英雄たちの選択「シリーズ 昭和のあけぼの (1)政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望」2025-04-08

2025年4月8日 當山日出夫

英雄たちの選択 シリーズ 昭和のあけぼの (1)政党政治に懸ける 最後の元老 西園寺公望

西園寺公望についてかたりながら、同時にかたっていたのが昭和における天皇制をめぐる問題。実は、こちら(近代の天皇制)のことの方が、本当はかたりたかったことかもしれない。それを、番組の編成としては、西園寺公望についての番組であると、あざむいている……ちょっと深読みしすぎだろうか。

この番組の方針としては、近代の天皇制を基本的に肯定している。(左翼的な観点から、近代の諸悪の根源としての天皇制というような視点ではない。)

君民共治、君主機関説、ということが出てきたが、これは、大日本帝国憲法も十分に近代的(あるいは、さらにいえば民主的)な憲法であった、とも理解できる。この憲法のもとでは、天皇は政治の責任を負うことはない。そのかわりに、大臣の輔弼がある。政治の責任をとるべきは、大臣であることになる。その大臣を、選挙で選ばれた政党の政治家がつとめれば、これは、民主的な政治制度ということになる。(番組のなかでは言っていなかったが、明治憲法においても、政党政治は民主主義につながる。制限選挙の時代ではあった。しかし、男子普通選挙も実施されるようになったことはたしかである。ひょっとすると、女性の参政権も、あるいは確立した可能性もあるかもしれない。)

昭和にはいっての、張作霖爆殺事件。これが関東軍の作為であったことは、今では常識的な知識であるが、その時代のなかにあって、この事件にどう対処するかということが、その後の政治の運命の分岐点になったことになる。

天皇が自らの意志をしめして、田中義一総理を問責するか、あるいは、田中の上奏のとおりに軍は関与していなかったこととするのか……この場合、どちらの選択肢を選んでも、歴史に禍根を残したことになるかもしれない。結果的には、天皇は田中義一の責任を問うことはなかったが、辞職にいたり、それが、その後のさまざまなテロ事件につながることになった。君側の奸を排除するという理由である。(昭和天皇が自らの意志をはっきりしめしたのは、二・二六事件のときと、終戦のとき、というがの通説であると認識している。)

これも、もとをただせば、関東軍の暴走であり、それをゆるすことになった、日本の国のおかれた状況……国内的にも、国際的にも……が問題であるということにはなるかもしれない。この時代の国際情勢(帝国主義の時代といっておくが)にあって、朝鮮半島から満州へと国家の権益をもとめる流れがあったことになるが、それをさらにさかのぼれば、「坂の上の雲」の時代の話しになる。現実的にブレーキをかけられる、政治と軍事にかんするリアリズムが、いつの時代からか日本で失われていったということになるだろうか。

この回は、西園寺公望と政党政治ということがテーマであるのだが、なぜ、西園寺公望が政党政治を支持することになったのか、その気持ちを晩年まで持ち続けることになったのか、というあたりのことについては、今一つ説明が不足していたという印象をうける。明治の藩閥政治に対する批判ではあったろうが、すぐに政党政治が実現するということではない。それまでのプロセスを、西園寺は具体的にどう考えていたのだろうか。(それが、新しい教育勅語の案ということになるのかと思うが。)

平等にいたるまでの不平等……大村益次郎の言ったこととして紹介されていたが、まあ、たしかに現実的な判断としては、こういうこともある。(だが、ここで重要になってくるのは、手段と目的、この関係をリアルに把握しつづけることである。)

政党政治としては、立憲政友会、立憲民政党、ということになる。これらの政党が、どのような主張をかかげ、実際にどのような政治家が何をしたのか、支持基盤はどうだったのか、ということも重要だと思うが、ここのところについては、ふれることがなかった。また、歴史の見方によっては、極端にいえばであるが、戦前に政党政治がつぶれたのは、政党同士の争いで自滅していった、ということもいえるかもしれない。

萱野稔人が言っていたこととしては、民衆が暴力を肯定した場合の恐ろしさ、ということがある。冷静に考えれば、歴史とは、このようなものである。かつて、大東亜戦争の時代、多くの国民の意識としては、戦争を肯定していた。(これについては、国家と軍が民衆をあざむいていたのであり、国民はだまされていたのである、という立場から、歴史を語ることもできるが。)厭戦気分がまったくなかったわけではなかったし、反戦論者も存在していたことは確かであるが、少なくとも、普通の国民にとっては、自国が勝っている戦争を否定することは、むずかしい。五・一五事件のときには、国民の多くはテロをおこした軍人たちに同情的であった。

この民衆がときとしては暴力を肯定するものであるということは、西園寺公望が、フランス留学のときの経験として、普仏戦争後のパリ・コミューンを経験していることは、重要なことになる。

国民、市民、民衆……こういう人たちは、平和主義者であって、戦争を好むのは、軍人と右翼である、というステレオタイプの発想をまだ信じている人もいるかと思うが、それは幻想にすぎないことは歴史が教えてくれることである。

現代の価値観からすれば、元老として、昭和史の悪の元凶とも見られかねない西園寺公望であるが、その生きた時代に即して見るならば、かなり進歩的な考え方のもちぬしであった。幕末から明治になる時代を、実際に体験してきていることの意味は重要だろう。その後継者が何故そだってこなかったのか、という問題は、これは、近代の歴史の大きな課題ということになるにちがいない。

この回の内容では、山県有朋は、薩長閥専制政治、軍閥政治の元凶として、悪者あつかいだったが、しかし、山県有朋の視点にたって近代を見ると、また別の側面も見えてくるだろうと思う。

2025年4月4日記

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