時をかけるテレビ「シルクロード キャラバンは西へ〜再現・古代隊商の旅〜」2025-04-30

2025年4月30日 當山日出夫

時をかけるテレビ シルクロード キャラバンは西へ〜再現・古代隊商の旅〜

NHKで「シルクロード」を放送していたころ、テレビを持たない生活だったはずで、あまり見たという記憶がない。しかし、世の中で話題になっていた番組であったことは、知っていた。

もう今では、このような番組は作れないだろうと思う。中国は、はたして取材を許可するだろうか。新疆ウイグル自治区や、チベット自治区など、あまり、外国のジャーナリストを入れたくない地域もあるかと思う。ただ、風景や遺跡を撮影するだけなら、大丈夫かもしれないが。また、中央アジアの国々は、さまざまな政情不安をかかえている地域が多いはずである。地中海にたどりつこうとすると、シリア、レバノン、イスラエル、というような国のことがある。取材は、そんなに簡単にいくとは思えない。

見ていて、いろいろと面白いことはあった。

まず、ベドウィンということばを、久しぶりに聴いたと思う。現在は、あまりテレビなど見ていても耳にすることはないかと思うのだが、どうしてなのだろうか。中近東のことは、多くニュースで報じられるが。

この番組の時代、1980年代、もう砂漠のラクダのキャラバンは途絶えていた。かろうじて、その体験のある人を探し出して、なんとかラクダで砂漠を旅することができた。この時代、ラクダを飼育しているのは、食用であるという。あまり食用ラクダという話しは聞かないと思うのだが、実際、どれぐらいの地域で、どんな人たちが、どんなふうに料理して食べているのだろうか。

この時代に、GPSは一般には利用されていない。一般に使えるようになったのは、1990年代以降のことになる。砂漠をラクダで旅するとしても、頼りになるのは、かつて旅の経験のある男性のリーダーだけである。その経験と知識だけが頼りであったということになるだろう。だだっ広い砂漠で、地図などは、おそらく役にたたないだろうし、そもそも信頼できる地図があったかどうかもあやしい。国境の付近になれば、別だったかもしれないが。

見わたすかぎり何にもないような砂漠のなかを旅して行って、水飲み場にたどりつけるというのは、奇跡的としか思えない。だが、かつて、砂漠に生活する人びとは、このような感覚と知識を身につけていなければ生きていけなかったことになる。

宴会の場面で、料理は、お米と羊肉だった。羊肉は、それを解体処理しているシーンがあったので分かるが、お米は、どこでどのように栽培されたものなのであろうか。米を食べる文化の広がりとして、この食事のシーンは、興味のあるところだった。

ベドウィンの人びとは、信仰としてはイスラムだろうと思うのだが、礼拝の場面とはなかった。(「シルクロード」のシリーズのなかで、宗教をどう描いていたかということは、興味深いことだと思っている。)

パルミラ遺跡のなかをキャラバンが通っていくシーンは、もう不可能ということになってしまった。遺跡が破壊されてしまったことは、いたしかたないことかなとは思うが、どうにかならなかったのかとは、思うところである。

橿原考古学研究所が、シリアの遺跡の調査にかかわっていることは、知識としては知っていたことである。記録をもとに、破壊前のすがたを3D画像として見ることができる。これは、まさにデジタルヘリテイジとして、広く利活用されるべきものだろう。

2025年4月26日記

ザ・バックヤード「東京藝術大学大学美術館」2025-04-30

2025年4月30日 當山日出夫

ザ・バックヤード 東京藝術大学大学美術館

この回は面白かった。

美術館などのバックヤードというと、収蔵庫の取材が中心になることが多いが、この回は、展示の工夫について。こういうことなのかなと思って見ていた。

古文書、古典籍などもそうであるが、さわるときは素手であるのが基本である。(時々、テレビなど見ていて、手袋をしていることがあったりするのだが、これも何であるかにもよるが、普通なら素手で持つべきだろうなあ、と思うときがある。)

番組のなかでは言っていなかったが、巻物などは、その持ち方、広げ方、巻き方、これらの動作、手の動きなどを見ただけで、それを手にする専門的な訓練を受けている人か、そうでないか、分かる。これも、今では、こういう基礎的なトレーニングを、若いときに身につけるような勉強の場が、少なくなってきているように思える。歴史学、国文学、美術史、これらを実物について勉強できる環境が必要である。

それから、これも言っていなかったことであるが、展示については、光の明るさもあるが、光には様々な要素がある。そのなかで、いわゆる光の色合いとでもいうべきものも重要である。一般的には、美術品については、昼間の北側からの自然光……というあたりを標準に考えることになるだろうが、さらに微調整することになるはずである。(無論、美術品の保存ということのためには、光をあてないことが重要ではある。)

取手の収蔵庫は知らなかった。たしかに、卒業生の作品を買い上げていけば、コレクションは増えるばかりであり、また、美術史、美術教育史、という観点からも、きちんと保存されねばならないものである。

東京藝術大学でヤギを飼っているということは、始めて知った。実際にヤギを飼育することで、いろんな刺激があり発想があるにちがいない。

2025年4月27日記

ETV特集「田んぼ×未来 あきらめないコメ農家たち」2025-04-30

2025年4月30日 當山日出夫

ETV特集 田んぼ×未来 あきらめないコメ農家たち

番組の意図を曲解していることになるかもしれないが、中山間地域等直接支払制度がなくなってしまったら、日本の米農家の多くが立ちゆかなくなり、日本国内での米の栽培と自給ということが、崩壊する……このように思うことになるのだが、どうなのだろうか。つまりは、日本の米農家の多くに、税金をつかって補助しているから、かろうじて米作がなりたっている。

純然たるマーケットの論理……生産者はより安く作りより高く売り、消費者はより安いものを買う……だけで動くとするならば、日本の農業はなりたっていかないことになる。だからこそ、米だけは、絶対に輸入に依存しないという、政府の方針が支持され、米農家への保護政策がとられていることになる。

金額的には、200億ぐらいだから、国家の財政としては、そう大きな負担ではない。しかし、国の米農家を税金でささえるという方針の是非をめぐっては、これは、これから議論のまとになることかもしれない。

大規模経営で米作をするとしても、規模の拡大だけではスケールメリットがない。一定以上の大きさになると、設備や機械にコストがかかって、よりもうかるようにはならない。しかし、これも、これから辞めていく農家があり、耕作放棄地をこれ以上増やさないためには、規模の拡大という方向ですすむしかないのだろう。

興味深かったことは、大規模経営の横田農場で、栽培しているお米の生育状況にについてサンプリング調査を継続しておこなっていること。このような調査は、農水省などが、全国規模でしかるべく行うべきものだと思えるのだが、実際はどうなのだろうか。テレビのニュースなどで、今年の米の作柄ということは伝えられるのだが、栽培の品種や、栽培方法、また、地域の違い、ということについて、継続的、網羅的にサンプリングした調査というのは、これからの日本の農業を考えると、絶対に必要なことだと思うのだけれど、どうなっているのだろうか。もし、やっていないなら、このような研究調査にこそ、税金をかけて、その情報を適切に農家に伝えていかなければならないはずである。

現在、米の小売り価格が倍ぐらいに高騰している。だが、それで大もうけしている業者がいるという話しは聞かない。まったく米が手に入らなくなって食べるものがない(飢え死にしそうだ)という話しも聞かない。さらには、米の価格がこれほど高いなら、農業はもうかるビジネスだとして、それに参入しようという話しも聞かない。いったい、価格と、需給のバランス、流通のシステムは、どうなっているのだろうか。

米と日本の生活は、おおきくかかわっている。単なる経済の問題だけではなく、文化的、歴史的な問題でもある。

若いころのことを思い出すと、日本の米作は作りすぎて生産過剰で困った時代があった。古米、古古米というこばもあった。食管法の改正ということが、ニュースで大きくとりあげられた。子どものころには、お米の通帳というのがあったことを記憶している。不作で緊急的に輸入したということもあった。農水省は、絶対に一粒の米も日本には輸入させないといって、アメリカの米を日本で見本で展示することを拒んだこともあった。しかし、実際には、抜け穴があって、米の輸入(実際には、米の粉の輸入)ということがああった(これは、今はどうなっているのだろうか)。今では、一部のブランド米は、海外にも輸出されている。

そうはいっても、今では、田植機を動かす燃料がなくては、田植えもできない。稲刈りもできないし、輸送もできない。石油がなければ何にもできなくなってしまうという状況で、自給率が何パーセントと言ってみても、あまり意味のないことに思えてならない。このことは、農家の経営規模を問わずそうである。

2025年4月29日記