英雄たちの選択「シリーズ 古墳の時代 (2)八角墳に眠る女帝〜斉明天皇の“石の王都”〜」 ― 2025-03-12
2025年3月12日 當山日出夫
英雄たちの選択 シリーズ 古墳の時代 (2)八角墳に眠る女帝〜斉明天皇の“石の王都”〜
シリーズの第二回目である。
日本の古代史を語るとき、「天皇」「日本」ということばをつかわず、また、「大化の改新」ともいわずに(「乙巳の変」とはいっていたが)、古代天皇制国家の成立のプロセスについて説明しようという一つのこころみだったと思う。
天皇のことばは、斉明天皇(これは諡号で決まってしまっているから変えようがない)というような場合をのぞいて、使っていない。大王(おおきみ)といっている。それ以外は、豪族といっている。貴族とはいっていない。
日本ともいわず、倭国といっている。
このあたりのことは、かなり意図的にことばを選んで番組を作っていたことが分かる。
こういう方針は、天皇制国家といってしまうと、近代になってからの、極端にいえば昭和戦前の国体明徴運動があったような時期の、わずか一〇年ほどの期間にすぎないが、この時の大日本帝国のイメージを、古代の日本列島にあった統治のあり方に、重ね合わせてしまうことになる。おうおうにして、このように語られる古代史が多い。これから距離を置こうとしたという意図はあるのだろうと、思ってみることになる。
そうはいっても、古代日本の大王(あるいは、もう天皇といった方がいいかもしれないが)を中心とした、小中華ととらえるのは、はたしてどうだろうか。中国の王朝を考えるときに、中華思想が重要だとは思うが、古代の日本(あるいは倭国)において、そう考えただろうか。ただ、大君(天皇)を中心とした中央集権国家というだけではいけないのだろうか。
小中華というならば、おそらく古代からの東アジアにあった、中国の周辺の国々の多くは、そういえることになるかもしれない。日本だけが、特に小中華(この場合、華夷秩序として、どの地域を夷狄と認識していたのかが問題だが)を意識したというならば、このことを論じなければならない。学問的には、証明しなければならない。まあ、番組の流れとしては、隼人や蝦夷を夷狄と意識してということになるのだろうか。
斉明天皇をとりあげて、古代国家の成立を語ることが、男性中心の歴史観に対する疑問となりうる、まあ、これはそういう側面もあるだろう。
だが、それをいうならば、古代の女性について、古くは卑弥呼から、斉明天皇について、シャーマンとして、霊的能力があって、それで、人びとの心をつかんだ、という考え方が、そもそも男性側から見た発想であるのかもしれない。また、シャーマンということばについても、やや安易に使いすぎているという気がしないでもない。(文化人類学や民俗学の立場からは、いろいろと考えることがあるにちがいない。少なくとも、シャーマンといったとき、女性に限定されることはないはずである。)
余計なことになるが、古代の女性の霊的能力ということをいうならば、斉明天皇が水の祭祀をおこなったということの延長には、当然ながら、「水の女」ということになる。折口信夫のいったことである。慶應の文学部出身の磯田道史が、このことばについて、知らないはずはないだろう。(ただし、折口信夫の「水の女」の論については、論理的にはかなり無理がある。これは、「古代研究」を精読すると分かる。)
前方後円墳がなくなり、八角形の古墳になった。そして、それも作られなくなる。この過程について、お墓をどう作るかということで、権威を示す時代ではなくなったということは、そのとおりかもしれない。だが、その一方で、実際に行われたことは、王都の造営であった。そのゆきつく先は、平城京ということになるだろう。また、それにともなって巨大な寺院も作られた。土木工事や建築によって、大王(天皇)の支配の威信を誇示するということは、なくなったのではなく、形を変えて巨大化したというべきだろう。
「熟田津に……」の歌であるが、額田王については分からないことがあるとして、別に古代のこのころ、斉明天皇になりかわって歌を詠むということがあっても、そう不自然なことではなかったろう。強いて、この歌の作者を斉明天皇に変えて解釈する必要もないと思う。古代の歌についての一般的な理解として考えることになるが。
2025年3月9日記
英雄たちの選択 シリーズ 古墳の時代 (2)八角墳に眠る女帝〜斉明天皇の“石の王都”〜
シリーズの第二回目である。
日本の古代史を語るとき、「天皇」「日本」ということばをつかわず、また、「大化の改新」ともいわずに(「乙巳の変」とはいっていたが)、古代天皇制国家の成立のプロセスについて説明しようという一つのこころみだったと思う。
天皇のことばは、斉明天皇(これは諡号で決まってしまっているから変えようがない)というような場合をのぞいて、使っていない。大王(おおきみ)といっている。それ以外は、豪族といっている。貴族とはいっていない。
日本ともいわず、倭国といっている。
このあたりのことは、かなり意図的にことばを選んで番組を作っていたことが分かる。
こういう方針は、天皇制国家といってしまうと、近代になってからの、極端にいえば昭和戦前の国体明徴運動があったような時期の、わずか一〇年ほどの期間にすぎないが、この時の大日本帝国のイメージを、古代の日本列島にあった統治のあり方に、重ね合わせてしまうことになる。おうおうにして、このように語られる古代史が多い。これから距離を置こうとしたという意図はあるのだろうと、思ってみることになる。
そうはいっても、古代日本の大王(あるいは、もう天皇といった方がいいかもしれないが)を中心とした、小中華ととらえるのは、はたしてどうだろうか。中国の王朝を考えるときに、中華思想が重要だとは思うが、古代の日本(あるいは倭国)において、そう考えただろうか。ただ、大君(天皇)を中心とした中央集権国家というだけではいけないのだろうか。
小中華というならば、おそらく古代からの東アジアにあった、中国の周辺の国々の多くは、そういえることになるかもしれない。日本だけが、特に小中華(この場合、華夷秩序として、どの地域を夷狄と認識していたのかが問題だが)を意識したというならば、このことを論じなければならない。学問的には、証明しなければならない。まあ、番組の流れとしては、隼人や蝦夷を夷狄と意識してということになるのだろうか。
斉明天皇をとりあげて、古代国家の成立を語ることが、男性中心の歴史観に対する疑問となりうる、まあ、これはそういう側面もあるだろう。
だが、それをいうならば、古代の女性について、古くは卑弥呼から、斉明天皇について、シャーマンとして、霊的能力があって、それで、人びとの心をつかんだ、という考え方が、そもそも男性側から見た発想であるのかもしれない。また、シャーマンということばについても、やや安易に使いすぎているという気がしないでもない。(文化人類学や民俗学の立場からは、いろいろと考えることがあるにちがいない。少なくとも、シャーマンといったとき、女性に限定されることはないはずである。)
余計なことになるが、古代の女性の霊的能力ということをいうならば、斉明天皇が水の祭祀をおこなったということの延長には、当然ながら、「水の女」ということになる。折口信夫のいったことである。慶應の文学部出身の磯田道史が、このことばについて、知らないはずはないだろう。(ただし、折口信夫の「水の女」の論については、論理的にはかなり無理がある。これは、「古代研究」を精読すると分かる。)
前方後円墳がなくなり、八角形の古墳になった。そして、それも作られなくなる。この過程について、お墓をどう作るかということで、権威を示す時代ではなくなったということは、そのとおりかもしれない。だが、その一方で、実際に行われたことは、王都の造営であった。そのゆきつく先は、平城京ということになるだろう。また、それにともなって巨大な寺院も作られた。土木工事や建築によって、大王(天皇)の支配の威信を誇示するということは、なくなったのではなく、形を変えて巨大化したというべきだろう。
「熟田津に……」の歌であるが、額田王については分からないことがあるとして、別に古代のこのころ、斉明天皇になりかわって歌を詠むということがあっても、そう不自然なことではなかったろう。強いて、この歌の作者を斉明天皇に変えて解釈する必要もないと思う。古代の歌についての一般的な理解として考えることになるが。
2025年3月9日記
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