗学的にはどう考えるべきことになるのだろうか。民俗学的な用語でいえば、外食は、別火、である。これが日常的に人びとに受け入れられるようになった社会というのは、根本的に人びとの生活の意識が変化してきたということになるのかもしれない。それが、近世における、江戸という都市の文化といっていいだろうか。
黄表紙、洒落本、と言っていたが、黄表紙は面白い短篇(絵入り)ということになるかと思うが、洒落本は遊廓のことをもっぱらに描いた作品である。これは、吉原などを考えるときに、一緒にあつかうのが適当かもしれない。
「洒落本大成」が刊行になったのは、私が学生のときのことだったが、これは買うことはなかった。今では、国立国語研究所のコーパスとして利用できる。なお、私が学生のころ出た本としては、「三田村鳶魚全集」もあるが、これも買うことはなかった。(「契沖全集」「宣長全集」は持っているが。)日本語史の資料として、洒落本は、話しことば資料……厳密には、その時代の遊廓における遊女や客の話しことばを、書きことばとして残したもの、とでもいうことになるが……として、あつかうことになる。
気になったシーンとしては、寺子屋の再現の部分。今の学校の教室のように、整然と机が並べられ、先生が生徒たちの前に座っていた。まさに、パノプティコンとしての学校の教室である。だが、江戸時代の寺子屋というのは、生徒それぞれが自由に学習し、指導する、というものであったということは、言われていることかと思う。番組で映っていた、江戸時代の寺子屋を描いた絵が、まさにそうであった。
江戸時代のリテラシが高かったというのは、そのとおりだろう。これも、戯作などでどのような文字を読めたのかを推測してみるならば、おそらくは、仮名と簡単な漢字であっただろう。このレベルのリテラシで読めるものも多くあったことは確かである。また、このようなリテラシは、江戸の庶民として、男女を問わずにあったと考えていいかと思う。(それを立証するには、どういう史料になるのかというと、ちょっと考えることになるが。庶民の女性が書いたことが確実な文書史料は、どれぐらいあると考えていいだろうか。)ある程度以上の階層の女性ならば、「女大学」「女重宝記」は読むことができた、と考えていいだろう。
その一方で、漢文の素養がなければ読めないような本もたくさん出版されていたし、写本としても多く残っている。
さらには、すこし昔に、中村真一郎が書たように、あるいは、今なら、揖斐高さんでもいいが、江戸時代の漢文、漢詩、という分野のことも、忘れてはならないことになる。こちらの方は、江戸の戯作や浮世絵に比べて、ぐっと研究者の数が減ることになるはずだが。(しかし、残っている作品の数は膨大である。)
(これも何度も書いていることだが)この時代、狂歌が流行ったことはたしかである。今でいう、サブカルチャーといってもいいだろう。だが、これは、非常に高度な教養がないとできないものであったことも、重要である。古代からの和歌の流れをふまえて、基本的な和歌の知識がないと、狂歌は詠めないし、また、読んでも意味を理解できない。ただ、五七五七七にことばをつらねただけのものではない。
サブカルチャーが隆盛になる時代というのは、同時に、正統的、伝統的とされるハイカルチャーというべきものが、しっかりと確立していることがある。この部分を見落としてはならないだろう。そして、社会の階層における、上下の交流があった時代ということにもなる。
吉原については、いろいろと言うべきことがあるはずである。あまりこういう視点からは言われないだろうと思うことを書いておくと、幕府公認の悪所としての吉原というのは、おそらくは、客の側からすると、ぼったくられる心配がない、という安心感でもあったはずである。吉原細見は、見方を変えれば、吉原の明朗会計の証左でもあった、といえるかもしれない。(これも、客の男性の立場から見ればということであり、遊女の立場からすれば、また違ったことを語ることになるにちがいないが。)
2025年3月6日記
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