ドキュメント72時間「岐阜・西柳ヶ瀬 “シャッター街”ブルース」2025-04-24

2025年4月24日 當山日出夫

ドキュメント72時間 岐阜・西柳ヶ瀬 “シャッター街”ブルース

「柳ヶ瀬ブルース」という曲は知っている。(今の若い人は知らないだろう。)

全国にシャッター街となっているところは、たくさんあるにちがいないが、中でも、西柳ヶ瀬の場合は、昔からの栄枯盛衰がはげしい。その凋落ぶりが、非常に印象的である。

おそらく、この地域の再開発計画というようなものはあるのだろうと思うが、実際にはどうなのだろうか。もう今からでは、手遅れという感じがする、というのが正直なところである。この街の将来の姿は、元はシャッター街であった廃墟の街、であるのかもしれない。

おそらく、地元の人びとが、日常の買物などだったら、郊外のショッピングセンターに自動車で行く、ということが普通なのだろうと思う。鉄道を使うなら、名古屋まで行ってしまうかとも思う。おそらくは、この地域としては、過疎高齢化、少子化、人口減少、という現象から逃れることはできないはずである。

昔は繊維産業で栄え、多くの客で賑わう夜の街だった。その産業がすたれ、また、性風俗店もしめだされるとなると、この商店街が、昔のにぎわいをとりもどすことは、不可能だろう。廃ビルが多いということは、所有者、地権者が、はっきりしない場合も少なくないだろう。錯綜する利権を整理して、地域全体の再開発を考えるとなると、非常にコストがかかることになるはずである。

それにしても、もとキャバレーだったところが、経営者が夜逃げしていなくなってしまい、そのままの状態で残されている……これは、店のなかを片づけるだけのコストももったいないから放置してある、ということでいいだろうか。

かなり広い駐車場が映っていた。これは、何かの跡地だろうと思うのだが、次のビルを建てることもなく、ただ駐車場としてしか利用価値がない、ということでいいのだろうか。

この回では、意図的にそうしたわけではないだろうが、子どもが出てきていなかった。子どもの声の聞こえない街に、将来の展望は期待できないだろうと思う。

介護施設職員の送別会。こういう人間関係の職場もあっていいと思うが、しかし、こういう昭和的とでもいうような雰囲気は、一般的にはあまり歓迎されないものになっているだろう。

ただ、番組としては面白かった。今年のベストテンにはいるだろうと思う。

2025年4月19日記

BS世界のドキュメンタリー「絶滅種が復活?! 野生動物保護の危うい未来」2025-04-24

2025年4月24日 當山日出夫

BS世界のドキュメンタリー 「絶滅種が復活?! 野生動物保護の危うい未来」

2024年、ドイツの制作。

マンモスの復活のプロジェクトがあることは知っていたのだが、具体的に、どういう状況で進行しているのか、ということは知らなかった。たぶん、近いうちに、マンモスの復活ということは、実現する可能性がある。

この番組を見て興味があるのは、バイオテクノロジーの企業である、コロッサル・バイオサエンシズに投資してるのは、どういうことを考えてのことなのだろうか、ということである。たしかにマンモスの復活ということは、知的には関心のあることにはちがいないが、しかし、ビジネスになる話しではないように思える。巨額の投資をして得られる見返りは、おそらくは、この技術が将来的には、さまざまな産業や、それから、医療などの分野に、応用ができる可能性がある、ということを考えてのことだろうと思う。しかし、そのような未来が、そう希望に満ちたものであるとは、私には、どうしても思えない。

生物は、DNAによって決定される……という考え方が、基本にはある。だが、実際の野生の生物の行動を見るならば、すべてがDNAで説明できるとは限らないだろう。その生まれ育った環境……気候風土などの自然環境、どのようなものをエサとして食べればいいのか、周囲の動物たちとのつきあいから、天敵から身を守る方法……こういうことは、その動物が、育っていく中で、母親や仲間から教えられる部分というのがあるにちがいない。こういうことが継承されないで、その生物が野生のなかで生きていけるのだろうか。また、それを、生物多様性の復活といえるのだろうか。

番組のなかに出てきた事例では、キタシロサイのことは、かろうじて許容できるかもしれない。まだ、絶滅したわけではない。大人の動物から(二頭しか生きのこっていなが)から、自然での生き方を学ぶこともできるだろう。

しかし、マンモスはどうだろうか。フクロオオカミが復活したとしても、狩りの仕方を、どうやって身につけて野生で生きていくことになるのだろうか。

生物多様性というのは、ダイナミックな動きをするものである、という視点も重要だろう。地球上に生物が誕生してから、絶滅してしまった生きものの方が、圧倒的に多い。現代でも、生物の世界は、常に変動していると考えることの方が自然だろう。ただ、今では、人類の影響が非常に大きくなって、その変化が急激である、ということはある。

生物にとって自然環境で生きていくということはどういうことなのか、生物にとってDNAとはいったい何なのか、こういうことへの根本的な考察が求められているということはたしかなことだろうと、私は思うのである。

2025年4月18日記

知恵泉「小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦」2025-04-24

2025年4月24日 當山日出夫

知恵泉 小泉八雲・セツ “怪談”異文化を越えた夫婦

今の朝ドラの次は、『ばけばけ』で小泉八雲と妻のセツの話になる。NHKもいろんな番組で、小泉八雲のことをとりあげることになるだろうが、これもその一つになる。

番組の冒頭で、荒俣宏が、小泉八雲のことを、「世界に珍しい、失われた楽園を求めて失敗せずに成功した人」と言っていたのは、そういうものかと思う。

小泉八雲、ラフカディオ・ハーンが、ギリシャ出身でアイルランドで学び、そして日本にやってきた、ということぐらいしか知らない。おそらく、ギリシャも、アイルランドも、当時(19世紀)のヨーロッパにおいては、周縁の地域と考えていいかもしれない。そういう背景があって、日本にやってきて、そして、松江で暮らすことになったというのが、とても興味深い。松江、あるいは、出雲、という土地は、日本の中央(京都や江戸)から見れば、辺境、周縁の地域ということができるだろう。

サウンドスケープと言っていた。音、聴覚で、世界を感じる、このことの意味を考えることになる。音の世界についての感性があったからこそ、小泉八雲の仕事があったことになる。

また、日本に色濃く残っていた、あるいは、今でもある、素朴なアニミズムも重要だろう。西欧的な一神教の世界からは、低くみられがちなアニミズムであるが、これは、これで、非常に豊潤な世界を形づくるものでもある。(文化人類学的な知見が構築されてくるのは、これより後の時代のことになる。)

その小泉八雲の『怪談』が、妻のセツの「語り」をもとに書かれたということも、とても面白い。話しことばによる語り、言いかえると、言語の身体性、ということになるかと思うが、ただ書物を読んで得た知識によるものではないことは、重要であろう。

妻のセツとのコミュニケーションも面白い。小泉八雲は日本語ができない。セツは英語ができない。それぞれ、かたことの英語と日本語でコミュニケーションしていたことになる。おたがいに、ヘルンことば、というもので会話していた、という。

異文化理解ということについて、音やことばの身体性からはいっていくというのは、一つのアプローチの仕方であるにちがいない。

昔、私が学生だったころ、虫の鳴く声を、人間の脳でどううけとめているか、という研究があったのだが、このことは、今ではどう考えられているだろうか。現在では、fMRIなど、技術的な進歩をふまえて、人間の脳が、音の世界にどう反応するのか、ということは、研究が進んでいる分野だろうとは思う。

『古事記』の英訳本が出てきていた。おそらく元になったのは、本居宣長の仕事であるにちがいないが、『古事記』を外国の人は、どのように読んだのか、これも興味のあるところである。

後年、東京帝国大学で英語を教えていたとき、その講義に、学生がうっとりと聞き惚れていた、と荒俣宏が語っていた。昔は、大学の講義でも、先生の名調子というものがあった。(私の学生のころには、もうすたれたことだったかと思うが。)だが、語学や文学の教師の魅力というのは、その講義の語り口、そのことばの身体的な感覚でつたわるものがある……これは、たしかにそのとおりだろうと思う。

今では、大学の語学の授業、特に英語などは、コミュニケーションのための英語という傾向が非常につよい。根源的には、ことばの教育というのは、ことばの身体性として伝えるべきもの、少なくともそういう部分がある、ということは、再認識されてもいい。こういう意味では、語学の授業で、文学作品を教材としてとりあげ、音読して読む、という昔ながらの方法にも、意味があったことになるだろう。

2025年4月23日記

ダークサイドミステリー「UFOに挑んだ科学者の夢 天文学者アレン・ハイネック 不屈の信念」2025-04-24

2025年4月24日 當山日出夫

再放送である。最初は、2023年5月11日。

ダークサイドミステリー UFOに挑んだ科学者の夢 天文学者アレン・ハイネック 不屈の信念

科学の世界において、疑似科学、エセ科学は、基本的に相手にされない。その理由としては、いろいろあるが、科学の研究者として、そういうことに付き合うのは、ものすごくエネルギーがいることでありながら、研究者として評価されることではないからである……これは、番組に出ていた、国立天文台の渡辺潤一さんが言っていたことだが、そのとおりだと思う。まあ、渡辺さんが、この番組に出てこういうことを語るということ自体は、ある意味での、科学の啓蒙活動の一つという位置づけだからなのだろうと思うことになる。

それから、興味深かったのは、国立天文台にも、一般からUFOの情報は寄せられるのだが、よくよく話しを聞いてみると、そういう人は、普段はあまり夜空を見たりしない人である、だから、自分の見た現象を、これは本当にあったことなんだと信じこんでしまう……これは、そうなのだろうと思う。

この回の放送は、科学とはどういうことなのか、ということを考える意味では、かなり面白い内容になっていたと、私は思う。

UFOについて、仮説はいくらでもたてられるのだろうが、科学的な仮説というのは、それをどうやれば検証できるか、ということをふくむものでなければならない。これが、一般に使われる仮説ということばのつかいかたと、科学(サイエンス)の領域で使われる仮説ということばのつかいかたの、本質的な違いということになる。

UFOの研究は、UFO証言の研究である、これも重要な指摘である。UFOについては、だれもがなっとくする、物理的な証拠……それが未解明のものであっても……が、存在しない、ということになる。

科学の世界では、証言にもとづいて研究する場合、性悪説であるべき、というのはそうだろうと思う。いや、本当にそうあるべきである。これが、人文学で、歴史研究などの領域だと、証言があっても、それに対して、疑問をなげかけたり、記憶の誤りの可能性など指摘することは、時として、歴史修正主義の批判を受けかねない。(戦争や災害の被害者の語ることは、絶対に疑ってはならず、その活動は語り部として継承されるべきである……こういうところに、史料批判はうけいれられない。)

そうはいっても、なぜ、歴史的にUFOが話題になり、それが、社会でどう受けとめられてきたのか、ということの歴史的、社会的な方面からの研究は、これはこれで意味のあることでもあると、思う。

そして、現代の科学で説明できない事象がある、ということは当然のこととして……これは、それこそ、たくさんあるにちがいない……そのなかの一つとして、UFOが見なおされるときがくるかもしれない、とは思うのであるが。その可能性だけは、残しておきたい気がする。

2025年4月17日記