100分de名著「村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (1)日常のすぐ隣にある闇」2025-04-12

2025年4月12日 當山日出夫

100分de名著 村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (1)日常のすぐ隣にある闇

月曜日の放送なのだが、たまたま同時に録画する番組が重なっていて、金曜日の再放送を見た。

村上春樹の作品は、そのほとんどは読んでいる。少なくとも、小説、エッセイ、については、普通に手に入る本は、すべて読んだかと思っている。翻訳も全部読もうと思って、手をつけはじめたのだが、これは途中で止まってしまっている、というところだろうか。それでも、村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーは『ロング・グッドバイ』からはじめて全部読んだ。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も読んだし、レイモンド・カーヴァーも村上春樹訳で読んだ。おそらく、村上春樹が訳していなかったら、レイモンド・カーヴァーは読まずにいたかもしれない。

私が村上春樹を読んで感じることの第一は、そのわかりやすさ、である。井戸とか、トンネルとか、エレベーターとか、川とか、壁とか、異界との通路である。これは、おそらく、全世界的にほとんどの民族において、共通するようなことかと思う。井戸やトンネルを通って、別の世界に通じる。そこは、この世とは別世界でありながら、どこかでつながってもいる。こういうイメージは、非常に分かりやすいものである、と私の場合は受けとめることになる。

しかし、だからといって、そこで描かれている人間の心理、様々な登場人物、物語、こういうものに、すぐに共感できるかというと、そうでもない。はっきりいってよく分からないものがある。

100分de名著で、とりあげる本を、わざわざ買って読むということはあまりない。すでに読んだ本である場合もあるし、もう新たに買って読んでみたいと思わない本もある。(もう少し年齢が若ければ、違っているかもしれないが。)

『ねじまき鳥クロニクル』については、以前に読んだ文庫本(新潮文庫)があるのだが、あらためてKindle版で買って読んでみている。今、二冊目まで読んだところである。

人によって感じ方はさまざまであるとは思うが、Kindle版で読むと、純粋なテクストということを、やはり感じる。物理的な書物の持つ、活字や紙から解放されているという印象はある。ただ、それでも、Kindleというデバイスの有する物理的な特性には支配されることにはなる。

読んで思うこととしては、こういう文章を芸術の文章というのだろう、という素朴な感じ方である。文章、文体からうける感覚である。この文章を読んでいる時間は、何か特別な時間である、と感じさせる何かがある……ということになる。文学は芸術であるのだが、芸術としての文学を感じる。芸術とは……最高のエンタテイメントであり、同時に、人間のこころの奥深くにあるものにふれる何かでもある。それは、愉悦であるかもしれなし、邪悪な何かかもしれない。

2025年4月11日記

ETV特集「フェイクとリアル 川口 クルド人 真相」2025-04-12

2025年4月12日 當山日出夫

ETV特集 フェイクとリアル 川口 クルド人 真相

今年になってぐらいからだろうか、ようやくマスコミで、クルド人、ということばが使われるようになったのは。それまでは、クルド人、ということばを使っただけで、それは差別発言である、として糾弾されることがあった。新聞などでも、せいぜい、トルコ国籍の、という表現であった。

SNS(主にXということになるが)では、極論しか出てこない。川口にいるクルド人は、テロリストで犯罪者集団である、偽装難民である、という。その一方で、クルド人は善良な人ばかりで悪い人など一人もいない、という。

まったくの悪い人ばかりということも信じがたいが、しかし、悪いことをする人が一人もいないということも、信じることはできない。(人間が一定数以上いれば、そのなかには、悪いことをする人間がふくまれているのが、普通の人間のあり方である。)

分かっていることは……川口に多くのクルド人が住んでいるということ、地元の人びと必ずしも良好な関係だけではないだろうということ(外国人がまとまって居住すればなんらかのトラブルがあるのが通常である)、その対応が地元自治体にまかせられていること、政府レベルでどうこうしようということはなさそうであるということ……まあ、これぐらいだろうか。

私の考えることとしては、いわゆる川口クルド人問題というのは、マスコミにも責任がある。Xで問題が広まっているのに、見て見ぬふりをしている。Xでの騒ぎなど、報道するに価しないとでも思っているのだろうか。こういうときに、最も必要なのは、事実はどうであるかということを、冷静に報道することである。そうでなければ、マスコミは都合の悪いことは報道しない自由があると見なされて、その虚偽の情報が、さも本当のことであるかのように拡散するだけである。

番組のなかで伝えていたこととしては、川口に多くのクルド人が住んでいることは確かであるが、そう大きな問題が地元であるということではない。だが、まったく何のトラブルもないということではない。生活習慣の違う外国人がまとまって住むことになれば、なんらかのトラブルはあるものである。これは、クルド人にかぎらず、ブラジルからやってきた日系の労働者の人びとについても、いえることである。

日本で生活するならば、日本の生活のルール(法律は無論のこと、人びとの生活の習慣などをふくめて)を守ってくれ、ということは、基本的にあっていいことである。多文化共生ということは、その上になりたつものだと思っている。これが、理不尽な要求であるとは、私は思わない。逆に、日本の人が外国に行って生活するなら、その国や地域の、生活のルールにしたがうというのは、当然のことだろう。

ただ、二〇〇〇人ほどのクルド人が住んでいて、そのうち七〇〇人ぐらいが難民申請をしている、というのは、かなり特殊な事情があるだろうとは思う。この数字が異常でないとするならば、他の国からやってきて日本に住んでいる人たちとの比較が必要である。

なかには、犯罪にかかわる人もいれば、偽装難民、出稼ぎ目的、という人もいる。これはこれで、事実として認めることでいいはずである。だが、だから、クルド人はすべてどうのこうのという議論になることではない。

ところで、気になったことがいくつかある。

番組のなかでは、「日本人は川口市から出ていけ」と書いたプラカードを掲げた画像については、これは生成AIを使ったフェイク画像であると思われると言っていた。私の見るかぎりでは、そうと断定してはいなかった。この写真、背景に建物もあるし、人間の顔も何人もはっきりと分かる。これらの場所や人物が特定できなかった、ということなのだろうか。そういう調査をしたのなら、その経緯について触れておくべきであり、フェイクであることの証拠を示さなければならない。場所も人物も特定できなかった、人物については架空のものである可能性が高い、あるいは、実在の人物の顔の画像を利用したものであるが、その本人はかかわっていない、このようなことは調査したと思うのだが、はたしてどうだったのだろうか。

これは禍根を残すことになりかねない。ソーシャルメディア上には、いろんな画像、映像がある。中には、フェイク画像もあるはずである。このとき、自分の主張したいことに反するものについては、それはAIによるフェイクである、と言ってしまうことを、安易に許すことになる。すべてがフェイク画像であるというわけではなく、中にはリアルであるものもあるにちがいない。本当に伝えるべきリアルの映像を、きちんと伝えるためには、フェイク画像については、なぜそう判断できるのか、ということの専門家による判断の根拠をしめすことが、必須になってくる。

自分の主張に反するものは、それはフェイク画像である、偽情報である、と言い合うだけでは、あまりいい将来を考えられない。そう判断した根拠をしめす、それができるのが、マスコミであり、調査報道というべきものであるはずである。(このような仕事は際限のないことかもしれないが、マスコミは、いやマスコミだけが、それが出来る。)

この画像以外で、虚偽の書き込みや映像については、その証拠を示し、裏をとる取材を行っていたのに、この画像だけは、それが出来ていないという印象をうける。はたしてどうだったのだろうか。

木下顕伸が登場していたが、戦前の伝統的な右翼思想としての大アジア主義がどんなものであるのか、ということは、説明があってもよかったかもしれない。そのインタビューの背景に写っていたのは、頭山満の書であり、肖像であった、と判断できる。このような日本の伝統的右翼思想と、近代的な保守思想(エドマンド・バークにはじまり、日本では福田恆存や西部邁などがとなえたような)と、近年になってSNSで目立つようになったネトウヨなど、これらは、根本的にちがうものである。

2025年4月11日記

追記 2025年4月17日

この番組の再放送がなくなってしまったようなので、追記で少し書いておく。

いわゆる川口のクルド人の問題を考えるとき、次のことを整理しあつかう必要がある。

SNSの情報が、虚偽、フェイクであるならば、そのことを指摘すればいい。だが、それがフェイクであることと、現地で、事実としてどうであるかは、また別の問題である。

実際に川口に住んでいるクルド人の生活が、どのようなものであるのかは、きちんと調査する必要がある。どこに居住し、どのような職業についているのか、どんな生活をしているの、である。無論、居住の自由、職業選択の自由は、認められなければならない(この場合は制限があるとしても)。しかし、このような問題となっている場合には、実際どのようなのか、ということについて、広く知られることが、問題解決への道である。でなければ、虚偽の情報が、さらに拡散するだけになる。それは、差別を助長するだけである。

実際にどのようであるか、ということとは別に、現在、川口に住んでいる人たちがどのように感じているのか、これも重要である。ここには、偏見もあるのかもしれないが、まずは、どう思って生活しているのか、それは何に起因するのか、その実態の報告と分析が必要である。ただ、それは差別である、というだけでは問題は解決しない。それは、反感の連鎖につながるだけである。

サイエンスZERO「最新報告 古代DNAで迫る 日本人の来た道」2025-04-12

2025年4月12日 當山日出夫

サイエンスZERO 最新報告 古代DNAで迫る 日本人の来た道

いわゆる、人種という概念が、社会構築的なものであるということは、現代においては、当たり前のことだろうと思っている。しかし、その一方で、~~人、という言い方がまったく無意味になったかというと、そうでもない。逆に、生活の感覚の上では、なくならないものとして、残ることが分かる。

白人とか黒人とかいう概念が、人類学的にはあまり意味のないものになってきている。いや、かつてのような外見で判断することを止めて、今では、DNAで考えるようになったから、むしろ、ある意味では、より強固になるのかもしれない。(その学問的な正しさ、政治的な正しさ、ということとは、ちょっと違うこととしてであるが。)

日本の文化とか歴史を考えるとき、日本人ということばは、かなり注意して使う必要がある。これは、歴史学などの常識であると思っている。

以上のようなことを考えるのであるが、その一方で、日本人……日本列島に住んで、日本語を話し、日本の文化をになってきた主流の人びとぐらいの意味でとらえておくが……が、どこからどのようにしてやってきたのか、ということは、やはり興味のあることである。

かつては、南方の道、ということが言われ(稲作の伝来であるが)、また、騎馬民族説、ということも言われた。現代では、これが、古代からの人のDNAをもとに考えるようになってきている。また、稲作の伝来や日本国内での伝播の状況なども、科学的に分析するようになってきているはずである。

このようなことを考えてはみるのだが、やはり最後に残るのは、「想像の共同体」としての、日本というものの成立である。また、それが、歴史的にどのように人びとに意識されてきたかということである。やや極端に言えばということになるが、日本や日本人という概念が、近代になってから作りあげられたものである、という側面を無視することはできないだろう。そして、それを取り払ったうえで、日本列島に住んできた人びとが、どのような共同体意識をもち、文化を形成し、伝えてきたのか、考えることになるのだろうと思う。

そして、地球規模で、ホモ・サピエンスがアフリカを出て今にいたるまでの軌跡を実証的にたどることが、可能になってきていることは確かである。だからこそ、人間の歴史とか文化とか、それが人間にとって持っている意味を、より深く考えなければならなくなってきている。

ところで、国立科学博物館のHPを見てみたのが、図録のネット販売はやっていないようである。見に行きたい気もするし、もうこの年になると、それも億劫だなあ、という気もするし、というところである。

2025年4月11日記