ダークサイドミステリー「UFOに挑んだ科学者の夢 天文学者アレン・ハイネック 不屈の信念」 ― 2025-04-24
2025年4月24日 當山日出夫
再放送である。最初は、2023年5月11日。
ダークサイドミステリー UFOに挑んだ科学者の夢 天文学者アレン・ハイネック 不屈の信念
科学の世界において、疑似科学、エセ科学は、基本的に相手にされない。その理由としては、いろいろあるが、科学の研究者として、そういうことに付き合うのは、ものすごくエネルギーがいることでありながら、研究者として評価されることではないからである……これは、番組に出ていた、国立天文台の渡辺潤一さんが言っていたことだが、そのとおりだと思う。まあ、渡辺さんが、この番組に出てこういうことを語るということ自体は、ある意味での、科学の啓蒙活動の一つという位置づけだからなのだろうと思うことになる。
それから、興味深かったのは、国立天文台にも、一般からUFOの情報は寄せられるのだが、よくよく話しを聞いてみると、そういう人は、普段はあまり夜空を見たりしない人である、だから、自分の見た現象を、これは本当にあったことなんだと信じこんでしまう……これは、そうなのだろうと思う。
この回の放送は、科学とはどういうことなのか、ということを考える意味では、かなり面白い内容になっていたと、私は思う。
UFOについて、仮説はいくらでもたてられるのだろうが、科学的な仮説というのは、それをどうやれば検証できるか、ということをふくむものでなければならない。これが、一般に使われる仮説ということばのつかいかたと、科学(サイエンス)の領域で使われる仮説ということばのつかいかたの、本質的な違いということになる。
UFOの研究は、UFO証言の研究である、これも重要な指摘である。UFOについては、だれもがなっとくする、物理的な証拠……それが未解明のものであっても……が、存在しない、ということになる。
科学の世界では、証言にもとづいて研究する場合、性悪説であるべき、というのはそうだろうと思う。いや、本当にそうあるべきである。これが、人文学で、歴史研究などの領域だと、証言があっても、それに対して、疑問をなげかけたり、記憶の誤りの可能性など指摘することは、時として、歴史修正主義の批判を受けかねない。(戦争や災害の被害者の語ることは、絶対に疑ってはならず、その活動は語り部として継承されるべきである……こういうところに、史料批判はうけいれられない。)
そうはいっても、なぜ、歴史的にUFOが話題になり、それが、社会でどう受けとめられてきたのか、ということの歴史的、社会的な方面からの研究は、これはこれで意味のあることでもあると、思う。
そして、現代の科学で説明できない事象がある、ということは当然のこととして……これは、それこそ、たくさんあるにちがいない……そのなかの一つとして、UFOが見なおされるときがくるかもしれない、とは思うのであるが。その可能性だけは、残しておきたい気がする。
2025年4月17日記
再放送である。最初は、2023年5月11日。
ダークサイドミステリー UFOに挑んだ科学者の夢 天文学者アレン・ハイネック 不屈の信念
科学の世界において、疑似科学、エセ科学は、基本的に相手にされない。その理由としては、いろいろあるが、科学の研究者として、そういうことに付き合うのは、ものすごくエネルギーがいることでありながら、研究者として評価されることではないからである……これは、番組に出ていた、国立天文台の渡辺潤一さんが言っていたことだが、そのとおりだと思う。まあ、渡辺さんが、この番組に出てこういうことを語るということ自体は、ある意味での、科学の啓蒙活動の一つという位置づけだからなのだろうと思うことになる。
それから、興味深かったのは、国立天文台にも、一般からUFOの情報は寄せられるのだが、よくよく話しを聞いてみると、そういう人は、普段はあまり夜空を見たりしない人である、だから、自分の見た現象を、これは本当にあったことなんだと信じこんでしまう……これは、そうなのだろうと思う。
この回の放送は、科学とはどういうことなのか、ということを考える意味では、かなり面白い内容になっていたと、私は思う。
UFOについて、仮説はいくらでもたてられるのだろうが、科学的な仮説というのは、それをどうやれば検証できるか、ということをふくむものでなければならない。これが、一般に使われる仮説ということばのつかいかたと、科学(サイエンス)の領域で使われる仮説ということばのつかいかたの、本質的な違いということになる。
UFOの研究は、UFO証言の研究である、これも重要な指摘である。UFOについては、だれもがなっとくする、物理的な証拠……それが未解明のものであっても……が、存在しない、ということになる。
科学の世界では、証言にもとづいて研究する場合、性悪説であるべき、というのはそうだろうと思う。いや、本当にそうあるべきである。これが、人文学で、歴史研究などの領域だと、証言があっても、それに対して、疑問をなげかけたり、記憶の誤りの可能性など指摘することは、時として、歴史修正主義の批判を受けかねない。(戦争や災害の被害者の語ることは、絶対に疑ってはならず、その活動は語り部として継承されるべきである……こういうところに、史料批判はうけいれられない。)
そうはいっても、なぜ、歴史的にUFOが話題になり、それが、社会でどう受けとめられてきたのか、ということの歴史的、社会的な方面からの研究は、これはこれで意味のあることでもあると、思う。
そして、現代の科学で説明できない事象がある、ということは当然のこととして……これは、それこそ、たくさんあるにちがいない……そのなかの一つとして、UFOが見なおされるときがくるかもしれない、とは思うのであるが。その可能性だけは、残しておきたい気がする。
2025年4月17日記
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