100分de名著「村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (3)根源的な「悪」と対峙する」2025-04-25

2025年4月25日 當山日出夫

100分de名著 村上春樹“ねじまき鳥クロニクル” (3)根源的な「悪」と対峙する

この「100分de名著」を見ていて、これまで、あまり自分がその作品や作家に対してもっているイメージと、番組で語られること、この間にそんなに違和感を感じたことはなかったのだが、しかし、今回の『ねじまき鳥クロニクル』をについては、非常に違和感がある。自分で読んだ本、それも、かつて読み(村上春樹の小説はほとんど読んでいる)、つい最近も読みかえしたばかりであるのに、非常にイメージに齟齬を感じる。それは、番組のなかで引用され朗読される場面として、どの箇所を選ぶかということもあるし、それをどう理解するかということもあるし、また、アニメーションの印象もある。しかし、沼野充義の語っていることに賛成できない、ということではない。これはこれとして、十分に納得できる内容である。

おそらくは、村上春樹の作品が持っている要素が多様であり、人によって、読んで感じるところが、それぞれに非常に違う、ということなのだろうと思う。

この番組のなかでは、おそらく意図的に触れていないのだろうが、私は、村上春樹の作品の根底に流れている詩情というものが、気になっている。特に初期の作品にそれが顕著であるが、後の長編を書くようになっても、決して消えて無くなっていることはないと感じている。

この回の最後で、夢、ということに言及があった。『世界の終わりとハード・ボイルド・ワンダーランド』では、はっきりと夢のことが出てくる。夢は、ある意味で異界でもある。村上春樹の作品を読むとどうしても、異界との交信、ということを読んでしまうことになる。その典型的なかたちが、『ねじまき鳥クロニクル』で出てくるパソコンを介してメッセージのやりとり、ということである。(もう今では、パソコンの向こう側に異界を感じるという感性は、若いスマホを持つ人には通じないところかもしれないが。)

2025年4月22日記

木村多江の、いまさらですが…「絵本 やなせたかしと大人だからこそ読みたい作品」2025-04-25

2025年4月25日 當山日出夫

木村多江の、いまさらですが… 絵本 やなせたかしと大人だからこそ読みたい作品

やなせたかしの名前が目についたので、録画しておいて見た。

内容的には、特にやなせたかしのことに触れる必要はなかったかもしれない。もし触れるとしても、「アンパンマン」ではなく、「詩とメルヘン」の方が適切だっただろう。

我が家の子どもたちが、小さいときに読んだ絵本について、基本的に捨てずに残してある。それを、今では、孫の男の子(1才とちょっと)が見ている。見ているであって、読んでいるということには、まだなっていない。どうやら、ものとしての本は好きらしい。

私が、かつて、絵本を子ども買っていたとき、すきな作家のものは、意図的に選んで買っていた。わらべきみか、いもとようこ、いわむらかずお、馬場のぼる、斉藤洋、などである。それから、はやみねかおる、もある。

斉藤洋は、絵本というよりも、児童文学作家といった方がいいかもしれない。私は、子どもが成長していく物語が好きである。子どもの視点、感覚は、これは非常に大切であるが、しかし、いずれ、子どもは大人になっていく。そのさきにいったい何があるのか、考えるところが斉藤洋の作品にはある。たしか、大学のドイツ語の先生が本業である人であったはずだが、日本における、子どもむけの「教養小説」の書き手として、私は高く評価している。

はやみねかおるは、青い鳥文庫版で持っている。講談社文庫版は買っていない。かなりのミステリ好きでないと、青い鳥文庫版で買って読んだということはないだろう。

わらべきみか、いもとようこ、これらの作家は、とにかく絵が好きである。わらべきみかの絵のちからはすごいと感じる。単色で塗りつぶしてあるリンゴの絵があるだけでも、それが、その作者の描いたものであることが分かる。これは、絵を描くちからとして、並大抵のものではない。

いわむらかずおの絵が好きなのは、その植物観察の目の確かさである。身の周りの植物や鳥などの描写が、非常に正確であり、しかも、抒情に富んでいる。

ところで、日本の絵本の歴史というのは、おそらく、美術史と児童文学史にまたがる、独特の研究領域になるだろうと思う。おそらく多くの研究のある分野だろうと思うのだが、もう今から見てみようという気にはならないでいる。近代の出版史のなかでも、非常に重要な分野であるにちがいない。

街の本屋さんが姿を消している。私が普通に読むような本……一般的な本であれ、専門の本であれ……今ではオンラインで買うのが普通になっている。というよりも、Kindle版があれば、それで読むようになってきている。

街から本屋さんが無くなって困るのは、絵本を探すときだろう。これは、実際に実物をてにとらないと、分からないことが多い。

2025年4月22日記

TVシンポジウム「第28回 菜の花忌シンポジウム 〜「空海の風景」を読む〜」2025-04-25

2025年4月25日 當山日出夫

TVシンポジウム 第28回 菜の花忌シンポジウム 〜「空海の風景」を読む〜

たまたま番組表で見つけたので録画しておいて後で見た。

『空海の風景』は、若い時に読んだ本であるが、そう感銘をうけることのなかった作品である。やはり、司馬遼太郎の作品としては、戦国時代か、幕末から明治をあつかったものが、面白いと思っている。

登場していたのは、澤田瞳子、釋徹宗、上原登、磯田道史。無難なメンバーかなという印象を受けた。(はっきりいって、現代の、普通の歴史学者や宗教学者なら、司馬遼太郎を論じようとは思わないだろう。)

私は、司馬遼太郎が好きというよりも、それが、多くの人に愛好される理由の方に興味がある。そして、司馬遼太郎の作品が書かれて読まれたのが、日本のある時代を象徴するものになっている、と感じる。それは、小説よりも、「街道をゆく」の方により強く感じるといってもいい。

宗教的神秘体験を小説にどう描くか、ということは、これはこれで興味のあるところである。これに関連して、シンポジウムのなかで言われていたこととして、最澄は空海に経典を借りて筆写して勉強しようとした、空海はそれを拒否はしなかったが、それで十分だとは思っていなかった。これは、宗教的体験、宗教的叡知、というべきものは、自分で体験するしかないものである……という、いわば当たり前のことを語っていたということになる。この場合は、密教であったのだが。

宗教的な覚醒、叡知、ということは特にそうなのだが、近代的な学問であったり、また、前近代からの芸能であったり、これらは、その教授法……だれからどのようにして学ぶのか……ということと一体である、このことが重要なのだろう。これが、現代では、AIなどの登場によって、危機にさらされている、というのは大げさかもしれないが、伝統的な知や芸や感性というものについて、改めて考える必要があるということはたしかなことである。このような意味において、司馬遼太郎が、どのような作品を残したか、また、読まれつづけているか、といういことは価値のあることだと、私は思う。

2025年4月21日記

ブラタモリ「伊勢神宮への旅・第三夜▼徳川御三家の巨大港!超絶技巧の土産!」2025-04-25

2025年4月25日 當山日出夫

ブラタモリ 伊勢神宮への旅・第三夜▼徳川御三家の巨大港!超絶技巧の土産!

伊勢路の三回目である。

伊勢路にお餅の名品が多い、ということはそうなのだろうが、だからといって鈴鹿サーキットに行って、池の存在を確認することは、まあ、番組の構成上のこと、ということなのだろう。

お米がたくさんとれる、ということと、お餅が名物になるということとは、あまり直接的な結びつきはないように思えるのだが、どうなのだろうか。たしかに、お米は、食べる(ご飯にするか、お酒にするか)ぐらいしか消費の方法がないものである。何度も書いていることなのだが、お米を作って、それが、どこでどう消費されたのか、ということの全体像が描けないと、ただ米所といっても、よく分からないところがある。

白子の港が、海運の重要拠点だったということは、そうなのだろうと思う。位置的には、尾張藩と紀州藩をつなぐことになるかとも思うのだが、さて、これらの藩どうしの関係(特に経済的)は、どんなものだったのだろうか。

江戸から東海道を通って伊勢に行く道と、京から伊勢に行く道が、合流することは、面白いのだが、では、京からどのようなルートで、ここまでやってきたのだろうか。江戸時代、伊勢を目指した旅人たちは、それぞれの地方から、どのようなルートをたどっていたのだろうか。

伊勢型紙は、知ってはいたことだが、その見本帳に、アルファベットが使われていたことは、とても興味深い。幕末のころのものだったが、蘭学などで、アルファベットは日本にもたらされていたと思うが、一般の人びとには、どの程度、認識されていたのだろか。

2025年4月21日記