『べらぼう』「歌麿よ、見徳は一炊夢」 ― 2025-05-12
2025年5月12日 當山日出夫
『べらぼう』「歌麿よ、見徳は一炊夢」
腎虚ということばを憶えたのは学生のときだった。たしか仮名草子のなにかの作品を読んでいるなかに出てきたはずである。このことばが、NHKの大河ドラマのなかで堂々と使われることばになるとは、あまり考えたこともなかった。
江戸時代には、かなり広く知られていて、一般につかわれていたことばだったはずである。
朋誠堂喜三二については、プラセボであっても効果はある……ということになるだろうか。
吉原のことを描くとなると、どうしても性のことを避けてとおるわけにはいかないのだが、このドラマでは、吉原それ自体については、あまり性のイメージを強く出すことをしていない。それ以外の芸能とか文芸とかにかかわる部分を、より強調する作り方になっている。これはこれとして、一つの方針ではある。
江戸時代、あるいは、近代になってからでも、さまざまな性のかたちがあり、強いていえば、その需給関係のなかで、いろんなことがあったことはたしかである。これは、現代でも、いろいろと形を変えて、続いていることであり、私としては、それをことさらに問題視してとがめるばかりが、正しいことではないと思っている。
何度も書いていることであるが、人間の性的指向というのは、自分自身で責任を負えない部分がある。生得的なものもあるだろうし、また、生まれ育った文化的環境のなかで、そうなってしまった部分もあるだろう。これらが、現在の、ある種の潔癖主義からすれば嫌悪すべきことではあるかもしれないが、自分の自由意志によるものではないことについて、犯罪と見なすのは、はたして妥当だろうかと思うところがある。
肌の色を選んで生まれてくることはできないので、それを理由に、不当な差別があってはならない。これと同じで、特定の性的指向があるからといって、それが、自由意志で選ぶことのできないものであるならば、そのこと自体をとがめられるべきではない。
性的指向として同性愛が認められるならば、小児性愛も認められるべきである。少なくとも、そのような指向性については、そう感じること、思うことだけであれば、批難されるべきではない。ただ、その対象となる人が、自由意志で、それを受け入れることになるかどうか、という点において、未成年には、まだ十分にその判断力がないので、例外的にあつかう……大きな論理の流れとしては、こうだろうと思っている。
だいたいこのようなことであれば、多くの人が納得するところかと思う。
しかし、近年の流れとしては、性的指向は自分の自由意志で選択できるものである、自由意志こそ何よりも尊重されなければならない……という考え方があるかと思っている。(無論、人間にとっての自由意志とは何であるかということは、哲学的に古くから重要な問題である論点ではあるのだが。)
性にまつわる価値観は、歴史的に文化的に大きく変わっていくという面がある。江戸時代の人びとの、性についての価値観を、現代の価値観で、一方的に語ることはかなりむずかしいだろうとは思うところである。
蔦重が、朋誠堂喜三二におこなっていたことは、現代の価値観でいえば、性接待になるのだけれども、この時代の吉原を舞台にしたドラマで、これをとがめることはないだろう。
歌麿が、この回で描かれたような過去を持っているということで、その浮世絵における人物の表現につながることになる、物語の筋としては、こういう方向になるのだろう。
鳥山石燕は、これからも出てくることがあるだろうか。
自分の存在を否定的に考えて、死んでしまっていいのだ、生まれてきたことが間違いだった、ということは哲学的な思弁としてはありうる考え方ではあるが、一方、実際の世の中で、このように思う人がいることは、否定できないことではあるだろう。
2025年5月11日記
『べらぼう』「歌麿よ、見徳は一炊夢」
腎虚ということばを憶えたのは学生のときだった。たしか仮名草子のなにかの作品を読んでいるなかに出てきたはずである。このことばが、NHKの大河ドラマのなかで堂々と使われることばになるとは、あまり考えたこともなかった。
江戸時代には、かなり広く知られていて、一般につかわれていたことばだったはずである。
朋誠堂喜三二については、プラセボであっても効果はある……ということになるだろうか。
吉原のことを描くとなると、どうしても性のことを避けてとおるわけにはいかないのだが、このドラマでは、吉原それ自体については、あまり性のイメージを強く出すことをしていない。それ以外の芸能とか文芸とかにかかわる部分を、より強調する作り方になっている。これはこれとして、一つの方針ではある。
江戸時代、あるいは、近代になってからでも、さまざまな性のかたちがあり、強いていえば、その需給関係のなかで、いろんなことがあったことはたしかである。これは、現代でも、いろいろと形を変えて、続いていることであり、私としては、それをことさらに問題視してとがめるばかりが、正しいことではないと思っている。
何度も書いていることであるが、人間の性的指向というのは、自分自身で責任を負えない部分がある。生得的なものもあるだろうし、また、生まれ育った文化的環境のなかで、そうなってしまった部分もあるだろう。これらが、現在の、ある種の潔癖主義からすれば嫌悪すべきことではあるかもしれないが、自分の自由意志によるものではないことについて、犯罪と見なすのは、はたして妥当だろうかと思うところがある。
肌の色を選んで生まれてくることはできないので、それを理由に、不当な差別があってはならない。これと同じで、特定の性的指向があるからといって、それが、自由意志で選ぶことのできないものであるならば、そのこと自体をとがめられるべきではない。
性的指向として同性愛が認められるならば、小児性愛も認められるべきである。少なくとも、そのような指向性については、そう感じること、思うことだけであれば、批難されるべきではない。ただ、その対象となる人が、自由意志で、それを受け入れることになるかどうか、という点において、未成年には、まだ十分にその判断力がないので、例外的にあつかう……大きな論理の流れとしては、こうだろうと思っている。
だいたいこのようなことであれば、多くの人が納得するところかと思う。
しかし、近年の流れとしては、性的指向は自分の自由意志で選択できるものである、自由意志こそ何よりも尊重されなければならない……という考え方があるかと思っている。(無論、人間にとっての自由意志とは何であるかということは、哲学的に古くから重要な問題である論点ではあるのだが。)
性にまつわる価値観は、歴史的に文化的に大きく変わっていくという面がある。江戸時代の人びとの、性についての価値観を、現代の価値観で、一方的に語ることはかなりむずかしいだろうとは思うところである。
蔦重が、朋誠堂喜三二におこなっていたことは、現代の価値観でいえば、性接待になるのだけれども、この時代の吉原を舞台にしたドラマで、これをとがめることはないだろう。
歌麿が、この回で描かれたような過去を持っているということで、その浮世絵における人物の表現につながることになる、物語の筋としては、こういう方向になるのだろう。
鳥山石燕は、これからも出てくることがあるだろうか。
自分の存在を否定的に考えて、死んでしまっていいのだ、生まれてきたことが間違いだった、ということは哲学的な思弁としてはありうる考え方ではあるが、一方、実際の世の中で、このように思う人がいることは、否定できないことではあるだろう。
2025年5月11日記
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