よみがえる新日本紀行「山の城下町で〜福島県三春町〜」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行 「山の城下町で〜福島県三春町〜」
再放送であるが、見るのは二回目になる。半年ほど前にも見ているが、もう一回見ることにした。
オリジナルは昭和49年である。この番組の最初の放送は、おおむね私が高校生から大学生ぐらいの時期になる。この時代の日本のいろんな地域の生活の有様を記録して残していると感じるところが多い。それは、高度経済成長を経た後の日本に残っていた、それまでの古くからの日本の暮らしといってもいいだろう。
前回、見たときも思ったことだが、冒頭は鍛冶屋の仕事場のシーンからはじまっていた。もう今では、鍛冶屋という仕事自体が、ほとんど消滅してしまったかもしれない。春になって、農繁期を前に、農家の人たちが、鍬などの手入れのために鍛冶屋に仕事を頼む。もうこのような時代ではなくなっているというべきかと思う。
山火事のシーンがあったが、この時代、この地方では、小規模な山火事はごく普通にあることだったらしい。今ではどうなっているだろうか。
耕運機でリヤカーを引いて山の中を走る、このような風景はもう無くなったことかと思う。
三春人形のデコ屋敷、ここで作っている三春人形は、今では、ネット通販で買える。検索してみたが、そう高いものではないようである。もともとが、農家の兼業としての人形作りだったはずだから、そう高価であることはないだろう。
2025年5月14日記
よみがえる新日本紀行 「山の城下町で〜福島県三春町〜」
再放送であるが、見るのは二回目になる。半年ほど前にも見ているが、もう一回見ることにした。
オリジナルは昭和49年である。この番組の最初の放送は、おおむね私が高校生から大学生ぐらいの時期になる。この時代の日本のいろんな地域の生活の有様を記録して残していると感じるところが多い。それは、高度経済成長を経た後の日本に残っていた、それまでの古くからの日本の暮らしといってもいいだろう。
前回、見たときも思ったことだが、冒頭は鍛冶屋の仕事場のシーンからはじまっていた。もう今では、鍛冶屋という仕事自体が、ほとんど消滅してしまったかもしれない。春になって、農繁期を前に、農家の人たちが、鍬などの手入れのために鍛冶屋に仕事を頼む。もうこのような時代ではなくなっているというべきかと思う。
山火事のシーンがあったが、この時代、この地方では、小規模な山火事はごく普通にあることだったらしい。今ではどうなっているだろうか。
耕運機でリヤカーを引いて山の中を走る、このような風景はもう無くなったことかと思う。
三春人形のデコ屋敷、ここで作っている三春人形は、今では、ネット通販で買える。検索してみたが、そう高いものではないようである。もともとが、農家の兼業としての人形作りだったはずだから、そう高価であることはないだろう。
2025年5月14日記
ドキュメント72時間「博多 24時間のラーメン店で」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
ドキュメント72時間 博多 24時間のラーメン店で
290円、というのは安い。これでビジネスが成りたつ理由はいろいろとあるのだろうが、このことについては、まったく触れることがなかった。少なくともメニューを限って、コストを削減していることは理解できる。ラーメンと餃子だけのお店のようだが、この価格で、そこそこの味で作れるというのも、すごいことかもしれない。
番組の中でそうはっきりと映していたということではなかったが、この店で働いている人は、いわゆる日本人ではないようである。実際、どれぐらいの給料で働いているのか、ということも気になる。それは、当然ながら、価格に反映することになる。だからといって、低賃金でこき使っているとは思わないけれど。
24時間営業で、タクシー運転手が利用する店というのは、たぶん、非常にリーズナブルなお店ということでいいのかと思う。
意図的にそう編集したということではないだろうが、ネパールからやってきた男性、それから、中国からやってきた男性がいた。こういう人たちが、普通に暮らしているのが、今の日本の姿ということになる。一昔前の感覚からすると、ずいぶん変わってきたなあ、とは思うことになる。
ラーメンの食べ方、餃子の食べ方にも、いろんな流儀があるようで、これはこれとして、見ていて面白い。替え玉を最初に頼んで一緒に入れてしまう、結果的には、大盛りを頼んだということになるだろうが、合理的な食べ方かもしれない。
2025年5月10日記
ドキュメント72時間 博多 24時間のラーメン店で
290円、というのは安い。これでビジネスが成りたつ理由はいろいろとあるのだろうが、このことについては、まったく触れることがなかった。少なくともメニューを限って、コストを削減していることは理解できる。ラーメンと餃子だけのお店のようだが、この価格で、そこそこの味で作れるというのも、すごいことかもしれない。
番組の中でそうはっきりと映していたということではなかったが、この店で働いている人は、いわゆる日本人ではないようである。実際、どれぐらいの給料で働いているのか、ということも気になる。それは、当然ながら、価格に反映することになる。だからといって、低賃金でこき使っているとは思わないけれど。
24時間営業で、タクシー運転手が利用する店というのは、たぶん、非常にリーズナブルなお店ということでいいのかと思う。
意図的にそう編集したということではないだろうが、ネパールからやってきた男性、それから、中国からやってきた男性がいた。こういう人たちが、普通に暮らしているのが、今の日本の姿ということになる。一昔前の感覚からすると、ずいぶん変わってきたなあ、とは思うことになる。
ラーメンの食べ方、餃子の食べ方にも、いろんな流儀があるようで、これはこれとして、見ていて面白い。替え玉を最初に頼んで一緒に入れてしまう、結果的には、大盛りを頼んだということになるだろうが、合理的な食べ方かもしれない。
2025年5月10日記
ダークサイドミステリー「封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜
再放送である。最初は、2023年8月3日。
人間の行動を科学的に説明しようとすると、あまりにも多くのパラメータが複雑にからまっているし、それは、時代とともに絶えず変化するものでもある。このように考えると、そもそも、社会心理学として、サイエンスの方法論で、人間の行動を解明することは可能なのか、という疑問にもつながる。これは、現代の行動経済学という研究領域の信頼性などにも、関係することになるだろう。
スタンフォード実験にしても、BBC実験にしても、そういう状況なら、たぶん人間というものは、そうなるだろうなあ……と感じるところではある。時に邪悪になりもするし、時に従順になりもするし、また、場合によっては、強いリーダーを求めることにもなる。
総合的に考えるならば、人間は、(番組のなかでつかっていたことばでは)環境によって、どうにでもなるものである、こういうことになるかと思う。その環境としては、生まれ育った文化、社会、歴史、社会的階層……いろんな要素があるだろう。
番組のなかでは、被験者の素質ということについては、平均的な人間を選んだということになっていた。だが、これも、さらに考えるならば、それぞれの人間の持っている遺伝的な要素、DNAということになるが、まで考えることになるかもしれない。(もし、遺伝的に暴力的で権威的な性格であるとして、環境によっては、それがどう現れるか分からない、となることにもなる。)
どちらの実験も、被験者が、成人男性ばかりというのは、今の観点からはどうなのだろうか。この二つの実験から、女性は、絶対に暴力的にはならない、と言うことができるのだろうか。(私は、そんなことはないと思うのだが。)
スタンフォード実験を題材に映画などを作る、これは、そういうものなのだろうと思う。まさに、人間の考える、人間とはこういうものなのである、というイメージをなぞることになる。
社会のシステムのなかで、人間とはどのようにでもなりうる可能性がある。それが犯罪行為であった場合、被害者と加害者について法的に対処すればいいというだけではないと、考えることになる。
個人としてできることは、(これは何度も繰り返し書いていることだが)何故、自分はそのような価値観を持っているのか、自分とは異なる価値観を持っている人は何故なのか、このことについて、想像力をめぐらす余裕と、本当の意味での寛容さ(特定の価値観にしばられない)が必要なのであり、それによってなんとか社会全体の秩序をたもつべく努力するということになるだろうか。どういう秩序が望ましいのか、これも人によって異なるので、むずかしいことではあるが。
2025年5月9日記
ダークサイドミステリー 封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜
再放送である。最初は、2023年8月3日。
人間の行動を科学的に説明しようとすると、あまりにも多くのパラメータが複雑にからまっているし、それは、時代とともに絶えず変化するものでもある。このように考えると、そもそも、社会心理学として、サイエンスの方法論で、人間の行動を解明することは可能なのか、という疑問にもつながる。これは、現代の行動経済学という研究領域の信頼性などにも、関係することになるだろう。
スタンフォード実験にしても、BBC実験にしても、そういう状況なら、たぶん人間というものは、そうなるだろうなあ……と感じるところではある。時に邪悪になりもするし、時に従順になりもするし、また、場合によっては、強いリーダーを求めることにもなる。
総合的に考えるならば、人間は、(番組のなかでつかっていたことばでは)環境によって、どうにでもなるものである、こういうことになるかと思う。その環境としては、生まれ育った文化、社会、歴史、社会的階層……いろんな要素があるだろう。
番組のなかでは、被験者の素質ということについては、平均的な人間を選んだということになっていた。だが、これも、さらに考えるならば、それぞれの人間の持っている遺伝的な要素、DNAということになるが、まで考えることになるかもしれない。(もし、遺伝的に暴力的で権威的な性格であるとして、環境によっては、それがどう現れるか分からない、となることにもなる。)
どちらの実験も、被験者が、成人男性ばかりというのは、今の観点からはどうなのだろうか。この二つの実験から、女性は、絶対に暴力的にはならない、と言うことができるのだろうか。(私は、そんなことはないと思うのだが。)
スタンフォード実験を題材に映画などを作る、これは、そういうものなのだろうと思う。まさに、人間の考える、人間とはこういうものなのである、というイメージをなぞることになる。
社会のシステムのなかで、人間とはどのようにでもなりうる可能性がある。それが犯罪行為であった場合、被害者と加害者について法的に対処すればいいというだけではないと、考えることになる。
個人としてできることは、(これは何度も繰り返し書いていることだが)何故、自分はそのような価値観を持っているのか、自分とは異なる価値観を持っている人は何故なのか、このことについて、想像力をめぐらす余裕と、本当の意味での寛容さ(特定の価値観にしばられない)が必要なのであり、それによってなんとか社会全体の秩序をたもつべく努力するということになるだろうか。どういう秩序が望ましいのか、これも人によって異なるので、むずかしいことではあるが。
2025年5月9日記
BS世界のドキュメンタリー「未承認国家 “親ロシア派”地域にくすぶる火種」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
BS世界のドキュメンタリー 「未承認国家 “親ロシア派”地域にくすぶる火種」
2023年、フランスの制作。
再放送であるが、最初の放送がいつかNHKのHPには書いていなかった。
ロシアのウクライナ侵略以来、その周辺の国々のことは、いろいろと話題になることがあったが、この番組であつかっているようなことが、日本のメディアで大きく取りあげられたということはなかったと憶えている。たしかに、このような地域についての取材はむずかしいとは思うが。
モルドバの中の沿ドニエストル共和国、ジョージアの中のアブハジア共和国、これらの地域は、独立国家といえるのか、あるいは、モルドバやジョージアの一部というべきか、それとも、実質的なロシア領というべきなのか……このあたりの位置づけから、いろいろ問題がありそうである。
ソ連の時代をなつかしむ老人がいたが、こういう気持ちも分からなくはないと感じる。東西冷戦の時代、ある意味で、世界はある種の安定があったことはたしかである。(日本国内でも、いわゆる五五年体制ということで、政治的な安定の期間でもあった。)
一方、ロシアのウクライナ侵略に反対し、自由をもとめる人びともいる。
こういう地域について、では、住民投票で決めればいいではないか、といかないのが、むずかしいところである。形式的には、クリミア半島は、その結果、ロシアがとってしまった。(ここも、古くからの歴史的経緯を考えるならば、ウクライナの地域にあって、特別なところだとは思えるが。)
ロシアからすれば、ロシア人の国家は独立してあるべきだ、ということになるのだろう。これはこれとして、ロシア的なナショナリズムのあり方として、理解できないことではない。だが、そうであるからといって、武力で強引に支配することは、やはり国際的にルール違反である。
ロシアの領土的野望というようなことで理解することもできるが、視点を変えて見るならば、民族と国家、という問題でもある。ロシア人は自立した国家をもちたいのだが、その結果、地域に生活している他の民族を圧迫するすることになってしまっている。民族……言語や宗教……がからんでくる問題は、解決がそう簡単ではない。少なくともこれぐらいのことは、歴史から学ぶことのできることであると思っている。
2025年5月10日記
BS世界のドキュメンタリー 「未承認国家 “親ロシア派”地域にくすぶる火種」
2023年、フランスの制作。
再放送であるが、最初の放送がいつかNHKのHPには書いていなかった。
ロシアのウクライナ侵略以来、その周辺の国々のことは、いろいろと話題になることがあったが、この番組であつかっているようなことが、日本のメディアで大きく取りあげられたということはなかったと憶えている。たしかに、このような地域についての取材はむずかしいとは思うが。
モルドバの中の沿ドニエストル共和国、ジョージアの中のアブハジア共和国、これらの地域は、独立国家といえるのか、あるいは、モルドバやジョージアの一部というべきか、それとも、実質的なロシア領というべきなのか……このあたりの位置づけから、いろいろ問題がありそうである。
ソ連の時代をなつかしむ老人がいたが、こういう気持ちも分からなくはないと感じる。東西冷戦の時代、ある意味で、世界はある種の安定があったことはたしかである。(日本国内でも、いわゆる五五年体制ということで、政治的な安定の期間でもあった。)
一方、ロシアのウクライナ侵略に反対し、自由をもとめる人びともいる。
こういう地域について、では、住民投票で決めればいいではないか、といかないのが、むずかしいところである。形式的には、クリミア半島は、その結果、ロシアがとってしまった。(ここも、古くからの歴史的経緯を考えるならば、ウクライナの地域にあって、特別なところだとは思えるが。)
ロシアからすれば、ロシア人の国家は独立してあるべきだ、ということになるのだろう。これはこれとして、ロシア的なナショナリズムのあり方として、理解できないことではない。だが、そうであるからといって、武力で強引に支配することは、やはり国際的にルール違反である。
ロシアの領土的野望というようなことで理解することもできるが、視点を変えて見るならば、民族と国家、という問題でもある。ロシア人は自立した国家をもちたいのだが、その結果、地域に生活している他の民族を圧迫するすることになってしまっている。民族……言語や宗教……がからんでくる問題は、解決がそう簡単ではない。少なくともこれぐらいのことは、歴史から学ぶことのできることであると思っている。
2025年5月10日記
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