『チョッちゃん』(2025年3月24日の週)2025-03-30

2025年3月30日 當山日出夫

『チョッちゃん』

調べて見ると、1987年(昭和62年)の朝ドラである。モデルは、黒柳朝。黒柳徹子の母親である。

これは、最初の放送のときに見ている。全部をきちんと見たということはなかったと思うが。

最初の週を見て思うことは……昔の朝ドラは、こんな感じだったなあ、ということである。北海道の開業医の娘で、女学校に通っている。厳格な父親と、やさしい母親。たよりない兄弟。気の置けない親友。わけのわからないうさんくさいおじさん。これは、定番といえば定番であるが、このような環境のなかで、主人公が、これからどのような人生を歩み、成長していくのかが描かれることになる。

朝ドラというのは、女性を主人公にした、教養小説(ビルドゥングスロマン)の日本風のテレビ版であった、その流れのなかにある作品である。これは、昔の『おはなはん』のころから続くことになる。

今の価値観では、このような家庭のあり方、親子関係のあり方、夫婦関係のあり方ということが、前近代的、封建的、家父長的、ということで、猛烈に批判されることになっている。その典型的なあらわれが、『虎に翼』の特に後半部分、戦後になってからのことになるあ。

とはいえ、歴史的には、このような社会があったことは事実としてあったのであり、また、それを普通のテレビドラマとして作っていた時代があった、ということは、認めておかなければならないことである。そして、そのような時代において、人間の喜怒哀楽のさまざまな感情が、日常生活のなかにあり、時代の激変のなかにあった、ということになる。

この週の内容では描いていないが、この時代(昭和のはじめごろ)、女性で高等女学校に進学できるというだけで、きわめて少数のめぐまれた環境であったことになる。男性でも、中学校に行くものはわずかだった。蝶子のともだちの頼介は、おそらく中学には行っていないにちがいない。

この時代、日本の地方においては、『おしん』のような生活があったことも、忘れてはならないことであろう。

この意味では、『虎に翼』の寅子が、東京女子高等師範学校の附属高等女学校に通っていたという設定は、この時代において、女子教育としては、ずばぬけたエリートであったことを、改めて考えてみることになる。

昭和2年の北海道では、まだラジオも聴くことができない。東京からやってきたおじさんの話しで、ラジオというものが世の中にあり、地下鉄(銀座線が開通した)のことを知り、モガを見たことがあるかと尋ねる、恵まれた環境であるとはいえ、このような時代が、昭和の初めの地方の生活だったことを、思ってみることになる。

『カムカムエヴリバディ』で、岡山の安子の家で、ラジオで英語講座を聴くことができた、というのは非常に希有な事例として考えるべきことかもしれない。

2025年3月29日記

『カムカムエヴリバディ』「1984ー1992」「1992ー1993」2025-03-30

2025年3月30日 當山日出夫

『カムカムエヴリバディ』「1984ー1993」「1992ー1993」

条映の太秦の映画村、撮影所、ここを舞台にして、人間の哀切を描いていたと感じる。映画産業は衰退している。特に、時代劇映画はほろびる方向である。このことは、現場にいる人びとが、その日常の仕事のなかで肌で感じていたことであろう。

五十嵐は、『隠れ里の決闘』以来、切られ役をやっている。役名も、台詞もない。そのまま数年が経過したことになるが、状況は悪くなる一方である。しかし、五十嵐はひなたと一緒になろうと決意し、ひなたもそれをうけいれる。

しかし、五十嵐は、そば屋で酔っ払って事件をおこしてしまう。破天荒将軍の役者に対して、暴言を言う。そこには、美咲すみれもいた。このシーンは、うまいと思って見ていた。この時代、時代劇映画にかかわっているなら、破天荒将軍といえども、その業界の衰退を感じていたはずだし、撮影所の大部屋俳優がどんな境遇で仕事をしているか、熟知しているはずである。だから、自分に言われた暴言については、許す、といっていたことになる。このあたりの脚本は、この時代の太秦の映画関係者の気持ちを、深く表現していると感じたところである。

だが、五十嵐は、ひなたと別れることになる。

この週の最後(金曜日)、道場での五十嵐と虚無蔵、大月の家でのひなたとるい、撮影所での五十嵐とジョー、これらの話しをする場面だけだったが、それぞれの登場人物が、これまでにどんな人生を歩んできたか、それをふまえて、五十嵐、それから、ひなたに対して、どう生きていくことができるのか語る、音楽としては、るいが歌う「On the Sunny Side of the Street」だった。ドラマとして、人の気持ちを描くとは、こういうことなのだろうと納得できる描写になっていた。しんみりと心にしみる場面であった・

2025年3月28日記

『おむすび』「おむすび、みんなを結ぶ」2025-03-30

2025年3月30日 當山日出夫

『おむすび』「おむすび、みんなを結ぶ」

最後まで見たのだが、結局、このドラマは心にひびくものが何もなかった。人間というのはこういうもんだよなあ……と感じるところがあってこそ、ドラマとしての表現であると思うのだが、そういうところがほとんどないままに終わった。

最後の週の展開についていえば、いろいろとあるが、一つだけ書くとすると、栄養学というのは、科学(サイエンス)なのである、という視点がまったく欠如していたということがある。病院で働く管理栄養士は、科学(サイエンス)のものの考え方を理解していないといけない。そのうえで、病院の現場、臨床医学についての知識と理解が必要ということになる。

もし、大腸がんの手術を延期した方がよいと進言するのであるならば、過去の手術の結果にもとづく正確で信頼できる症例のデータを示して、そのリスクを指摘する、このことのはずである。そのうえで、手術するかどうかは、主治医を含めて、病院のチームで協議し、判断して、本人や家族にも説明がある、すくなくともこれだけのことは描いておかないといけない場面であった。

これ以上、あれこれと批判を書きたいとは思わないが、なぜ、これほどまでに駄作というべきドラマになったのか、思うところを少し書いてみる。

大胆に言ってみれば、ということになるが……かつて、朝ドラは、主に女性を主人公とした教養小説(そのテレビドラマ版)という性格をもってきた。教養小説は、主人公が成長していく物語である。

『おむすび』では、登場人物が成長していくという過程を描くということがなかった。生きていくなかでの、いろんなできごと、人との出会い、対話、思考、挫折、さまざまなことがあって、成長していく……そういう部分が、希薄なドラマだったといってよい。

現代では、教養小説というような人間の成長の物語が、一般に好まれない時代になってきているのかもしれないとも思う。そのかわりに、あなたはあなたらしく、そのままの自分でいればいいのだよ、それがベストの人間の生き方だよ……という方向に、変わってきている。この意味では、『おむすび』の登場人物の人物造形は、基本的に一貫していて、あまり揺れうごくということがない。なかで一番、気持ちの変化があったのが、聖人ぐらいだろうか。聖人は、神戸と糸島との間で、揺れうごく気持ちがあった。しかし、その他の登場人物は、基本的な人物造形がおなじままである。まあ、歩もいろいろとあったが、結局は、ギャルということでとおしてきている。

結について見れば、十代の高校生が、三十代の母親になるまでを描いているのだが、その間の、人間的な成長ということが、描かれていない。いや、描こうとしなかったというべきかもしれない。子ども(花)が生まれるのだが、母親としてどう思うかということは、ほとんど出てきていない。これは意図的にそう作っているからなのだろうと思う。

人間は成長しなくていいということがあるから、震災(神戸や東北)があっても、コロナ禍があっても、その描写が、こんなことがあったというエピソードの羅列で終わってしまって、そのときに、人が何を考え、何を思い、どう考え方が変わっていったのか、そして、社会がどう変化していったのか、描くことができないで終わってしまったことになる。

成長しないヒロイン、これに共感できる人(人間はありのままでよい)にとっては、非常によくできた明快な心地よいドラマということで受けとめられることになるが、しかし、教養小説的な従来の朝ドラ(人間は成長し変わっていくものである)を期待する人にとっては、何をいいたいドラマなのか、さっぱり理解できないもどかしい作品であった、ということになる。

『おむすび』では、はじめから主人公は変わらない設定になっていた。『虎に翼』では、途中で方針が変わった。途中までは、主人公の学んで成長してゆく自己を描いていたが、それが、戦後になってから、ひたすら主張する自己になっていた。その前の『らんまん』では、主人公は変わらない性格だったが、まわりの人びとはそれぞれ成長し変化していったし、日本植物学の成立の歴史という大きな物語がバックにあった。成長が迷走していたのが、『ちむどんどん』であった。

最後にやはり指摘しておかないといけないことは、管理栄養士の試験の合格率である。ドラマのなかでは、全体の平均の数字を示していた。ほぼ半数の合格である。しかし、実際には、四年生大学の専門の課程を終了した現役の学生の場合は、8~9割以上である。しかし、専門学校で栄養士である場合には、1割ほどの難関である。脚本としては、ウソをついたわけではないが、フェアな態度ではない。ここは、きちんと数字を示したうえで、育児も家事も翔也にまるなげして、社員食堂の仕事のかたわら、必死に受験勉強するという姿を描いておくべきところだったと思う。

こういうことは、ドラマの作り方としては、一種のごまかしであると感じる。こういうところのごまかしの結果、管理栄養士としてのプロの仕事がどんなものか描くことができなかったことにつながっていることになると、私は思う。

管理栄養士の仕事としては、病院以外にも、食品会社とか老人ホーム、教育など、多様である。そして、最後のところで出てきた、子ども食堂ということも、これからの管理栄養士の仕事として意味のある現場であるにちがいない。せっかく管理栄養士を主人公にしながら、下手な医療ドラマにしてしまったことになる。これからの社会でどのような役割がもとめられるのか、これこそ描くべきことだったと思う。

佐藤卓己は『テレビ的教養』において、テレビを公共圏として認識することを提示している。これは、2007年の本である。今では、WEBやSNSが、それに代わるものなるかもしれない。しかし、NHKの朝ドラという枠で何を放送するかというのは、今の時代において、小さいながらも一つの公共圏を作っている。だから、その内容についての賛否の議論がSNSでかまびすしい。SNSなどでの賛否の議論をふくめて、朝ドラは考えられなければならない。

2025年3月28日記