『カムカムエヴリバディ』「1993ー1994」「1994ー2001」 ― 2025-04-13
2025年4月13日 當山日出夫
『カムカムエヴリバディ』 「1993ー1994」「1994ー2001」
岡山でのことが非常に印象に残る。
岡山で、亡き定一の喫茶店が、同じディッパー・マウス・ブルース、として営業している。そこを、るいとジョーがおとずれる。この喫茶店は、こぶりながら昔の定一の店を彷彿とさせるものになっている。ジョーは、昔のことを思い出し、トランペットは無理だが、ピアノを弾いてみようかという気持ちになる。東京にいるトミーが、呼ばれて岡山までやってくる。
八月一五日。雉真の家にいたひなたは、平川唯一の亡霊(?)に出会う。そのころ、るいは、神社の拝殿の前で、稔のこれも亡霊(?)を目にする。そこに、昔、岡山であったいろんな出来事や人物が重ねられている。
この一連の映像と音楽の流れが、実に自然につくってあった。非常にたくみであり、考えてあったことになる。岡山で、安子と稔、るいとジョーのこと、ひなたのこと、英語のこと、おはぎのこと、ラジオ英語講座、様々な思い出が一緒になる。
京都にもどり、ひなたは英語のラジオ講座を聴き始める。そして、るいから、昔のことを聞く。今度は、ひなたも英語講座を、きちんと聴いている。
映画村では、外国人の観光客がやってきても、ひなたが対応できるようになっている。そこに、榊原からの話として、ハリウッドとの共作のことを聞く。
この週は、ざっと以上のようなことであった。
たくみだなと感じたのは、神社の拝殿の前で、るいが稔の姿を見て、お父さんと直感的にさとったことだろう。その前に、昔のシーンで、安子がるいを背負って神社の前でうずくまる場面があり、その流れの延長で、るいの視線の先に稔が立っている、ということになっていた。
普通、このような設定で、故人が登場すると、非常にわざとらしい感じがするものだが、八月一五日の終戦の日の正午のサイレンを合図に、現在と過去が入り交じるというのは、非常に考えてあると感じる。そして、これは、それまでに、終戦の日の甲子園のこととか、それに合わせて黙祷する京都の大月の家族のこととか、きちんと描いてきてあったからだと理解できることでもある。ドラマのなかでのさりげない描写の積み重ねということの意味が重要であることになる。
ただ、一つだけ気になったのは、ひなたが京都で英語の勉強をするとき、昔、稔が使っていた英語辞書を取り出したことである。たしかに、これは、小道具の使い方としては、たくみではある。だが、稔の辞書は、戦前のもので安子に与えたものである。それを、1990年代になって使い続けるのは、どう考えても無理がある。ここは、ひなたが、(いくら勉強ができなかったとはいえ)高校のときに使った英語の辞書ぐらいが、適当かと思う。本当は、新しい辞書を買うべきところではあるが。
このドラマのなかで、ハリウッドとの共作ということが出てきていた。その後、アメリカで作られた時代劇ドラマが最高に高く評価されることになる。しかし、それを、このドラマのなかの時代においても、また、このドラマをNHKが制作した時点においても、誰も予見できなかったことにちがいない。
2025年4月12日記
『カムカムエヴリバディ』 「1993ー1994」「1994ー2001」
岡山でのことが非常に印象に残る。
岡山で、亡き定一の喫茶店が、同じディッパー・マウス・ブルース、として営業している。そこを、るいとジョーがおとずれる。この喫茶店は、こぶりながら昔の定一の店を彷彿とさせるものになっている。ジョーは、昔のことを思い出し、トランペットは無理だが、ピアノを弾いてみようかという気持ちになる。東京にいるトミーが、呼ばれて岡山までやってくる。
八月一五日。雉真の家にいたひなたは、平川唯一の亡霊(?)に出会う。そのころ、るいは、神社の拝殿の前で、稔のこれも亡霊(?)を目にする。そこに、昔、岡山であったいろんな出来事や人物が重ねられている。
この一連の映像と音楽の流れが、実に自然につくってあった。非常にたくみであり、考えてあったことになる。岡山で、安子と稔、るいとジョーのこと、ひなたのこと、英語のこと、おはぎのこと、ラジオ英語講座、様々な思い出が一緒になる。
京都にもどり、ひなたは英語のラジオ講座を聴き始める。そして、るいから、昔のことを聞く。今度は、ひなたも英語講座を、きちんと聴いている。
映画村では、外国人の観光客がやってきても、ひなたが対応できるようになっている。そこに、榊原からの話として、ハリウッドとの共作のことを聞く。
この週は、ざっと以上のようなことであった。
たくみだなと感じたのは、神社の拝殿の前で、るいが稔の姿を見て、お父さんと直感的にさとったことだろう。その前に、昔のシーンで、安子がるいを背負って神社の前でうずくまる場面があり、その流れの延長で、るいの視線の先に稔が立っている、ということになっていた。
普通、このような設定で、故人が登場すると、非常にわざとらしい感じがするものだが、八月一五日の終戦の日の正午のサイレンを合図に、現在と過去が入り交じるというのは、非常に考えてあると感じる。そして、これは、それまでに、終戦の日の甲子園のこととか、それに合わせて黙祷する京都の大月の家族のこととか、きちんと描いてきてあったからだと理解できることでもある。ドラマのなかでのさりげない描写の積み重ねということの意味が重要であることになる。
ただ、一つだけ気になったのは、ひなたが京都で英語の勉強をするとき、昔、稔が使っていた英語辞書を取り出したことである。たしかに、これは、小道具の使い方としては、たくみではある。だが、稔の辞書は、戦前のもので安子に与えたものである。それを、1990年代になって使い続けるのは、どう考えても無理がある。ここは、ひなたが、(いくら勉強ができなかったとはいえ)高校のときに使った英語の辞書ぐらいが、適当かと思う。本当は、新しい辞書を買うべきところではあるが。
このドラマのなかで、ハリウッドとの共作ということが出てきていた。その後、アメリカで作られた時代劇ドラマが最高に高く評価されることになる。しかし、それを、このドラマのなかの時代においても、また、このドラマをNHKが制作した時点においても、誰も予見できなかったことにちがいない。
2025年4月12日記
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