NHKスペシャル「未完のバトン 第1回 密着 “国債発行チーム”」2025-04-19

2025年4月19日 當山日出夫

NHKスペシャル 未完のバトン 第1回 密着 “国債発行チーム”

経済や財政のことについては、まったく知識がない。だが、国債が要は借金であること、いずれ利息をつけて返さなければならなこと……これぐらいは、分かっているつもりである。

ニュースなど見ていると、何かにつけて、財源をどうするかとなると、特別にその目的のために国債を発行して、という議論が必ず出てくる。だが、ここは、冷静になって、それは借金をしてまで実現すべき政策なのかどうか、考えることが必要ということになる。

見ていて思ったことであるが、財務省の課長補佐クラスの官僚が、地方銀行まで出向いていって国債のセールスをしている。あるいは、中東まで行って投資家に日本の国債について説明している。こういう光景は、一昔前では、考えられなかったことかもしれない。(ひょっとすると、行われていたことなのかもしれないが、財務省の役人の仕事としてイメージしづらい。)

今の日本の国家財政の状況が、異常である……とまでは言いきっていなかったが、しかし、内容としては、かなりアベノミクス批判というべきものになっていた。常識的に考えて、国債をたくさん発行して、それを日銀が買い入れる、これを一〇年以上もつづけてきたことは、どうかしている。当初の目論み……一般に言われていることだと、二年で二パーセントの物価上昇……が、達成できなかった時点で、ひきかえすべきだった、ということになるだろう。これで国家の財政が健全でどうにでもなるということなら、同じようなことを他の国でもしているはずだが。

財政にはその専門家の知見が必要であるが、しかし、最終的な政策決定のプロセスは、民主的なシステムによって公開されるべきもの、そして、広く批判をうけるべきもの、ということはいっていいだろう。(どうでもいいことかもしれないが、国会の予算委員会で、予算について議論が交わされているという場面が、あまりにも少ないと感じるのだが、どうだろうか。予算以外の話題についての、与野党の議員のパフォーマンスの場になってしまっている。)

2025年4月15日記

ダークサイドミステリー「あなたの隣の連続殺人鬼〜ジェフリー・ダーマー 孤独の幻想〜」2025-04-19

2025年4月19日 當山日出夫

ダークサイドミステリー あなたの隣の連続殺人鬼〜ジェフリー・ダーマー 孤独の幻想〜

再放送である。最初は、2023年4月20日。

アメリカでこういう事件があっても、あまり日本で大きく報道されることはない。銃の乱射事件というような場合は、別であるが。

日本でも、何年かおきぐらいに、どうにもわけのわからない異常としか思えない犯罪が起こることがある。ジェフリー・ダーマー事件のように、一〇人以上も殺したというようなことは、あまりないが(まったく無いわけではないけれど)。しかし、猟奇的というか、異常というべき事件は、決してなくならない。

考えようによっては、社会においては、なにがしかいびつな面があるものであり、それが、このような異常な事件になって出てくる……これは、むしろ社会が正常であるということかとも思う。具体的に、どのような事件となるかは、それぞれの時代や社会で、あるいは、事件が実際に起こった状況で、異なることになるだろうが。

番組を見ていて、冷静に分析しているなと感じるのは、心理学の先生。学問としての心理学が、本当にどこまで人間の心理の奥底まで開明できるのか、(それは、サイエンスなのか)、という問題はあるとしても、可能な限り客観的に、犯人の心のうちを分析しようとしている。

こういう番組を見ていつも思うことの一つに、現代の人間の感覚として、犯罪者の心の闇、ということを、安直に使いすぎるのではないかということがある。分からないものは、分からない、それでいいのではないか……まあ、被害者の立場になったら、そうもいってはいられないとは思うが、一般的、人間のこころが、すべて開明できて、場合によってはコントロールできる、と考えることの方が、場合によっては、とても恐ろしいことであると、私には思える。

それにしても、たてつづけに、被害者となった男性が行方不明になっていたはずなのだが、このことで、警察は動かなかった、ということなのだろう。日本ならば、ある地域で、似たような行方不明者……この場合は、若い男性で、おそらくは同性愛者であった……が、連続するならば、警察の出る場面だと思うのだが。

2025年4月16日記

時をかけるテレビ「桜紀行〜名金線・もう一つの旅〜」2025-04-19

2025年4月19日 當山日出夫

時をかけるテレビ 桜紀行〜名金線・もう一つの旅〜

見ていていろいろと思うことはある。

まず、国鉄バスの車掌さん、というものが、今の若い人には分からないことだろう。(私の年代なら分かることではあるけれど。)

若いときの佐藤さんが、自分の人生に疑問を感じて、東京に行き、武者小路実篤のもとをたずねた。実篤は、「自分の道を探すことだけです」と答えた。それで、桜の木を植えることにした。番組が放送されたのは、1984年(昭和59年)であるが、この時代までは、武者小路実篤という作家のことが、人びとに読まれた時代であったというべきだろう。(今では、どうだろうか。今でも、その作品は刊行されている。私としては、あまり読みたくなる作家ではないのだが。)

桜というものが、文学などの主要なテーマになってきたのは、一般的にいえば、平安時代の古今集ぐらいから、ということになる。その前の万葉集の時代、花として出てくるのは、萩であり、梅である。これは、日本文学の常識といってよい。(ただ、万葉集の歌が、その時代の日本の人びとの何をどのように表しているのか、検討しなければならない。また、平安貴族の美意識が、今日まで伝わっていることの経緯についても、慎重に考える必要がある。)

少なくとも、桜=花、という図式で季節を感じるようになり、表現するようになったことの歴史ということについては、手放しでそれを礼讃するということは、疑問がある(学問的には、ということになるが。)

そうはいうものの、国鉄バスの車掌をしながら、そして、家庭のことはかえりみずに、ひたすら桜の木を植え続けていった……こういう人がいたということは、忘れてはならないことである。あるいは、今でも、世の中のどこかには、このような人がいるのかもしれない。

それから、桜の苗木を育てるのに、実生で育てたということも、おどろきである。普通は、こんなことはしないだろうと思うが。どうしても、莊川の桜の子孫として、桜の木を植えたかったのだろう。

気になったは、やはり、能登半島の輪島に植えられた桜。今年も無事に花を咲かせたらしい。できれば、この桜の花を愛でる人びとの生活が続いてほしいと思う。

2025年4月16日記