ダークサイドミステリー「封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜」 ― 2025-05-15
2025年5月15日 當山日出夫
ダークサイドミステリー 封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜
再放送である。最初は、2023年8月3日。
人間の行動を科学的に説明しようとすると、あまりにも多くのパラメータが複雑にからまっているし、それは、時代とともに絶えず変化するものでもある。このように考えると、そもそも、社会心理学として、サイエンスの方法論で、人間の行動を解明することは可能なのか、という疑問にもつながる。これは、現代の行動経済学という研究領域の信頼性などにも、関係することになるだろう。
スタンフォード実験にしても、BBC実験にしても、そういう状況なら、たぶん人間というものは、そうなるだろうなあ……と感じるところではある。時に邪悪になりもするし、時に従順になりもするし、また、場合によっては、強いリーダーを求めることにもなる。
総合的に考えるならば、人間は、(番組のなかでつかっていたことばでは)環境によって、どうにでもなるものである、こういうことになるかと思う。その環境としては、生まれ育った文化、社会、歴史、社会的階層……いろんな要素があるだろう。
番組のなかでは、被験者の素質ということについては、平均的な人間を選んだということになっていた。だが、これも、さらに考えるならば、それぞれの人間の持っている遺伝的な要素、DNAということになるが、まで考えることになるかもしれない。(もし、遺伝的に暴力的で権威的な性格であるとして、環境によっては、それがどう現れるか分からない、となることにもなる。)
どちらの実験も、被験者が、成人男性ばかりというのは、今の観点からはどうなのだろうか。この二つの実験から、女性は、絶対に暴力的にはならない、と言うことができるのだろうか。(私は、そんなことはないと思うのだが。)
スタンフォード実験を題材に映画などを作る、これは、そういうものなのだろうと思う。まさに、人間の考える、人間とはこういうものなのである、というイメージをなぞることになる。
社会のシステムのなかで、人間とはどのようにでもなりうる可能性がある。それが犯罪行為であった場合、被害者と加害者について法的に対処すればいいというだけではないと、考えることになる。
個人としてできることは、(これは何度も繰り返し書いていることだが)何故、自分はそのような価値観を持っているのか、自分とは異なる価値観を持っている人は何故なのか、このことについて、想像力をめぐらす余裕と、本当の意味での寛容さ(特定の価値観にしばられない)が必要なのであり、それによってなんとか社会全体の秩序をたもつべく努力するということになるだろうか。どういう秩序が望ましいのか、これも人によって異なるので、むずかしいことではあるが。
2025年5月9日記
ダークサイドミステリー 封印解除!禁断の2つの監獄実験〜人は簡単に悪魔になるのか?〜
再放送である。最初は、2023年8月3日。
人間の行動を科学的に説明しようとすると、あまりにも多くのパラメータが複雑にからまっているし、それは、時代とともに絶えず変化するものでもある。このように考えると、そもそも、社会心理学として、サイエンスの方法論で、人間の行動を解明することは可能なのか、という疑問にもつながる。これは、現代の行動経済学という研究領域の信頼性などにも、関係することになるだろう。
スタンフォード実験にしても、BBC実験にしても、そういう状況なら、たぶん人間というものは、そうなるだろうなあ……と感じるところではある。時に邪悪になりもするし、時に従順になりもするし、また、場合によっては、強いリーダーを求めることにもなる。
総合的に考えるならば、人間は、(番組のなかでつかっていたことばでは)環境によって、どうにでもなるものである、こういうことになるかと思う。その環境としては、生まれ育った文化、社会、歴史、社会的階層……いろんな要素があるだろう。
番組のなかでは、被験者の素質ということについては、平均的な人間を選んだということになっていた。だが、これも、さらに考えるならば、それぞれの人間の持っている遺伝的な要素、DNAということになるが、まで考えることになるかもしれない。(もし、遺伝的に暴力的で権威的な性格であるとして、環境によっては、それがどう現れるか分からない、となることにもなる。)
どちらの実験も、被験者が、成人男性ばかりというのは、今の観点からはどうなのだろうか。この二つの実験から、女性は、絶対に暴力的にはならない、と言うことができるのだろうか。(私は、そんなことはないと思うのだが。)
スタンフォード実験を題材に映画などを作る、これは、そういうものなのだろうと思う。まさに、人間の考える、人間とはこういうものなのである、というイメージをなぞることになる。
社会のシステムのなかで、人間とはどのようにでもなりうる可能性がある。それが犯罪行為であった場合、被害者と加害者について法的に対処すればいいというだけではないと、考えることになる。
個人としてできることは、(これは何度も繰り返し書いていることだが)何故、自分はそのような価値観を持っているのか、自分とは異なる価値観を持っている人は何故なのか、このことについて、想像力をめぐらす余裕と、本当の意味での寛容さ(特定の価値観にしばられない)が必要なのであり、それによってなんとか社会全体の秩序をたもつべく努力するということになるだろうか。どういう秩序が望ましいのか、これも人によって異なるので、むずかしいことではあるが。
2025年5月9日記
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