ETV特集「密着 ひきこもり遍路 〜自分を探す二百万歩〜」 ― 2025-05-17
2025年5月17日 當山日出夫
ETV特集 密着 ひきこもり遍路 〜自分を探す二百万歩〜
この文章を書こうとして、NHKのHPを見てみた。番組のタイトルの確認のため、いつもしていることである。簡単な番組紹介の文章が載っているのだが、そこに、
「自分らしい」生き方とは
とあったのだが……これは、どうなのだろうか。番組のタイトルにも、「自分を探す」とある。私の考えることとしては、このような遍路を旅しようと思っている人に対して、一番言ってはいけないことばであるように思うのだが。
医者の家に生まれたから医者にならなくてもいい。これはいいだろう。だが、さらに、これについて、自分は自分らしくあらなければならない、というのは、結果的には逆転した脅迫観念になりかねない。決められたレールの上をあゆむ人生が苦痛かもしれないが、しかし、自分で自分の道を決めなければならないというのも、また(人によっては)さらなる苦痛である。
自分なんか探さなくてもいいよ、と思うけれど、それではいけないのだろうか。この世の中のどこかに自分の居場所があるはず、というも、一つの思い込みであり、場合によっては、それが人を追いつめることにもなりかねない。
別に家族や世間からどう思われようと……そこには、人間にはそれぞれの個性があり、それに従って自分らしく生きるべきだという考え方をふくむ……無為徒食に生きているのであっても、それはそれでいいのではないか。無芸大食といわれようと、かまわない。(まあ、少なくとも犯罪さえ起こさなければ、というぐらいの限定はつけてもいいかもしれないが。)
働かざる者、食うべからず……とはいうけれど、中には、働かない働きアリがいてもいいだろうし、人間の社会の全体というのは、そういう部分をふくむものであるはずだろう。(そんなにたくさんでなければ、ということにはなるけれど。)
私が、高村逸枝の『娘巡礼記』を読んだのは、学生のときだった。今から半世紀ほど前のことである。たしか、朝日選書だったと思う。今では、岩波文庫版が普通のテキストになる。これを読んで憶えていることは、高村逸枝が、四国巡礼をしたとき、それはほとんど乞食であり、社会からの逸脱者であった、という時代であったことである。
たまたまのことだが、四国のあるところに住む人の話を聞くことがあったのだが、これも今から数十年前の話で、そのときに、もう老人といっていい人だったから、今からかなり昔のことになるのだが……四国遍路を旅する人のことを、あからさまに、侮蔑、差別、軽蔑のことばで語っていたのを、記憶している。
一方で、宮本常一の『忘れられた日本人』などに描かれたような、前近代の人びとの心性も考えてみることになる。旅に生きる人びとがいた時代でもあった。
四国遍路についての考え方も、時代によって変わってきていることは確かである。
民俗学的、宗教的な観点から見るならば、選ばれた巡礼寺院は、それぞれ、どのような歴史があるのだろうか。もともと、なにがしかの霊場というところであって、そこを巡るシステムとして、八十八箇所の巡礼が整備されていったということになるだろう。(おそらく、このことは、研究されていることにちがいないが。)
私が行ったことのある巡礼寺院の一つに、石手寺がある。ここは、本堂の背後の山の中をぐるりと通り抜けるトンネルがある。いわゆる胎内くぐりであり、トンネルをとおって擬似的に別世界に行って(強いていえば死の世界)、またこの世に帰ってくることになっている。こういうところが、霊場になっていたことは、理解できることである。
この番組を見ていいなと思ったことは、巡礼の旅に出た若者たちの一行から、脱落する人を描いていたことである。これは、巡礼を達成するという目的はあったとしても、そこからはずれることはあってもいいのだ、というメッセージになっている。八十八箇所をめぐることは、とりあえずの目標であったかもしれないが、それが束縛と感じられることがあってはならない。こういう自由こそ、むしろ重要である。
しかし、番組を見ていて思ったことであるが、四国遍路をテレビで映すとなると、どうしても、『砂の器』のイメージに重ねて映像を作ってしまうことになっていると、感じた。このイメージから脱却することも大事だと思うのだけれど。
2025年5月16日記
ETV特集 密着 ひきこもり遍路 〜自分を探す二百万歩〜
この文章を書こうとして、NHKのHPを見てみた。番組のタイトルの確認のため、いつもしていることである。簡単な番組紹介の文章が載っているのだが、そこに、
「自分らしい」生き方とは
とあったのだが……これは、どうなのだろうか。番組のタイトルにも、「自分を探す」とある。私の考えることとしては、このような遍路を旅しようと思っている人に対して、一番言ってはいけないことばであるように思うのだが。
医者の家に生まれたから医者にならなくてもいい。これはいいだろう。だが、さらに、これについて、自分は自分らしくあらなければならない、というのは、結果的には逆転した脅迫観念になりかねない。決められたレールの上をあゆむ人生が苦痛かもしれないが、しかし、自分で自分の道を決めなければならないというのも、また(人によっては)さらなる苦痛である。
自分なんか探さなくてもいいよ、と思うけれど、それではいけないのだろうか。この世の中のどこかに自分の居場所があるはず、というも、一つの思い込みであり、場合によっては、それが人を追いつめることにもなりかねない。
別に家族や世間からどう思われようと……そこには、人間にはそれぞれの個性があり、それに従って自分らしく生きるべきだという考え方をふくむ……無為徒食に生きているのであっても、それはそれでいいのではないか。無芸大食といわれようと、かまわない。(まあ、少なくとも犯罪さえ起こさなければ、というぐらいの限定はつけてもいいかもしれないが。)
働かざる者、食うべからず……とはいうけれど、中には、働かない働きアリがいてもいいだろうし、人間の社会の全体というのは、そういう部分をふくむものであるはずだろう。(そんなにたくさんでなければ、ということにはなるけれど。)
私が、高村逸枝の『娘巡礼記』を読んだのは、学生のときだった。今から半世紀ほど前のことである。たしか、朝日選書だったと思う。今では、岩波文庫版が普通のテキストになる。これを読んで憶えていることは、高村逸枝が、四国巡礼をしたとき、それはほとんど乞食であり、社会からの逸脱者であった、という時代であったことである。
たまたまのことだが、四国のあるところに住む人の話を聞くことがあったのだが、これも今から数十年前の話で、そのときに、もう老人といっていい人だったから、今からかなり昔のことになるのだが……四国遍路を旅する人のことを、あからさまに、侮蔑、差別、軽蔑のことばで語っていたのを、記憶している。
一方で、宮本常一の『忘れられた日本人』などに描かれたような、前近代の人びとの心性も考えてみることになる。旅に生きる人びとがいた時代でもあった。
四国遍路についての考え方も、時代によって変わってきていることは確かである。
民俗学的、宗教的な観点から見るならば、選ばれた巡礼寺院は、それぞれ、どのような歴史があるのだろうか。もともと、なにがしかの霊場というところであって、そこを巡るシステムとして、八十八箇所の巡礼が整備されていったということになるだろう。(おそらく、このことは、研究されていることにちがいないが。)
私が行ったことのある巡礼寺院の一つに、石手寺がある。ここは、本堂の背後の山の中をぐるりと通り抜けるトンネルがある。いわゆる胎内くぐりであり、トンネルをとおって擬似的に別世界に行って(強いていえば死の世界)、またこの世に帰ってくることになっている。こういうところが、霊場になっていたことは、理解できることである。
この番組を見ていいなと思ったことは、巡礼の旅に出た若者たちの一行から、脱落する人を描いていたことである。これは、巡礼を達成するという目的はあったとしても、そこからはずれることはあってもいいのだ、というメッセージになっている。八十八箇所をめぐることは、とりあえずの目標であったかもしれないが、それが束縛と感じられることがあってはならない。こういう自由こそ、むしろ重要である。
しかし、番組を見ていて思ったことであるが、四国遍路をテレビで映すとなると、どうしても、『砂の器』のイメージに重ねて映像を作ってしまうことになっていると、感じた。このイメージから脱却することも大事だと思うのだけれど。
2025年5月16日記
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