最深日本研究 ~外国人博士の目~「“女性オタク”を知りたい」2025-04-04

2025年4月4日 當山日出夫

最深日本研究 ~外国人博士の目~ “女性オタク”を知りたい

女性オタクについては、さがしてみると、かなり研究論文が出ている。しかし、こういうことは、私の知るかぎり、あまり日本のマスコミなどではとりあげられない。一部の女性研究、サブカルチャー研究の領域内にとどまっている、ということになるだろうか。

女性オタクは、これからの新しい日本の女性の生き方であるという指摘は、たぶんそういう部分があるだろうと思う。ただ、これを、いわゆる保守的な良妻賢母的価値観への否定ということだけでとらえることができるかどうかは、考える余地があるかと思うが。オルタナティブという理解でいいかどうか、ちょっと疑問に感じるところがないでもない。

現在の日本の女性オタクは、日本ならではの新しいフェミニズムであるという。そういわれれば、なるほどそういうとらえ方もできるのかと思う。

女性のコスプレーヤーが、男性の姿をすることが多い。男性の姿になることで、女性が男性から見られる視線を感じなくなる、らしい。これは、研究者が、女性ならではの観察というべきだろうか。ただ、日本の文化史としては、異なる性の姿をするという一種の伝統(と言っていいかどうか、気になるが)が、ある。宝塚がそうであるし、さかのぼれば、昔の白拍子なども、そうである。逆に、男性が女性の姿になるのは、歌舞伎の世界では、これが普通である。今の時代のことと、日本の文化のなかにある、異なる性の姿になること、これらの関係は、どう考えるべきこになるだろうか。

痛バ(痛バッグ)とか、痛ネ(痛ネイル)とか、この番組で知った。もうこのごろでは、街中に出ることがないこともあるのだが、私は、実際には見たことがない、と思う。

推し壇を、仏壇屋さんが作っているというのは面白い。映っているのを見ると、仏壇というよりも、神棚に近いイメージである。だが、販売するとなると、仏壇屋さんということになるのかもしれない。街中に仏壇屋さんはあるが、神棚屋さんは、まずないだろう。

タイBLに夢中になる女性がいるのは、そうういものかと思って見ることになるのだが、BLに対する評価も、ここ数年で大きく変わってきたという印象である。

NHKの朝ドラの『あまちゃん』のなかで、鉄道オタク、アイドルオタク、が登場してきていたが、このときは、男性限定で、しかも、世間からは蔑視されているという設定であった。これは、2013年のドラマだから、今から一〇年ちょっと前のことになる。この間に、オタクをとりまく状況は、おおきく変わったことになる。

池袋の街は、昔、東京に住んでいたとき(何十年も前のことだが)板橋区に住んだことがあるので、よく行った。主に、西武百貨店の書店と美術館に行くのが目的だったが。サンシャインシティにも、何度か行っている。この街も、近年になって大きく変わった東京の街のひとつである。

この「最深日本研究」もこれで終わりになるようだ。非常に面白い企画、内容のものが多かった。このシリーズは、最後のエンディングのとことろに、国際交流基金の名前があったのだが、外国での日本研究についてリサーチするとなると、ここの協力が必要ということになるのだろう。

2025年4月3日記

放送100年「メディアが私たちをつくってきた!?」2025-04-04

2025年4月4日 當山日出夫

放送100年、ということでいろんな番組があるが、その中のひとつということになる。とりあえず録画しておいて、後で見た。

最大の問題点は、放送(ラジオとテレビ)だけがメディアではないことである。新聞や雑誌、映画などのことが、まったく無視されている。これは、どう考えてみてもおかしい。そして、将来的な展望として、インターネットに言及するのは当然としても、だからといって、活字メディア(書籍、新聞、雑誌)のことを考えなくていいはずはない。こういう総合的な視点が欠如していることは、まあ、番組を作った側もわかってやっているのだろうが、どうしても気になる。

そのうえで、一〇〇年前にラジオ放送がはじまって、声による情報伝達がスタートした、という筋書きであったが、これもおかしい。ラジオ放送の前でも、人びとは、耳からの情報で生活していた。日本の場合、識字率が高かったとは言われているが、それでも、日常生活においては、耳からの音声(鳥の鳴き声など自然の音をふくめて)情報が、重要な役割をはたしていた。日常の会話、世間話、どのように人びとが耳からの情報で生きてきたか、これを考えておく必要がある。関東大震災のとき、これは、ラジオ以前のことになる。このとき、人びとは何を情報源に行動したのだろうか。このことは、関東大震災から一〇〇年のときに、さんざんテレビで番組を作って検証したことである。NHKの番組製作者は、このことをもう忘れてしまったのか。

このこととも関連するが、水俣病については、いろいろと考える視点はあるのだが、そのひとつとして、その被害者の声は、前近代的な情念にもとづくところがある。デモの旗に書かれていた「怨」の文字がそれを象徴している。強いていえば、『遠野物語』につながるような、前近代社会の人びとの生活感情である。それを、テレビの番組としてつくるとき、近代的な理知的な枠組みで報道することになる。これは、当時のNHKの記者のことばを、聞いていると感じるところである。

ドイツのZDFの事例を紹介していたが、これは、もう無理だろうと思う。今のSNSの時代になって、人びとは、自分の見たい情報しか見ない、という方向におおきく変わってしまった。公共性というのは、自分が好まない情報にも接するということである。これに、もはや耐えられなくなっているのが、現代の人びとの生活の感覚であると、私は見ている。自分とは異なる意見や立場のことを知るために、あえてコスト(時間やお金や労力)をかけなければならない時代である。自分と異なる意見は、ストレスである。好き好んで、ストレスになる情報空間にはいりこもうという人は、希だろう。

SNSの問題点がさまざまに指摘されるなか、それでもSNSに頼る人(いや、どっぷりとつかるとでもいった方がいいか)もいれば、オールドメディアといわれる新聞やテレビにもどる人もいるだろう。この分断をうめるのは容易ではない。

2025年4月1日記

映像の世紀バタフライエフェクト「東ドイツ 監視国家 41年の闇」2025-04-04

2025年4月4日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 東ドイツ 監視国家 41年の闇

東ドイツのシュタージのことは、これまでにも、「映像の世紀」シリーズで取りあげられてきている。そんなに珍しい内容があったということはないと思う。

昔の東ドイツが、オリンピックなどにおいてメダルをたくさんとる国というのは、私の年代であれば、記憶にあることである。それが、国家規模のドーピングの結果であるということは、十分に予想されることである。しかし、はっきりと、これを映像で示したということの意味は大きい。(同じようなことは、さらに巧妙に、世界のいろんなところでおこなわれているのだろうとは、思うのだけれど。)

見ていて興味深かったことのひとつは、昔の東ドイツの時代のNHKの取材。まあ、NHKとしては、この時代において、せいぜい東ドイツに批判的な内容であった部分を探してきたのかと思う。私の記憶としては、ベルリンの壁の崩壊の前、東ドイツは社会主義の手本として、礼讃されていたということを、憶えている。ソ連や中共(もう、今ではこんな言い方をしないが)の共産主義はよくないが、ヨーロッパの社会主義はすばらしいという、今ではよくわからない意見が、まかりとおっていた。

それから、今のドイツにおいて、右翼政党のAfDが躍進したのが、旧東ドイツの地域。さすがに、番組のなかでは、極右とは言っていなかったが。経済的にもめぐまれず、仕事を移民労働者と奪い合う社会になってしまっている。このようなことは、あまり、日本のマスコミでは語られないと思っている。言うとすれば、ドイツで極右政党が議席を増やしている、という言い方である。ドイツ国内で、どういう地域のどういう人びとが、なぜ、移民排斥をかかげる政党を支持しているのか、その理由こそ、報道するべきことだと私は思う。そして、ドイツの移民の人びとは、どこでどんな暮らしをしているのか、ということもふくめて、知られるべきことだと思う。

余計なことかもしれないが、シュタージのスパイは、西ドイツにもいたにちがいない。だが、このことについては、何もふれるところがなかった。(これは、いたしかたないことかもしれないが。)

2025年4月1日記