3か月でマスターする江戸時代「(10)ペリー来航まで「ボーッ」としていたのか?」2025-03-14

2025年3月14日 當山日出夫

3か月でマスターする江戸時代 (10)ペリー来航まで「ボーッ」としていたのか?

幕末の外交史については、いろいろと面白いことがあるはずである。

しかし、この番組では、肝心なことを語っていない。それは、ペリーは、どのルートで日本にやってきたのか、ということである。これは、外交史などの歴史学を専門にしている研究者なら当たり前と思って、言うのを省いてしまったことになるかもしれない。

ペリーは、太平洋を渡ってはいない。

アメリカの東海岸から、大西洋を南下し、喜望峰をめぐり、インド洋をわたり、東南アジアをぬけて、日本にやってきている。

それから、もう一つの重要なことは、日本に来る前に、琉球に寄っていることである。(また、琉米修好条約のことも、重要だろう。)

上記の二つのことは、ペリー来航を学生に教えるときには、かならず言っておくべきことではないかと思っている。

また、日本史の勉強とは直接の関係はないが、『白鯨』(メルヴィル)を読むと、まさに、この時代のアメリカの捕鯨のことが、つぶさに描かれている。鯨を捕る様子、船のなかのこと、乗組員たちのこと、など。もちろん、フィクションの部分はあるのだが、しかし、日本史を勉強するときに、『白鯨』は読んでおくべき必須の小説といっていいだろう。『白鯨』のピークオッド号は、まさにペリーと同じようなルートをたどって、太平洋に出て捕鯨をしている。

その後、ペリーの来航後、こんどは日本から咸臨丸がアメリカに行っているが、これは、太平洋航路をとって、アメリカの西海岸へ着いている。

つまり、ペリーが日本いやってきた時代というのは、アメリカからは、東回りのルートで日本をめざす航路と、西回りで太平洋を横断する航路と、二つのルートが存在した時代であり、同時に、アメリカでは、南北戦争がおこったころになる。(ペリー来航より、少し後のことになるが。)アメリカの統合と、西部へのフロンティアがひらけて、太平洋をめざすことになった時代へとつながることになる。

こういう背景をおいて考えてみると、アメリカは、イギリスがアヘン戦争で清に勝ってから、さらにそれに先んじて日本に手を伸ばしてきたということになるかと思う。結果的には、アメリカは、イギリスに勝ったことになる。これが、あるいは、その後の日本の近代にあたえた影響はおおきいというべきだろう。

2025年3月13日記

よみがえる新日本紀行「居付地蔵-熊本県五木村-」2025-03-14

2025年3月14日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行「居付地蔵-熊本県五木村-」

再放送である。2024年。オリジナルは、昭和46年(1971)。

昭和46年というと、私が高校生のころになる。

まだ五木村が残っているということに、少し驚いた、というのが正直なところである。市町村合併で消えることはなかったことになる。(もし市町村合併があったとしても、地名としては消えることはないと思うが。)

川辺川ダムも、紆余曲折があるらしい。昭和46(1971)年の時点で、工事が着工されていて、知事が立ち退きとなる住民への説明をしていた。その後、建設が撤回されて、また、豪雨災害をきっかけに工事を進めることになったりと、かなりややこしいダムであるらしい。

郵便の配達から番組は始まっていた。郵便屋さん以外には、村落の間を行き来する人がいない、まさに寒村であったことになる。(これは、郵便屋さんの本来の業務ではないと思ったりもするのだが、制度的にはどうなのだろうか。ちなみに、最近のニュースでは、デンマークで郵便事業の中止ということがあった。この流れは、世界的にどうなるだろうか。)

オリジナルの昭和46年の番組の中では、焼畑農業を、原始的な農業と言っていたが、これを、現代の視点からは、持続可能な農業と言うことになっている。これは、最近の価値観の変化ということになる。

昭和46年の時点で、五木村は過疎の村であり、焼畑で作っていた雑穀があまり需要がなくなってきたとあった。日本での生活スタイルの変化もあり、地方から都市への人の移動があり、食事の面でも、お米の御飯が普通になってきた時代である。そういえば、貧乏人は麦を食え、と言った政治家がいたけれど、昭和40年ごろまで、お米のご飯は、贅沢品、はおおげさかもしれないが、ある程度の経済力があって食べられるものでもあった。私は、かろうじて、この時代のことを体験的に記憶している。

村の結婚式の披露宴の様子などは、貴重な記録かもしれない。

五木村は、確かに人口は減っているが、(これは全国的な問題なので、特に五木村が特殊ということではないだろうが)、なんとか存続できているようである。村の中学校の生徒が、子守唄を歌うシーンを見ると、この村もなんとか生きのびることができるかもしれないと思う。

「五木の子守唄」は、私は知っている歌であるが、いったいいつごろ憶えたものか、記憶がさだかではない。いつの間にか憶えて知っていた歌ということになる。(ただ、WEBで見てみると、「五木の子守唄」も、また、「竹田の子守唄」も、放送にあたっては、いろいろと問題があった歌のようである。今の、普通の人びとの感覚としては、特に問題はないと思えるのだが。)

番組の中で、焼畑の後に造林していたのだが、この時に植林した樹木は、もう数十年以上の樹齢ということになり、木材として出荷できるかどうかだと思うのだが、この村の林業は、これからどうなのだろうか。(担い手の問題と、経済的にやっていける価格が維持されるのかどうか、ということがある。)

昭和40年代は、やはり大きく日本で生活する人びとの暮らしが変わり、産業構造が変わっていった時代である。視点を変えれば、日本列島改造論が、それなりに説得力があった時代でもある。出稼ぎということが、日常的にあった時代でもある。この時代まで、自給自足で生活する人びとの暮らしが、残っていたことになる。これは、『忘れられた日本人』(宮本常一)の生活ということになるかもしれないが。

2025年3月12日記

ザ・バックヤード「文化服装学院」2025-03-14

2025年3月14日 當山日出夫

ザ・バックヤード 文化服装学院

未経験の学生が入学してきて、一年間の勉強で、ミシンで服が作れるようになる、というのは、これはかなりすごいことかなと思う。(ただ、実際には、そこまで生きのこる学生ならば、という限定にはなるかもしれないが。)実際にミシンで服を作る技術があってこそ、その上のデザインなどのことが身につく、と理解していいのだろう。ただ、デザイン画を描ければいいということではない、ここのところが、この学校のポイントになるかと思う。

3Dデータを使って、バーチャル空間で、服をデザインする。これと、型紙の制作がインクしているので、実際にその服を作ることができる。現代の技術なら、こういうことも可能であるとは理解できる。

メタバースにおいて服を売る、これも世界的規模で見れば、かなり巨大なビジネスになっているらしい。これからは、このような分野に、活躍の場を見出していく人が増えてくることだろう。

気になるのは、ここの卒業生の進路である。学校のHPでは、成功したと考えられる事例が出ていることになるが、大多数の学生は、はたしてどうなのだろうか。これも、縫製の技術として、手に職がある、ということで、なんとかなっているかもしれないと思うが、どうなのだろうか。

2025年3月7日記