『坂の上の雲』「日本海海戦(後編)」2025-03-13

2025年3月13日 當山日出夫

『坂の上の雲』「日本海海戦(後編)」

ようやく終わった。最初の放送のときから見ているので、何度目かになる。このあいだ、いろいろと考えることがあった。

被害者意識でのみ見ることが庶民の歴史ではない……ということを最後に語っていたが、これには賛成する。むしろ、近年の歴史学が、あまりにも被害者意識ということで考えたがるとも感じる。極端にいえば、歴史のなかで権力に抑圧された可哀想なひと、いや、より可哀想な人を探してくるのが、歴史学の仕事である……というような雰囲気もある。

このドラマは、明治という時代を明るく描いている。これはこれで、一つのものの見方である。ただ、これは、司馬遼太郎が、昭和の戦前を軍部に支配された暗黒時代と考えるところから、さかのぼって明治という時代を見ていたから、という側面もある。

それへの賛否はあるだろうが、司馬遼太郎が、一つの歴史観を、日本の多くの人びとにうえつけたということは、認めなければならない。そのうえで、明治という時代を、さらに多面的に見ることが、これからはもとめられよう。

強いていえば、明治の時代、都市の片隅の貧民窟に生きていたような人びとの日常の喜怒哀楽のなかにも、明治という時代の光はさしこんでいただろう。(やや、かたよった考えかもしれないが。)このような視点からは、山田風太郎の明治小説を思い出してみることになる。私は、山田風太郎の明治小説は、そのほとんどの作品を、二~三回は読みかえしている。ちなみに、『坂の上の雲』は、全編を二回読んでいる。

新しい歴史学の流れからするならば、昭和の戦前と戦後の連続性を考えようという方向にある。かつては、昭和二〇年で歴史は断絶していた。端的には、いわゆる八・一五革命説などがあった。また、江戸時代の日本と、明治になってからの日本の連続性を考えることもある。明治維新によって達成されたことの多くは、江戸時代にすでにその萌芽が、日本で生まれていた、ということになる。

歴史がうつろっていくにしたがって、また、歴史観も、歴史叙述も変わっていく。そもそも、歴史とはそういうものだと思っている。

『坂の上の雲』は、傑出した歴史小説であると同時に、すぐれた明治という時代を描いたドラマである。それを、どう批判的に見るかということが、今のわれわれのなすべきことであろう。

その一方で、このごろ思うこととしては、近代以前の社会の中の人びとの意識とはどんなものであったのか、ということがある。たとえば、『遠野物語』であったり、『忘れられた日本人』であったり、『逝きし世の面影』であったり。さらには、折口信夫の「古代」も考えてみたい。おそらくそこには、近代になってから失ってしまった豊かな精神世界があったはずである。これをふくめて、日本の文化、歴史ということを考えることになるだろう。

2025年3月12日記

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