『あんぱん』「フシアワセさん今日は」 ― 2025-04-13
2025年4月13日 當山日出夫
『あんぱん』「「フシアワセさん今日は」
のぶの家では、お父さんが死んでしまい、そのうえさらに祖父がけがをしてしまう。暮らしにこまることになり、内職だけではどうにもならないので、パンを焼いて売ることになる。やむおじさんに頼んでパンを焼いてもらう。はじめはいやだと言っていたが、そうこうしているうちに本格的に窯を作ってパンを焼くことになる。焼けたアンパンは、一個三銭で行商することになるのだが、これがなかなか売れない。
崇は母親においてけぼりにされる。母から葉書が来て、その住所を頼りに高知市内まで歩いて行く。そこには、母の新しい夫と子どもがいる。
しょげて帰る崇を見つけて、のぶと母は、アンパンを崇にあげることになる。アンパンを食べた崇は元気になる。
そして、月日が流れて、のぶが高等女学校に通っている。崇と千尋もおなじように学校に通っている(たぶん、中学校だろうと思うが、この週では説明はなかった。)
印象に残っているのは、やむおじさんが、パンを作るところ。生地をこねて、窯で焼くところまで、かなりリアルに映していた。このドラマでは、(前の『おむすび』にくらべてということもあるが)、人が仕事をするシーンをきちんと描くようである。パンを作る様子、石材店の仕事の様子、お医者さんの診察室の様子、こういうことが説得力があるように描いてあると、ドラマとしての魅力が増すことになる。
ただ、石材店の仕事は、現代ではかなり機械化されているので、昔ながらの作業風景の再現は、かなり難しいところがある。ノミによる手彫りでは、輪郭のくっきりとした文字を墓石に掘ることはできないはずである。
パンを焼くにしても、とりあえず石をつみあげた窯で、そううまく焼けるとは思えないこともないが、ここは、ドラマとして、おいしいパンが焼けたことになっている。
崇は、高知市内まで歩いて行って、歩いて帰ったようである。汽車の駅というのは、そもそもが、街中の便利なところには作らなかったものであるし、また、駅と駅との間隔も長い。東京で、地下鉄の駅の間を歩くのとはわけがちがう。
いろいろと、疑問点がないわけではないのだが、全体として、このドラマは、丁寧に作ってあると感じる。個々の場面の映像としての作り方が、とてもいい。特に、のぶの家のなかの様子とか、崇の部屋の様子とか、家の外からの光による明暗比をうまく使って、コントラストのある、はっきりとした構図で、映像としてある。
さりげない台詞かもしれないが、家からいなくなり高知に行ってしまった崇について、おじさんは、崇を信じて帰るのを待とう、と言っていた。こういうおじさんのもとでなら、崇はきちんと自立した考えを持つ人間に育っていくのだろうと、感じさせるところであった。
おなかをすかせている人にアンパンをあげる。非常に単純なことだが、いろんな意味がこめられる。こういう形の正義を、最後まで描くものであってほしい。
2025年4月12日記
『あんぱん』「「フシアワセさん今日は」
のぶの家では、お父さんが死んでしまい、そのうえさらに祖父がけがをしてしまう。暮らしにこまることになり、内職だけではどうにもならないので、パンを焼いて売ることになる。やむおじさんに頼んでパンを焼いてもらう。はじめはいやだと言っていたが、そうこうしているうちに本格的に窯を作ってパンを焼くことになる。焼けたアンパンは、一個三銭で行商することになるのだが、これがなかなか売れない。
崇は母親においてけぼりにされる。母から葉書が来て、その住所を頼りに高知市内まで歩いて行く。そこには、母の新しい夫と子どもがいる。
しょげて帰る崇を見つけて、のぶと母は、アンパンを崇にあげることになる。アンパンを食べた崇は元気になる。
そして、月日が流れて、のぶが高等女学校に通っている。崇と千尋もおなじように学校に通っている(たぶん、中学校だろうと思うが、この週では説明はなかった。)
印象に残っているのは、やむおじさんが、パンを作るところ。生地をこねて、窯で焼くところまで、かなりリアルに映していた。このドラマでは、(前の『おむすび』にくらべてということもあるが)、人が仕事をするシーンをきちんと描くようである。パンを作る様子、石材店の仕事の様子、お医者さんの診察室の様子、こういうことが説得力があるように描いてあると、ドラマとしての魅力が増すことになる。
ただ、石材店の仕事は、現代ではかなり機械化されているので、昔ながらの作業風景の再現は、かなり難しいところがある。ノミによる手彫りでは、輪郭のくっきりとした文字を墓石に掘ることはできないはずである。
パンを焼くにしても、とりあえず石をつみあげた窯で、そううまく焼けるとは思えないこともないが、ここは、ドラマとして、おいしいパンが焼けたことになっている。
崇は、高知市内まで歩いて行って、歩いて帰ったようである。汽車の駅というのは、そもそもが、街中の便利なところには作らなかったものであるし、また、駅と駅との間隔も長い。東京で、地下鉄の駅の間を歩くのとはわけがちがう。
いろいろと、疑問点がないわけではないのだが、全体として、このドラマは、丁寧に作ってあると感じる。個々の場面の映像としての作り方が、とてもいい。特に、のぶの家のなかの様子とか、崇の部屋の様子とか、家の外からの光による明暗比をうまく使って、コントラストのある、はっきりとした構図で、映像としてある。
さりげない台詞かもしれないが、家からいなくなり高知に行ってしまった崇について、おじさんは、崇を信じて帰るのを待とう、と言っていた。こういうおじさんのもとでなら、崇はきちんと自立した考えを持つ人間に育っていくのだろうと、感じさせるところであった。
おなかをすかせている人にアンパンをあげる。非常に単純なことだが、いろんな意味がこめられる。こういう形の正義を、最後まで描くものであってほしい。
2025年4月12日記
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