『べらぼう』「蔦重瀬川夫婦道中」 ― 2025-04-07
2025年4月7日 當山日出夫
『べらぼう』「蔦重瀬川夫婦道中」
NHKの作っているドラマだから、「四民の外」とまでは言うけれども、それ以上のことは言わない。これは、しかたないだろう。今のことばいえば、被差別民、昔のことばでいえば、穢多非人、ということになるはずである。(この文章を書くのにATOKを使っているが、これは賢く作ってあるので、穢多、ということばを変換してくれなかった。)
ただ、被差別民が、実際に社会のなかでどのような存在であったかは、時代や地域によって、細かく検討していかなければならないことであるとは思っている。前近代の身分意識がどのような内実であったかは、実はよくわかっていないことなのだろうと思う。私は差別は決して肯定しないが、しかし、だからといって、差別だといえばことがすむとも思っていない。例えば『遠野物語』に描かれたような人びとの心のありようを、もっと深く、そして、実証的に考えることが必要だと思っている。
吉原は、悪所、であったにちがいないが、一方で、このドラマで描いているように、江戸の文化の一部を構成するものであったことは確かである。このあたりのバランスを、ドラマのなかでどう描いていくかは、難しいところだろうとは思う。
検校というような存在も、ある意味では、通常の身分秩序において、きわめて特殊な位置を与えられていたと考えるべきだろう。この延長には、日本の文化の歴史における、芸能にたずさわる人びとのことがある。
吉原では、かつて、役者(芸能にかかわる人たち)を差別していたことがある。差別というのは、単純な上下関係の積み重ねというわけではなく、錯綜したさまざまな人びとの社会的関係性のなかに、複雑にからまりあって存在することになる。
瀬川は、堅気というか、素人の奥様、という雰囲気である。ここは、素人にもどっても、もとの女郎の雰囲気をどこか残している、というぐらいがいいかなと思うのだが、このドラマの筋書きからすると、完全に吉原とは縁を切ったということにしたかったのかと思う。
瀬川の書いた手紙が、少し映っていたが、言文一致体、である。この時代に、こんな言文一致体の文章で手紙を書くはずはないと思うが、ここは、ドラマの進行として、そうなるところであろう。
源内の作ったエレキテルは、そもそもがインチキであるのかもしれない。少なくとも医療器具とするのは、うさんくさい。鍼灸の方がよっぽど効果があるだろう。
女郎に身売りすることになったからといって、それが憎悪の連鎖になってはならない、これはそのとおりなのだが、当時の社会においては、実際にどうだったろうかという気はする。
検校の処分後の債権については、幕府のものとなっていたが、なかには取り立てが無理な不良債権もああっただろうと思うけれども、実際には、どれぐらいのお金が幕府のもうけになったのだろうか。
冒頭の部分で、百人一首の歌になぞらえて、お互いに、言いたいことを言うシーンがあったが、この時代であれば、百人一首は、上層町人階層にとっては、愛好されていたかと思う。百人一首についての研究は、近年になって急速に進展した領域であるので、しかるべく考証してのことだろうとは思うが。
2025年4月6日記
『べらぼう』「蔦重瀬川夫婦道中」
NHKの作っているドラマだから、「四民の外」とまでは言うけれども、それ以上のことは言わない。これは、しかたないだろう。今のことばいえば、被差別民、昔のことばでいえば、穢多非人、ということになるはずである。(この文章を書くのにATOKを使っているが、これは賢く作ってあるので、穢多、ということばを変換してくれなかった。)
ただ、被差別民が、実際に社会のなかでどのような存在であったかは、時代や地域によって、細かく検討していかなければならないことであるとは思っている。前近代の身分意識がどのような内実であったかは、実はよくわかっていないことなのだろうと思う。私は差別は決して肯定しないが、しかし、だからといって、差別だといえばことがすむとも思っていない。例えば『遠野物語』に描かれたような人びとの心のありようを、もっと深く、そして、実証的に考えることが必要だと思っている。
吉原は、悪所、であったにちがいないが、一方で、このドラマで描いているように、江戸の文化の一部を構成するものであったことは確かである。このあたりのバランスを、ドラマのなかでどう描いていくかは、難しいところだろうとは思う。
検校というような存在も、ある意味では、通常の身分秩序において、きわめて特殊な位置を与えられていたと考えるべきだろう。この延長には、日本の文化の歴史における、芸能にたずさわる人びとのことがある。
吉原では、かつて、役者(芸能にかかわる人たち)を差別していたことがある。差別というのは、単純な上下関係の積み重ねというわけではなく、錯綜したさまざまな人びとの社会的関係性のなかに、複雑にからまりあって存在することになる。
瀬川は、堅気というか、素人の奥様、という雰囲気である。ここは、素人にもどっても、もとの女郎の雰囲気をどこか残している、というぐらいがいいかなと思うのだが、このドラマの筋書きからすると、完全に吉原とは縁を切ったということにしたかったのかと思う。
瀬川の書いた手紙が、少し映っていたが、言文一致体、である。この時代に、こんな言文一致体の文章で手紙を書くはずはないと思うが、ここは、ドラマの進行として、そうなるところであろう。
源内の作ったエレキテルは、そもそもがインチキであるのかもしれない。少なくとも医療器具とするのは、うさんくさい。鍼灸の方がよっぽど効果があるだろう。
女郎に身売りすることになったからといって、それが憎悪の連鎖になってはならない、これはそのとおりなのだが、当時の社会においては、実際にどうだったろうかという気はする。
検校の処分後の債権については、幕府のものとなっていたが、なかには取り立てが無理な不良債権もああっただろうと思うけれども、実際には、どれぐらいのお金が幕府のもうけになったのだろうか。
冒頭の部分で、百人一首の歌になぞらえて、お互いに、言いたいことを言うシーンがあったが、この時代であれば、百人一首は、上層町人階層にとっては、愛好されていたかと思う。百人一首についての研究は、近年になって急速に進展した領域であるので、しかるべく考証してのことだろうとは思うが。
2025年4月6日記
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