『おむすび』「家族って何なん?」 ― 2025-03-23
2025年3月23日 當山日出夫
『おむすび』「家族って何なん?」
このドラマについては、賛否が分かれている。非常に好意的に見ている人もいれば、否定的に見ている人もいる。好意的な意見のなかには、前に放送した『虎に翼』にくらべて~~というものが目につくのだが、これは、『虎に翼』が極端にひどすぎたから、比較すればよく見えるというだけのことであって、『おむすび』が特段にすぐれて良いとは思えない。
以下、否定的に見る立場から、思うことを書いてみる。
病院に入院している未成年の女の子に、ベッドの前に管理栄養士が立って、「たべり」と言って、はたして食べる気になるものなのだろうか。私の感覚としては、食事のトレーを置いて、カーテンを閉めてそっと出ていく(これは看護師の役目だろうと思うが)。そのときに、どういうことばをかけるか、あるいは、無言であるか、このあたりが脚本と演出の腕の見せどころだと思う。
これを、何回も、「たべり」「たべり」と繰り返したたみかけるように言うのは、どう考えてみてもマイナスの作用しかないように思えてならない。入院している詩は、家族とうまくいかず、逃げ出して、一人でなんとか雨露をしのいできた、しばらくの間は水しか飲んでいなかった、このような少女に対して、どのように対処するかとなると、まずは、栄養分の補給であり、同時に、心理的なカウンセリングだろう。その次の段階で、なんとかものが食べられるようになった段階で、メニューをどうするかというところで、管理栄養士の仕事ということになると思っている。だが、これも、あくまでも裏方としての仕事であって、直接、病室にやってきて、「たべり」というのが仕事ではない、と私は思うのだが、どうだろうか。
病室を抜け出して逃亡しようとしている詩を、花が偶然に見つけるのだが、ここもおかしい。普通なら、病院の廊下にうずくまっている人を見つけたら、すぐに病院の誰かを呼ぶだろう。それを、詩にたのまれるままに、こっそりと荷物置きの部屋にかくれてしまって、逃亡を手助けしようとういのは、どう考えてもおかしい。困った人を助けるのが米田家の呪い、ということなのかもしれないが、どう考えても花は、人助けをしていることにはならない。(結果的には、詩は、逃亡することなく入院を続けることになったが。)
靴屋の渡辺の登場も唐突で、意味不明である。職人は、どこでも仕事ができる、と言っていたのだが、はたしてそうだろうか。靴職人なら、革などをあつかう。その地方で、どのような材料が手に入るのか、また、気候風土、温度や湿度はどうなのか、微妙に違うはずである。その土地の風土にあった仕事が出来るのが、職人というものだろうと思う。
まあ、たしかに、旅から旅へと放浪する職人というイメージもある。包丁一本さらしにまいて~~という世界もある。これが、靴職人にもあてはまるだろうか。そもそも、靴職人という仕事が、どこに行っても仕事があるような職種とは思えないのだが。まだ、理容師の方が、どこでも仕事ができそうである。
何回も書いたことだが、渡辺が自分の手を動かして靴を作っているというシーンが、これまでに無かった。職人であることを描くならば、何よりも手を動かして仕事をしている場面を、きちんと描いておく、この小さな描写の積み重ねが大事だと思うのだが、これが、まったく欠落している。
愛子と佳代のことも、どうかなと思う。たしかに、旧来の嫁と姑という関係では、今の家族の人間関係を描くことはできない、ということは分かる。だが、だからといって、いきなり実の母と娘のように、というのも不自然である。
何よりも、さしせまった問題としては、年老いた佳代の生活のことがある。一人でできる農作業は限りがあるだろうし、もちろん、日常生活のことや、介護の問題もある。これらの問題をまるで無かったかのようにスルーしてしまって、母と娘の和解の美談のように描いてしまうことには、どうにも違和感がある。
かといって、リアルな高齢者の農業の仕事とか、介護の問題とかを、描くことも難しいかもしれない。実際には、糸島の老人介護施設にはいって、そこを、愛子と聖人が、定期的に訪問する、というぐらいが、現実にありうる姿だろうと思う。だが、こういうリアルを、朝ドラでどう描くかは、また別問題ではあるにちがない。
子ども食堂を商店街の中に作るという。そして、そこを発展させて、地域のコミュニティセンターにしようという。これは、どうだろうか。そもそも、子ども食堂というのは、商店街のなかの人目につくようなところに作るとは、思えない。ちょっと一本脇にそれたところで、あまり人目にはつかないが、しかし、入る気になれば自由に入れる、という立地にするのではないかと思うが、どうなのだろうか。それを、コミュニティセンターにして、地域のいろんな人びとがあつまり、また、行政もかかわるようなところになってしまうとすると、子ども食堂の本来の意義が失われてしまうことになりかねない。
このあたりのこととか、詩のこととか考えてみると、このドラマでは、社会から疎外されたような人びとにどう接するべきなのか(現実的にまずどうすることが妥当なのか)、その根本的なところで、理解が乏しいと思うことになる。
2025年3月22日記
『おむすび』「家族って何なん?」
このドラマについては、賛否が分かれている。非常に好意的に見ている人もいれば、否定的に見ている人もいる。好意的な意見のなかには、前に放送した『虎に翼』にくらべて~~というものが目につくのだが、これは、『虎に翼』が極端にひどすぎたから、比較すればよく見えるというだけのことであって、『おむすび』が特段にすぐれて良いとは思えない。
以下、否定的に見る立場から、思うことを書いてみる。
病院に入院している未成年の女の子に、ベッドの前に管理栄養士が立って、「たべり」と言って、はたして食べる気になるものなのだろうか。私の感覚としては、食事のトレーを置いて、カーテンを閉めてそっと出ていく(これは看護師の役目だろうと思うが)。そのときに、どういうことばをかけるか、あるいは、無言であるか、このあたりが脚本と演出の腕の見せどころだと思う。
これを、何回も、「たべり」「たべり」と繰り返したたみかけるように言うのは、どう考えてみてもマイナスの作用しかないように思えてならない。入院している詩は、家族とうまくいかず、逃げ出して、一人でなんとか雨露をしのいできた、しばらくの間は水しか飲んでいなかった、このような少女に対して、どのように対処するかとなると、まずは、栄養分の補給であり、同時に、心理的なカウンセリングだろう。その次の段階で、なんとかものが食べられるようになった段階で、メニューをどうするかというところで、管理栄養士の仕事ということになると思っている。だが、これも、あくまでも裏方としての仕事であって、直接、病室にやってきて、「たべり」というのが仕事ではない、と私は思うのだが、どうだろうか。
病室を抜け出して逃亡しようとしている詩を、花が偶然に見つけるのだが、ここもおかしい。普通なら、病院の廊下にうずくまっている人を見つけたら、すぐに病院の誰かを呼ぶだろう。それを、詩にたのまれるままに、こっそりと荷物置きの部屋にかくれてしまって、逃亡を手助けしようとういのは、どう考えてもおかしい。困った人を助けるのが米田家の呪い、ということなのかもしれないが、どう考えても花は、人助けをしていることにはならない。(結果的には、詩は、逃亡することなく入院を続けることになったが。)
靴屋の渡辺の登場も唐突で、意味不明である。職人は、どこでも仕事ができる、と言っていたのだが、はたしてそうだろうか。靴職人なら、革などをあつかう。その地方で、どのような材料が手に入るのか、また、気候風土、温度や湿度はどうなのか、微妙に違うはずである。その土地の風土にあった仕事が出来るのが、職人というものだろうと思う。
まあ、たしかに、旅から旅へと放浪する職人というイメージもある。包丁一本さらしにまいて~~という世界もある。これが、靴職人にもあてはまるだろうか。そもそも、靴職人という仕事が、どこに行っても仕事があるような職種とは思えないのだが。まだ、理容師の方が、どこでも仕事ができそうである。
何回も書いたことだが、渡辺が自分の手を動かして靴を作っているというシーンが、これまでに無かった。職人であることを描くならば、何よりも手を動かして仕事をしている場面を、きちんと描いておく、この小さな描写の積み重ねが大事だと思うのだが、これが、まったく欠落している。
愛子と佳代のことも、どうかなと思う。たしかに、旧来の嫁と姑という関係では、今の家族の人間関係を描くことはできない、ということは分かる。だが、だからといって、いきなり実の母と娘のように、というのも不自然である。
何よりも、さしせまった問題としては、年老いた佳代の生活のことがある。一人でできる農作業は限りがあるだろうし、もちろん、日常生活のことや、介護の問題もある。これらの問題をまるで無かったかのようにスルーしてしまって、母と娘の和解の美談のように描いてしまうことには、どうにも違和感がある。
かといって、リアルな高齢者の農業の仕事とか、介護の問題とかを、描くことも難しいかもしれない。実際には、糸島の老人介護施設にはいって、そこを、愛子と聖人が、定期的に訪問する、というぐらいが、現実にありうる姿だろうと思う。だが、こういうリアルを、朝ドラでどう描くかは、また別問題ではあるにちがない。
子ども食堂を商店街の中に作るという。そして、そこを発展させて、地域のコミュニティセンターにしようという。これは、どうだろうか。そもそも、子ども食堂というのは、商店街のなかの人目につくようなところに作るとは、思えない。ちょっと一本脇にそれたところで、あまり人目にはつかないが、しかし、入る気になれば自由に入れる、という立地にするのではないかと思うが、どうなのだろうか。それを、コミュニティセンターにして、地域のいろんな人びとがあつまり、また、行政もかかわるようなところになってしまうとすると、子ども食堂の本来の意義が失われてしまうことになりかねない。
このあたりのこととか、詩のこととか考えてみると、このドラマでは、社会から疎外されたような人びとにどう接するべきなのか(現実的にまずどうすることが妥当なのか)、その根本的なところで、理解が乏しいと思うことになる。
2025年3月22日記
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