100カメ「べらぼう 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」」 ― 2025-04-01
2025年4月1日 當山日出夫
100カメ べらぼう 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」
もう今では恒例となってしまった、100カメの大河ドラマ撮影現場編である。今回は、『べらぼう』。
技術的なことになるが、インカメラVFXの撮影現場を、このようにテレビの映像で見せるということが、これは、初めてのことかもしれない。非常に広く奥行きのある吉原の風景であるが、半分以上は、コンピュータで描いた絵である。その絵については、自由に人物を消したりできる。(もっといろんなことができるのだろう。)
『べらぼう』を見ていて感じることの一つは、映像の美しさで勝負しようとしているドラマだな、ということがある。これは、吉原の花魁を主な登場人物とすることもあるが、それを、苦界に苦しむ売春婦というイメージでは描くことができない。江戸の文化の一つの発信地として、花やかで絢爛豪華な吉原ということでなければならない。(とはいえ、ここが、幕府公認の「悪所」であったことには変わらないが。)
小芝風花の花魁道中は、何度か見ているのだが、どの回も非常にいい。花魁の色気と迫力、度胸、というものが伝わってくる。この映像を撮るのに、スタッフもとても苦労しているのだろうということが、よく分かる。
俄の踊りのシーンは、先日の放送であった。興味深かったのは、蔦重と朋誠堂喜三二が話しをする場面は、本当に、スタジオのなかの音を消して撮影していた。その間、衣装をまとった人たちは、サイレントのなかで踊りを踊っていたことになる。これは、てっきり、映像と音と別にして、うまく調整して作っているのかと思って見ていたのだが、実際は、かなりリアルにというか、アナログにというべきか、音曲の音の無い状態で台詞を言っていた。こういうところは、後から二人のの会話のシーンだけ、アフレコで音声を入れ替えるということではいけなかったのだろうか。あるいは、そうすると、余計に手間がかかるということだったのだろうか。
テレビドラマの撮影の場合、演出(監督)が現場にいない、というのも、そういうものかと思う。離れた部屋で、モニタの映像を見ながら指示を出している。こういうのは、旧式の映画の撮影とは違うことになる。キャメラの横に陣取る巨匠、というイメージではない。(黒澤明とか小津安二郎とかだと、こういうイメージがどうしてもあるのだが。)
離れているとはいえ、演出の表情、特に、その目が魅力的である。創造的にものを作っている人間の集中力を感じる。クリエイターの目であった。
カチンコの音がしているのだが、今の時代のテレビの撮影だと、カチンコはどういう意味があるのだろうか。その場のスタッフ全員に、合図を送るということはあるにちがいないが、昔の映画のようにフィルムに映しこんでおくことの意味というのはあるのだろうか。
2025年3月29日記
100カメ べらぼう 大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」
もう今では恒例となってしまった、100カメの大河ドラマ撮影現場編である。今回は、『べらぼう』。
技術的なことになるが、インカメラVFXの撮影現場を、このようにテレビの映像で見せるということが、これは、初めてのことかもしれない。非常に広く奥行きのある吉原の風景であるが、半分以上は、コンピュータで描いた絵である。その絵については、自由に人物を消したりできる。(もっといろんなことができるのだろう。)
『べらぼう』を見ていて感じることの一つは、映像の美しさで勝負しようとしているドラマだな、ということがある。これは、吉原の花魁を主な登場人物とすることもあるが、それを、苦界に苦しむ売春婦というイメージでは描くことができない。江戸の文化の一つの発信地として、花やかで絢爛豪華な吉原ということでなければならない。(とはいえ、ここが、幕府公認の「悪所」であったことには変わらないが。)
小芝風花の花魁道中は、何度か見ているのだが、どの回も非常にいい。花魁の色気と迫力、度胸、というものが伝わってくる。この映像を撮るのに、スタッフもとても苦労しているのだろうということが、よく分かる。
俄の踊りのシーンは、先日の放送であった。興味深かったのは、蔦重と朋誠堂喜三二が話しをする場面は、本当に、スタジオのなかの音を消して撮影していた。その間、衣装をまとった人たちは、サイレントのなかで踊りを踊っていたことになる。これは、てっきり、映像と音と別にして、うまく調整して作っているのかと思って見ていたのだが、実際は、かなりリアルにというか、アナログにというべきか、音曲の音の無い状態で台詞を言っていた。こういうところは、後から二人のの会話のシーンだけ、アフレコで音声を入れ替えるということではいけなかったのだろうか。あるいは、そうすると、余計に手間がかかるということだったのだろうか。
テレビドラマの撮影の場合、演出(監督)が現場にいない、というのも、そういうものかと思う。離れた部屋で、モニタの映像を見ながら指示を出している。こういうのは、旧式の映画の撮影とは違うことになる。キャメラの横に陣取る巨匠、というイメージではない。(黒澤明とか小津安二郎とかだと、こういうイメージがどうしてもあるのだが。)
離れているとはいえ、演出の表情、特に、その目が魅力的である。創造的にものを作っている人間の集中力を感じる。クリエイターの目であった。
カチンコの音がしているのだが、今の時代のテレビの撮影だと、カチンコはどういう意味があるのだろうか。その場のスタッフ全員に、合図を送るということはあるにちがいないが、昔の映画のようにフィルムに映しこんでおくことの意味というのはあるのだろうか。
2025年3月29日記
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