アナザーストーリーズ「国宝“飛鳥美人” それは世紀の発見か?パンドラの箱か?」2025-04-26

2025年4月26日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 国宝“飛鳥美人” それは世紀の発見か?パンドラの箱か?

面白くはあったのだが、ちょっと不満もある。やはり語っていなかったことが気になる。

高松塚古墳壁画が発見されたときから、それを解体して適切な保存施設に保管する(展示するならそこで展示する)という考え方はあったと思うのだが、どうだったのだろうか。これが発見された当時、私は、高校生であったが、その後、国文学、国語学ということを勉強して、文化財や歴史的資料について、考えることがあった。古墳のなかの壁画を、そのまま閉じてしまっただけで、はたして適切な保存ができるのかということは、思っていたと憶えている。

現代のような保存科学についての知見が、広く知られている時代ではなかったが、それでも、壁画の保存には、外部と遮断して、温度や湿度などをきちんと管理しなければならない、というぐらいのことは容易に想像できたことである。それから、光をあてないことである。

なにがなんでも、現地で現状のままで保存するというのは、はたして適切な判断だったのだろうか。ここのところの検証が、学問的には必要だろう。(まあ、地元の明日香村の人びとの気持ちとしては、現地に残してほしい。どこかよそに持っていかないでほしい、ということはあっただろう。)

それから、これは、考古学の業界の話しになるが、なぜ、高松塚古墳について、奈良文化財研究所が出てきたのだろうか。一般に、奈良県内でも、発掘には、いわゆるなわばりがある。奈良文化財研究所があつかうのは、平城宮跡と藤原宮跡ぐらいのはずで、それ以外は、橿原考古学研究所であつかうのが、まあ慣例だろうと思っているのだが。どういう経緯で、奈良文化財研究所がかかわることになったのか。番組を見ていると、最初からはかかわっていなかったようである。

そして、気になるのは、修復に際しての現在の保存科学の考え方。現代の文化財の保存と、保存科学の立場からは、どう考えることになるのか、このあたりのことも伝えておいてほしかった。壁画につかわれた、絵の具はいったいどんなものだったのだうかということも知りたい。科学的な分析にかかわった専門家が登場してきていてもよかったと思うが。(別に番組として平山郁夫が不要だったとは思わないが。)

今なら、高精細3Dスキャンと、高精細デジタル画像、ということになるが、修復後の記録として、これらのデジタル技術は、どう使われているのだろうか。

ともあれ、文化財の現地保存ということの意味を改めて考える必要はある。それがのぞましいとしても、状況によっては、適切な保存のための処置をどう講ずるか、それについて、社会的に合意をどう形成するか、という課題になる。

2025年4月24日記

よみがえる新日本紀行「奥日光・平家村〜栃木県栗山村〜」2025-04-26

2025年4月26日 當山日出夫

よみがえる新日本紀行 「奥日光・平家村〜栃木県栗山村〜」

再放送である。2023年1月21日。オリジナルは、昭和49年1月28日。

昭和49年は、私が高校を出たころである。

このころの記録としてみると、昭和49年に、こんな生活が残っていたのかと思う。

囲炉裏の炎で、金属を溶かして丸い銃弾をつくる。それを、薬莢に火薬をつめ、銃弾をいれる。こんな手作りの銃弾で、猟をしていた。囲炉裏の炎で溶けるのだから、どういう金属なのかと思うが、丸い銃弾では、そんなに射程距離もないだろうし、威力もないかと思うのだが、これで熊をしとめるらしい。(手作りの銃弾とは、まるで、西南戦争の時代のようである。)

今では、こういうことは、法的にはどういう許可がいるのだろうか。

村の成人式も、こんな風習がこの時代まであったのかと興味深い。成人式を迎えた男性は、親分・子分の関係をもつ。その親分は、実の親につぐ存在となる。(この式に、成人女性は出てきていなかったが、どうだったのだろうか。もう今では、このような儀式をする時代ではなくなっていると思うが。)

熊猟の様子が映っていた。今ではどうなのだろうか。全国的に、熊(ツキノワグマ、ヒグマ)が人里に出てきて、問題になっている。野生の熊とどう共存するか、あるいは、効果的に駆除するか、そのコストはだれがどう負担するか、これらが、大きな問題になってきている。この地域(今では日光市の一部になっているが)では、どのような状況なのだろうか。

2025年4月23日記

BSスペシャル「50年目の悪夢 〜大虐殺 加害者たちのカンボジア〜」2025-04-26

2025年4月26日 當山日出夫

BSスペシャル 50年目の悪夢 〜大虐殺 加害者たちのカンボジア〜

録画してあったのをようやく見た。

世界中で紛争や内戦は絶えない。そのなかで、カンボジアのことは、あまり日本で大きく報道されることはなかったかと記憶している。その前のベトナム戦争のときのような、熱心な報道という雰囲気ではなかったというのが、私の記憶である。ポル・ポト政権が何をしたのか、ということが明らかになったのは、かなり時間がたってからだったが、それが大問題として、日本国内の世論、論壇でにぎやかであったということはなかった。(これも、現代のウクライナでの戦争や、イスラエルとパレスチナのことなどと比べれば、ということもあるが。)

どのようなことが行われてきたかについて、資料を集め、また、関係者の証言を記録しておくということは、重要である。カンボジアの場合で、やはり興味深いと感じるのは、被害者と加害者と区別することをせずに、両方の人びとの証言を残そうとしていることである。これは、もし、ポル・ポト政権のときの、加害者側の関係者を全員排除してしまう、ということになったら、国家の運営ができなくなってしまう、という現実的な判断もあったことになる。

しかし、その一方で、同じ国内で、敵と味方に分断して対立することを避けようという意識も、どこかで働いているのだろうと感じるところである。(このあたりの感覚は、かなり特殊な事情があってのことだろう。)

番組として取材して範囲でも、加害者側の口はなかなかかたい。容易に、その当時のことを語ろうとしない。まれに過去のことを語る場合でも、非常に淡々とした口調である。自分に罪があったかどうかという責任論を論じるよりも、その時代はそういう時代であった、殺す側にならなければ、殺される側になるしかない時代だった、といことを語ることになる。

ポル・ポトも死んでしまったことだし、これ以上、生きている人の責任を追及しても意味がない……このように感じるところがある。また、このように考えなければ、この国で生きていくことはできないのかもしれない。(このような感覚は、おそらく、今のウクライナやパレスチナの人びとが感じていることとは、かなり違ったものかと思う。)

加害の責任を論じるのではなく、そこにあるのは、赦しであったり、あるいは、悔悟であったり、ということになる。

番組製作者の意図とはずれることになるかもしれないが、悪いやつらの責任をとことん追及することこそが正義である、という現代の日本、そして、西欧世界の価値観とは、ちょっと違う感性のなかに、カンボジアの人びとは生きていると感じる。こういう感性からは、憎悪と反感の連鎖ということにはならないかと思う。

2025年4月23日記