「Sound Trip モロッコ ジャジューカへの旅」2025-05-14

2025年5月14日 當山日出夫

Sound Trip モロッコ ジャジューカへの旅

テレビの番組表を見ていてたまたま目にとまったので録画しておいて見た。

ヘッドフォンで聴くとより臨場感があるそうなのだが、面倒なので(テレビのどこにヘッドフォンをつなげばいいのか、探すのが面倒なので)、そのまま見て聴いていた。

モロッコという国は、現在では、取材とかいろいろとむずかしいところがある地域かなと思っている。だが、この番組では、特に政情などにふれることなく、モロッコで奏でられている音楽と、それを演奏する人びとを映していただけだった。こういう番組もあっていいと思う。

音楽というのが、それを聴く人に、ある種の興奮であったり、逆に、精神の安定であったりをもたらす、ということは確かなことであり、だからこそ、音楽を人びとは、古くから奏でて、あるいは、歌ってきたのである。

音楽に専門的な知識のある人だったら、使っている音階とか、リズムとかについて、いろいろと語ることが出来るのだろうが、私は、まったく分からない。ただ、画面を見ながら聴いていることになる。しかし、それなりに、この地方ではこういう音楽を人びとは演奏しているのかと、感じる。

モロッコの地方の村でも、若者は都会に出て行ってしまうようである。また、コロナ禍にあって、毎年の村の祭りも中止せざるをえなかった。

村の儀式の音楽を聴いていると、たぶん、現地で実際に聴くならば、聴いているうちに精神が高揚し、また、浄化されるということはあるのだろう。

おそらく、世界のどんな宗教であっても、必要なのは、沈黙と同時に音楽である。

ところで、モロッコというとイスラムの国だと思うのだが、番組に出ていた村はどういう宗教の地域になるのだろうか。イスラムのなかでの、地域ごとの習俗の違いとか、古くからの伝承とか、あるいは、民族の違いなど、調べればいろいろと興味深いことがあるのだろう。

2025年5月12日記

サイエンスZERO「色彩の科学へようこそ!“赤”は変幻自在!」2025-05-14

2025年5月14日 當山日出夫

サイエンスZERO 色彩の科学へようこそ!“赤”は変幻自在!

別に番組にケチをつける気はないのだが、光には色という属性はない、というのが色彩を科学的に考えるときの基本だと思うのだが。ある波長の光について、人間の目がどう反応して(人間の目の場合、RGBに反応するようになっている)、それが、脳のなかで、どのような色として意識されるのか、その結果として、その中身(色)が決まることになる。そして、どの波長の範囲に反応するかは、たまたま人間の目がそうなっているというだけのことにすぎず、もっと広い範囲の光に反応する生きものもあれば、人間のようなRGBで色を認識しない場合もある。

ざっと以上のようなことは、色彩学について常識的なことだと思うが、番組を作るうえでは、赤い光、というような言い方をした方が、一般には分かりやすいことになる。(厳密にいえば、人間が脳で赤と認識する波長の光ということになる。)

現在の色彩学でこういう言い方をするかどうかは知らないのだが、いうなれば、生物にとっての色彩の還世界は、それぞれにことなる。そして、どの色(どの波長の光)にどう反応するか、違いがある。

昆虫や植物にとっての色彩の世界は、人間の見ている色の世界とは異なることになる。これを、応用すれば、光によって反応するスイッチを体内に作ることも可能になる、これはとても面白いことだと思う。

また、人間が見る色の世界は、RGBで考えるよりも、Labで考えた方が、より立体的で分かりやすいということはあると思うのだが、これはかなりややこしい議論が必要になるかと思う。

2025年5月12日記

「心おどるあの人の本棚 (4)クリス智子(ラジオパーソナリティー)」2025-05-14

2025年5月14日 當山日出夫

心おどるあの人の本棚 (4)クリス智子(ラジオパーソナリティー)

テレビの番組表で目にとまったので録画しておいた。

本というのは、私にとっては商売道具(?)であり、あるいは、資料であり、研究対象でもある……というものなので、逆に、本それ自体にあまりこだわることはない。かなり持ってはいる方だが、大部分は書庫にしまったままである。

今では、たいていの本は、Kindleで読む。新しい本で、Kindle版があればそれを買う。以前に読んだ本で、読みかえしたい本があれば、Kindle版で買いなおす。要するに、年をとって小さい文字を読むのが辛くなってきたということがある。

それよりも、純然とことばの世界として小説や評論を読むとすると、本という物理的制約があることの意味を、考えるようになった。ことばは本のなかにあるのだが、同時に、本からはなれてもことばはことばである。

前にも書いたことだが……今、『万葉集』を読むとき、一般の人なら、漢字仮名交じり表記に改めたものを読むことになる。古代語、古代文学の専門家なら、漢字だけの本文に読み方がルビでついたテキストを使う。多く使われるのが、塙書房の出しているものである。ただ、これは、一般にはあまり知られていない本になるかもしれない。はるか昔、万葉集の歌人たちが、その歌を詠んだときは、口承によるものだったと考えることができる。おそらく、柿本人麻呂などの作品はそうだろう。それが、奈良時代になれば、木簡に書かれることもあったかもしれない。大伴家持ぐらいになると、その可能性が高い。しかし、いずれにせよ、万葉の時代の歌人たちにとって、現代の我々が読んでいるような、冊子体の紙の本っとしての『万葉集』などは、想像することすらできなかったはずである。そもそも、歌が集められて編集されて、『万葉集』という書物になることさえも、あずかり知らぬことだったにちがいない。

しかし、その歌は、現代の日本語において読んでも、なにがしか伝わるものがある。(ただ、それが、その歌が詠まれたときの状況を正しくふまえた理解であるかどうかは、また別の問題ではあるが。)

こういうことを思うと、あまり、書物という形にとらわれるべきではない、といえるかもしれない。

だが、ことばは、多くは書物であり(つまり、文字であり)、あるいは、口承という具体的な音声であり、という形で、伝えられてきたことはたしかである。

近代になってからの書物の多くは、書物という形をとることを前提に、書かれて本になってきたということも、また、確かなことである。(現代では、ことばの多くは、デジタル表示の文字であり、その背後には文字コードの世界がある。)

以上のようなことを考えるのだが、それでも、人の本棚を見るのは、面白いものである。

気になったのは、三島由紀夫の「豊饒の海」が並んでいたが、三冊しかなかったようである。全部で四冊なのだがと思ってちょっと気になる。中原中也の詩集があったが、おそらくは復刻版だろう。初版本を、あんなに無造作にあつかうことは考えられない。全集の類が無いというのは、そういう方針なのだろう。

2025年5月13日記

100分de名著「“谷川俊太郎詩集” (2)「生活」と「人生」のはざまで」2025-05-14

2025年5月14日 當山日出夫

100分de名著 “谷川俊太郎詩集” (2)「生活」と「人生」のはざまで

若松英輔は、こういうことを分かった上で語っているのだろうと思うが、特にこの回で紹介されていたような作品を読むと、人間の世界とは隔絶されたところにある唯一絶対の存在……強いていえば神ということができるが……ということを、感じない。前回の「二十億光年の孤独」もそうである。「ここ」も「木」もそうである。中東の砂漠のなかとか、インドの鬱蒼とした密林のなかとかで、こういう感覚は生まれにくいだろう(残念ながら、どちらも行ったことはないのだけれど。想像だけで書いてみている。)

非常に日本的といっていいかもしれないが、汎神論的な仏性論的感性……これは、井筒俊彦にも通じるものであるが……を、感じるのだが、はたしてどうだろうか。これは、誤解になるかとも思うが、非常に日本的な日常感覚の世界、あるいは、その延長線上のこととして、作品が書かれている。

詩というものは、定義することは困難なのだが……こうも言うことはできるだろう、人は詩を読むことによって詩とは何かを知ることになる。まったく文化的歴史的にゼロのところから、詩は生まれないだろう。(であるならば、本当に人間のことばの世界で最初に詩が生まれたというのは、何故なのだろうということにはなるが。)

2025年5月13日記