英雄たちの選択「追跡!紀伊国屋文左衛門〜伝説の豪商と元禄バブル〜」2025-04-29

2025年4月29日 當山日出夫

英雄たちの選択 追跡!紀伊国屋文左衛門〜伝説の豪商と元禄バブル〜

紀伊国屋文左衛門にまつわる伝説はいろいろとあり、私も知っている。ミカンの話しは、本当のことだと思っていた。このごろでは否定されていることになるが。

いろいろと思うことはある。

この回は、紀伊国屋文左衛門の話をしながら、同時に、近世の経済と貨幣の話でもあった。また、江戸時代のビジネスモデルの話とも理解できる。

歴史学者、そのなかでも、経済史という分野を研究している研究者は、貨幣とはいったいなんだと思っているのだろうか。貨幣経済の発展、ということばは、学生のころから歴史を語る場合には、よく目にすることばなのだが、経済にとって、また、経済史の視点からは、貨幣とはいったい何なのだろうか。

紀伊国屋文左衛門が、貨幣……宝永通宝……にかかわったとして、その背景にある、当時の経済事情はどんなものだったのだろうか。おそらくは、日本国内における経済と、東アジアにおける経済圏、この両方から見て、金、銀、銅、これらの生産と、貨幣の流通、こういうことを総合的に考えることになるのだろうと思う。

常識的に考えて、貨幣を改鋳して、金・銀の含有量を減らして、額面だけ同じで流通させようとするなら、インフレになる。寛永通宝の十倍の価値(額面)の貨幣を無理に鋳造して市場にばらまいても、それが経済のなかでうまく回るかどうか。今なら、日銀が市場の貨幣を順次回収して置き換えていくということになるだろうと思うのだが。市場に流通する貨幣の額面の総量に、急激な変化がおきないようにするだろう。

材木商がもうかる商売であったかどうか。ここはどうだろうか。紀伊国屋文左衛門の時代であれば、幕府の公共事業がたくさんあって、それに政商としてくいこんで、投機的なビジネスで大もうけする……ということは、ありえたかもしれない。しかし、いくら大規模な建築といっても、寛永寺とか、湯島聖堂とか、これぐらいの工事で、そんなに巨額の費用が動いたのだろうか。決して安いものではなかったことはたしかだが。これは、その時代の経済規模からすれば、ということになるのかもしれないが。

どれぐらい稼いだかを当時のGDPに比較するというのは、興味深いことではあるが、GDPが、どれぐらい、その当時の人々の生活のありさまを反映したものだったかということは、気になる。農業などが中心であった生活において、GDPが大きいから豊かであった、とはならないかもしれない。

それよりも気になるのは、江戸時代における林業の歴史である。材木商がもうかるためには、江戸の町が火事になったり、幕府の公共事業があったりということの需要と同時に、その材木を供給する山林の存在がなければならない。木材用の樹木は、生育に数十年はかかる。山林の維持管理ということ、林業という経済と、材木商というビジネスは、どういう関係にあったのだろうか。また、山奥から大きな木材を切り出して、運ぶということは、実際にはどのように行われていたのだろうか。昔なら、川にいかだで流すということがあったかもしれない。現代であれば、まず、切った木を輸送する林道の整備が必要であり、木材に加工する工場が必要になる。

『夜明け前』(島崎藤村)など読むと、木曽の山林は、きわめて厳格に管理されて樹木は保護されてきていたらしい。実際に、江戸の町の建物……火事になって焼けて立て直す……の木材は、どこからどのようにして運ばれてきて、加工されて、建築資材になったのだろうか。

紀伊国屋文左衛門の政商としてのビジネスが終わって、次にあらわれてきたのが、三井などの新しいビジネスであった、ということになる。たしかに三井のビジネスは、現代にも続いているし、そのもとになる江戸時代の経営のあり方がどうであったかは、まさに注目されているところでもある。

荻原重秀の経済政策と新井白石。これは、田沼意次と松平定信、ということに重なるのかもしれない。江戸時代、積極的に経済にかかわろうとする立場と、いわゆる農本主義的に武士の時代を維持しようとする立場、江戸時代の思想史として、これは総合的にどう考えることになるのだろうか。同じようなことを繰り返したあげく、どうにもならなくなって幕末をむかえることになった、と思えるが。

磯田道史が言っていたことだが、江戸の町の人口は、元禄時代でのぼりつめる。その後は、その規模を維持する方向になっていく。町が大きくなるときの流れに乗ってかせいだのが、紀伊国屋文左衛門ということになる。これはそのとおりなのだろう。だが、それからのことを考えると、江戸の人口がもうあまり大きくならなくなってから、江戸を中心とした文化が花開いたということになる。人口の動態と、都市の形成、そして、そこでの文化活動、これらの関係は、いろいろと興味深いところがあるかと思う。

吉原を舞台にした逸話が多くのこっているということは、これは、吉原がかなり特殊な場所であったということになる。たしかに悪所であったにはちがいないが、ただ、それだけの場所ではなかった。

それから、お金持ちがどういうふうに財産を散財していったのか、その文化史というようなものがあると面白い。吉原での豪遊は、その場合、どう考えることになるだろうか。

2025年4月25日記

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