最深日本研究 〜外国人博士の目〜「“笑い”を知りたい」 ― 2025-04-01
2025年4月1日 當山日出夫
最深日本研究 〜外国人博士の目〜「“笑い”を知りたい」
なぜそうなのか、自分でもよく分からないことではあるのだが、私は、このごろの漫才、お笑い番組を見て、まったく面白いと思わない。若いころは……高校生ぐらいまでは……テレビの漫才を見て笑っていた。しかし、その後、大学生になって、東京に行って、テレビを持たない生活をかなり長くおくったのだが、ふたたびテレビを見るようになって、世の中で、お笑いブームとか言っていることは知っていても、まったく共感できないままできている。これは、どうしてなのだろうかと、我ながら思うことでもある。(だからといって、今の時代、漫才で笑っている人たちのことについて、どうこう思うことはない。)
社会言語学の研究方法としては、しごくまっとうである。参与観察の手法は、こういう研究の場合、かなりハードルが高いところもあるかもしれない。だが、その場の相手の人びとが、外国人を相手にしているということを、どう思っているのか、あるいは、いないのか、このあたりのところまで踏み込む必要があるだろうか。
会話におけるあいづちの意味ということは、日本語に見られる現象ということは、言語学的に指摘されていることであると認識しているが、これが、ボケとツッコミにまで拡大して考えていいことかどうか、さて、どうだろうかと思うところではある。(ところで、AIにあいづちを学習させるとすると、どんなふうになるだろうか。)
漫才に臨場感が必要というのは、そういうものかと思う。ここで例示されていた、台風の実況中継など、日本で普通にテレビを見ていると、そういうものなのかと思うが、言われてみれば、なるほどと思うところもある。ただ、これも、近年になってからの、テレビの撮影や中継の機材や技術の発達ということもある。今では、スマホ一つあれば、できるようにまでなっている。(この延長としては、戦争報道の歴史というようなことも考えなければならないと思う。)
臨場感ということでは、落語などのとの比較も重要になってくるとは思うのだが、どうなのだろうか。
現代のような漫才のかたちが誕生してくるのは、戦後になってテレビの普及とともにであるのだろうが、それが、特に、関西圏で独自の発達をしてきたのは、どういう理由なのか、気になるところである。
大きな視点としては、笑いについての比較文化、ということになるだろうし、日本や欧米以外の文化圏でどうなのか、調査研究が必要になってくるにちがいない。
日本における価値観の変化にともなって、漫才のスタイルも変化してきている、ということはそのとおりかと思う。
笑いは祝福である、というのは、民俗学的にはなっとくできる考え方だろう。
2025年3月31日記
最深日本研究 〜外国人博士の目〜「“笑い”を知りたい」
なぜそうなのか、自分でもよく分からないことではあるのだが、私は、このごろの漫才、お笑い番組を見て、まったく面白いと思わない。若いころは……高校生ぐらいまでは……テレビの漫才を見て笑っていた。しかし、その後、大学生になって、東京に行って、テレビを持たない生活をかなり長くおくったのだが、ふたたびテレビを見るようになって、世の中で、お笑いブームとか言っていることは知っていても、まったく共感できないままできている。これは、どうしてなのだろうかと、我ながら思うことでもある。(だからといって、今の時代、漫才で笑っている人たちのことについて、どうこう思うことはない。)
社会言語学の研究方法としては、しごくまっとうである。参与観察の手法は、こういう研究の場合、かなりハードルが高いところもあるかもしれない。だが、その場の相手の人びとが、外国人を相手にしているということを、どう思っているのか、あるいは、いないのか、このあたりのところまで踏み込む必要があるだろうか。
会話におけるあいづちの意味ということは、日本語に見られる現象ということは、言語学的に指摘されていることであると認識しているが、これが、ボケとツッコミにまで拡大して考えていいことかどうか、さて、どうだろうかと思うところではある。(ところで、AIにあいづちを学習させるとすると、どんなふうになるだろうか。)
漫才に臨場感が必要というのは、そういうものかと思う。ここで例示されていた、台風の実況中継など、日本で普通にテレビを見ていると、そういうものなのかと思うが、言われてみれば、なるほどと思うところもある。ただ、これも、近年になってからの、テレビの撮影や中継の機材や技術の発達ということもある。今では、スマホ一つあれば、できるようにまでなっている。(この延長としては、戦争報道の歴史というようなことも考えなければならないと思う。)
臨場感ということでは、落語などのとの比較も重要になってくるとは思うのだが、どうなのだろうか。
現代のような漫才のかたちが誕生してくるのは、戦後になってテレビの普及とともにであるのだろうが、それが、特に、関西圏で独自の発達をしてきたのは、どういう理由なのか、気になるところである。
大きな視点としては、笑いについての比較文化、ということになるだろうし、日本や欧米以外の文化圏でどうなのか、調査研究が必要になってくるにちがいない。
日本における価値観の変化にともなって、漫才のスタイルも変化してきている、ということはそのとおりかと思う。
笑いは祝福である、というのは、民俗学的にはなっとくできる考え方だろう。
2025年3月31日記
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