ドキュランドへようこそ「DNAでパパを見つけたい セックスツーリズムの闇に光を」 ― 2025-04-28
2025年4月28日 當山日出夫
ドキュランドへようこそ 「DNAでパパを見つけたい セックスツーリズムの闇に光を」
DNAの発見ということが、人間観、家族観を変えていく。そして、フィリピンの人たちについては、これは古風な昔ながらの家族観がその根底にあると感じる。
家族とは、男性と女性、つまり、父親と母親がいて、この男女の間に出来た子どもで、家族を構成する。その家族は、お互いに助け合うものである。これは、かなり古めかしい家族についての考え方だろうと思う。(現在の、いわゆるリベラルな価値観からは、否定される家族観である。)
フィリピンでは、離婚も出来ない。カトリックの国である。(このことは、NHK では「Asia Insight」であつかっていた。これは、春からなくなった番組だが、おしい。)
離婚もできないし、人口妊娠中絶もできない。このあたりのことは、日本のことから考えると、問題があると感じるところではあるが、基本としてカトリックの信仰に基づいていることなので、あまりよそからとやかくいうことではないかもしれない。だが、今の時代としては、少しは融通をきかせてもいいようにも思う。
番組としては、フィリピンのセックス産業と、そこで産まれた子どもたち、そして、その父親を探すプロジェクト、ということであることは理解できるが、私の興味としては、ちょっと他のところにある。
自分のDNAについての情報をWEBで検索できるようにしているという人は、いったいどういう人なのだろうか。DNAについての情報は、究極の個人情報である。それを、容易に他の人が見ることができるというのは、どういうシステムなのかと思う。
家族とか親子関係とか、DNAだけを根本的なよりどころとすることは、まあ、現代はそういう時代になったということにはちがいないが、しかし、それで人間の生き方として、幸福になったといえるだろうか。このあたりは、どこか釈然としないものを感じる。
どのような経緯であれ、子どもは天からの授かりものであり、もし、子どもができても、できなくても、それはそれなりに人間として普通のことである……昔は、このような考え方で人びとは生きてきたはずである。家族の構成などについて、地域的な文化的な違いは、かなりあるにちがいないが。
『カラマーゾフの兄弟』などのことを思い出してみると、遺伝的な親子関係とは、いったい何なのかということも考える。DNAなど知らない時代の方が、人間が人間らしく、そして、自分らしく生きられたかもしれない。だが、もう、昔に戻ることはできない。スメルジャコフは、父親が誰であっても、自己は自己として生きている。これは、極端な事例かもしれないが。
ともあれ、フィリピンには、番組に出てきたようなスラムに生活する人びとが、かなり多くいることは確かであり、根本的には、こういう人たちの生活をどうするかという、国家レベルでの経済と福祉の問題にはちがいない。
2025年4月24日記
ドキュランドへようこそ 「DNAでパパを見つけたい セックスツーリズムの闇に光を」
DNAの発見ということが、人間観、家族観を変えていく。そして、フィリピンの人たちについては、これは古風な昔ながらの家族観がその根底にあると感じる。
家族とは、男性と女性、つまり、父親と母親がいて、この男女の間に出来た子どもで、家族を構成する。その家族は、お互いに助け合うものである。これは、かなり古めかしい家族についての考え方だろうと思う。(現在の、いわゆるリベラルな価値観からは、否定される家族観である。)
フィリピンでは、離婚も出来ない。カトリックの国である。(このことは、NHK では「Asia Insight」であつかっていた。これは、春からなくなった番組だが、おしい。)
離婚もできないし、人口妊娠中絶もできない。このあたりのことは、日本のことから考えると、問題があると感じるところではあるが、基本としてカトリックの信仰に基づいていることなので、あまりよそからとやかくいうことではないかもしれない。だが、今の時代としては、少しは融通をきかせてもいいようにも思う。
番組としては、フィリピンのセックス産業と、そこで産まれた子どもたち、そして、その父親を探すプロジェクト、ということであることは理解できるが、私の興味としては、ちょっと他のところにある。
自分のDNAについての情報をWEBで検索できるようにしているという人は、いったいどういう人なのだろうか。DNAについての情報は、究極の個人情報である。それを、容易に他の人が見ることができるというのは、どういうシステムなのかと思う。
家族とか親子関係とか、DNAだけを根本的なよりどころとすることは、まあ、現代はそういう時代になったということにはちがいないが、しかし、それで人間の生き方として、幸福になったといえるだろうか。このあたりは、どこか釈然としないものを感じる。
どのような経緯であれ、子どもは天からの授かりものであり、もし、子どもができても、できなくても、それはそれなりに人間として普通のことである……昔は、このような考え方で人びとは生きてきたはずである。家族の構成などについて、地域的な文化的な違いは、かなりあるにちがいないが。
『カラマーゾフの兄弟』などのことを思い出してみると、遺伝的な親子関係とは、いったい何なのかということも考える。DNAなど知らない時代の方が、人間が人間らしく、そして、自分らしく生きられたかもしれない。だが、もう、昔に戻ることはできない。スメルジャコフは、父親が誰であっても、自己は自己として生きている。これは、極端な事例かもしれないが。
ともあれ、フィリピンには、番組に出てきたようなスラムに生活する人びとが、かなり多くいることは確かであり、根本的には、こういう人たちの生活をどうするかという、国家レベルでの経済と福祉の問題にはちがいない。
2025年4月24日記
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