『べらぼう』「死を呼ぶ手袋」2025-04-14

2025年4月14日 當山日出夫

『べらぼう』「死を呼ぶ手袋」

この回は、かなり演出が凝っている。映像としても、今のテレビの画面で表現出来るぎりぎりのところを使っていると感じる。

終わりの方の、茶室のシーン。かなり照明をおとして撮影してある。普通なら、もっと明るくするか、あるいは、外からの光を強調してにして明瞭な明暗比のある画面で構図を作るか、というところだが、なんとか人物の表情が見える、最低限の光での表現にしてある。

私は、『べらぼう』は、日曜日の昼間に4Kで見ることにしている。4K画像だと、普通の放送より、いくぶんコントラストが強くなる。それで見て、なんとか分かるかなといった印象だった。

対照的なのが冒頭の、蔦重と瀬以のシーン。ここも大胆な構図であるが、非常に明暗の対比のある画面構成になっていた。

この週は、蔦重はあまり出てこなかった。朋誠堂喜三二と組んで、なにかやりたいというところまでである。ドラマの筋の流れとしては、朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝、と登場してきているので、そろそろ江戸の戯作の世界というものを描く方向にむかっていくのかとも思っている。

売れる売れないよりも、楽しい方がいい。この時代の戯作者とは、そういうものだったのだろう。

蔦重はいっていたが、吉原が面白くなることは、女郎も楽しい……これは、どうだろうか。女郎にとっては、つとめが厳しくなるようにも思えるが。

杉田玄白が登場していた。たしかにこの時代の人物ではあるのだが、出版として、蔦重などの戯作の領域と、医学書の領域は違っていたはずなので、はたしてどういう接点があっただろうかという気はする。できれば、杉田玄白よりも、前野良沢の方を出してほしかったという気持ちもある。吉村昭の『冬の鷹』は、前野良沢を描いた歴史小説として、とても面白い。

平賀源内の若いときの様子がすこしだけあった。自分のことを、本草学者といい、『物類品隲』を手にしていた。このころ、エレキテルがインチキ、イカサマ、と思われていたとしても、おかしくはないかもしれない。

蝦夷地の開発を、田沼意次に進言していたが、ロシアの船が日本にやってきていた時代であり、蝦夷地を幕府の直轄地にして、対ロシア交易を始めるというのも、一つの考え方であったかとは思う。(まあ、アイヌの人々にとっては、迷惑な話であったにはちがいないが。)

さて、手袋に毒をしこむということの真相は、はたしてどうなのだろうか。歴史の事実とは別に、ドラマとしては、非常に謎めいた作り方になっている。田沼意次が失脚し、松平定信へと、政治の軸が移っていく過程を、どう描くことになるのだろうか。本当の歴史の黒幕は誰で、だれが操り人形だったのか、ということかとも思うが。

高岳はさすがの貫禄である。


この時代、カステラを食べていた、ということなのだろう。

蔦重は、自分で言っていたが、自分は文をく才がない。これは、しかし、出版プロデューサ、編集者、板元、としての目と才覚はある、ということになるのだろう。

2025年4月13日記

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