『チョッちゃん』(2025年4月14日の週) ― 2025-04-20
2025年4月20日 當山日出夫
『チョッちゃん』の2025年4月14日からの週の放送(再放送)を見て、思うことなどである。
このドラマを見ていて思うことの一つとして、昭和のはじめの女学校の生徒を描いているのだが、男性と同じように社会で頑張ろう、という気持ちの表現が出てきていない。この時代だから、女学校を出れば、普通は結婚である。そもそも、女学校に進学すること自体が、この時代の女性としては高学歴で、少数派である。そのなかで育っている蝶子をはじめとする生徒たち、それから、女学校の先生たち、これらの言動には、これからの時代は女性も男性と同じように社会で活躍する時代である、といういきごみのようなものが、まったく出てきていない。(少なくとも、この週までに描かれた範囲では。)
『チョッちゃん』の最初の放送は、1987年(昭和62年)である。男女雇用機会均等法が成立したのは、1985年(昭和60年)、施行はその翌年になる。ちょうど世の中の趨勢としては、社会での女性の活躍が求められる時代になりつつあるころ、ということになる。
こういうことは、今放送している『あんぱん』と比較して見ると顕著である。ドラマの始まりは、両方とも昭和2年である。昭和の戦前の時代が舞台である。同じころの時代でドラマを作ってあるのだが、『あんぱん』では、主人公ののぶは、これからの時代は女性も男性と同じように活躍するべきだ、と自分の主張を述べる。これは、その父親(すでに亡くなっているのだが)が、そう幼いのぶに教えていたことでもあり、母親もそれに賛同している。否定的なのは、祖父だけである。無論、祖父は、昔ながらの封建的家父長制的な価値観を体現する存在として役割を与えられている。(女性が、パンくい競走にでることはできないのは、いうまでもなく当たり前のことだと言っている。)
前々作の『虎に翼』は、最初の設定から、日本で最初の裁判官になった女性の物語として、設定されていた。
蝶子は、ロシア人のパン屋のおじいさんと仲よくなり、学校にパンを売りに来るようにいう。それが問題になって、蝶子はおじいさんのところに謝りに行く。そして、さらにそのことが問題になる。最終的には、許されるということにはなっていたが。この一連の流れを見ていると、登場する、校長先生や他の教員の考え方は、旧弊であり古めかしい。しかし、それを、間違っていることとして糾弾することは、ドラマのなかには出てこない。校長先生のような、あるいは、蝶子の父親のような考え方があったということ、そういう時代であったということを、そのまま素直に描いている。
現代に通じるかたちで、女性の生き方についての価値観をドラマで描くことが、ごく普通のことになってきている。これは、現代の社会における価値観の変化を反映したものであることになる。
かつて、蝶子のような女性を描く時代から、現代ののぶのような女性を描く時代へと、変化してきている。この変化自体については、これは、歴史の流れのなかで起こってきていることであり、そういうものだと思うのだが、人びとの気持ち、価値観には、その背景に歴史がある、ということは確かなことである。歴史を無視して思想を語ってはいけない。
それから、蝶子がパン屋のおじいさんの家を訪問したシーン。おじいさんは、ロシア人で祖国の事件で、帰れなくなったと言っていた。チャイコフスキーのレコードをかけながら、自分の半生を語っていた。しかし、それを聞いている蝶子は、ロシア革命について、何も知らなかっただろう。無邪気に紅茶を飲んで、おしゃべりしていた。これは、見方によっては、非常に残酷なシーンでもある。(今の時代に同じような場面を描くとすると、もっと説明的に作ることになるかと思う。)
どうでもいいようなことかもしれないが、ドラマの中では、蝶子が手紙を書くような場合、ペンにインクをつけて書いている。これが、この時代から、昭和四〇年代ぐらいまで普通にあったことである。それが、現代で作るドラマになる、こういうペンの使い方が出てこない。鉛筆を使うことが多い。『虎に翼』は基本的に鉛筆だった。これは、小道具を用意する手間暇ということもあるだろうし、かつての普通の人びが、どのように文字を書いていたかということの記憶が失われてきているということであるともいえよう。あるいは、蝶子の時代だったら、まだ毛筆が日常的に使われていたかとも思う。
2025年4月19日記
『チョッちゃん』の2025年4月14日からの週の放送(再放送)を見て、思うことなどである。
このドラマを見ていて思うことの一つとして、昭和のはじめの女学校の生徒を描いているのだが、男性と同じように社会で頑張ろう、という気持ちの表現が出てきていない。この時代だから、女学校を出れば、普通は結婚である。そもそも、女学校に進学すること自体が、この時代の女性としては高学歴で、少数派である。そのなかで育っている蝶子をはじめとする生徒たち、それから、女学校の先生たち、これらの言動には、これからの時代は女性も男性と同じように社会で活躍する時代である、といういきごみのようなものが、まったく出てきていない。(少なくとも、この週までに描かれた範囲では。)
『チョッちゃん』の最初の放送は、1987年(昭和62年)である。男女雇用機会均等法が成立したのは、1985年(昭和60年)、施行はその翌年になる。ちょうど世の中の趨勢としては、社会での女性の活躍が求められる時代になりつつあるころ、ということになる。
こういうことは、今放送している『あんぱん』と比較して見ると顕著である。ドラマの始まりは、両方とも昭和2年である。昭和の戦前の時代が舞台である。同じころの時代でドラマを作ってあるのだが、『あんぱん』では、主人公ののぶは、これからの時代は女性も男性と同じように活躍するべきだ、と自分の主張を述べる。これは、その父親(すでに亡くなっているのだが)が、そう幼いのぶに教えていたことでもあり、母親もそれに賛同している。否定的なのは、祖父だけである。無論、祖父は、昔ながらの封建的家父長制的な価値観を体現する存在として役割を与えられている。(女性が、パンくい競走にでることはできないのは、いうまでもなく当たり前のことだと言っている。)
前々作の『虎に翼』は、最初の設定から、日本で最初の裁判官になった女性の物語として、設定されていた。
蝶子は、ロシア人のパン屋のおじいさんと仲よくなり、学校にパンを売りに来るようにいう。それが問題になって、蝶子はおじいさんのところに謝りに行く。そして、さらにそのことが問題になる。最終的には、許されるということにはなっていたが。この一連の流れを見ていると、登場する、校長先生や他の教員の考え方は、旧弊であり古めかしい。しかし、それを、間違っていることとして糾弾することは、ドラマのなかには出てこない。校長先生のような、あるいは、蝶子の父親のような考え方があったということ、そういう時代であったということを、そのまま素直に描いている。
現代に通じるかたちで、女性の生き方についての価値観をドラマで描くことが、ごく普通のことになってきている。これは、現代の社会における価値観の変化を反映したものであることになる。
かつて、蝶子のような女性を描く時代から、現代ののぶのような女性を描く時代へと、変化してきている。この変化自体については、これは、歴史の流れのなかで起こってきていることであり、そういうものだと思うのだが、人びとの気持ち、価値観には、その背景に歴史がある、ということは確かなことである。歴史を無視して思想を語ってはいけない。
それから、蝶子がパン屋のおじいさんの家を訪問したシーン。おじいさんは、ロシア人で祖国の事件で、帰れなくなったと言っていた。チャイコフスキーのレコードをかけながら、自分の半生を語っていた。しかし、それを聞いている蝶子は、ロシア革命について、何も知らなかっただろう。無邪気に紅茶を飲んで、おしゃべりしていた。これは、見方によっては、非常に残酷なシーンでもある。(今の時代に同じような場面を描くとすると、もっと説明的に作ることになるかと思う。)
どうでもいいようなことかもしれないが、ドラマの中では、蝶子が手紙を書くような場合、ペンにインクをつけて書いている。これが、この時代から、昭和四〇年代ぐらいまで普通にあったことである。それが、現代で作るドラマになる、こういうペンの使い方が出てこない。鉛筆を使うことが多い。『虎に翼』は基本的に鉛筆だった。これは、小道具を用意する手間暇ということもあるだろうし、かつての普通の人びが、どのように文字を書いていたかということの記憶が失われてきているということであるともいえよう。あるいは、蝶子の時代だったら、まだ毛筆が日常的に使われていたかとも思う。
2025年4月19日記
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