『チョッちゃん』(2025年5月12日の週)2025-05-18

2025年5月18日 當山日出夫

『チョッちゃん』(2025年5月12日の週)

このドラマは、昭和の戦前の北海道の滝川と、東京を、舞台にして展開する。最初の放送のとき、全部をきちんと見たというわけではないのだが、なんとなく見ていたのを憶えている。

冷静に見ると、かなりきわどい社会の様子を描いていることになる。女学校の男性教師が、教えていた女生徒と、一緒に東京に行って一つの部屋で暮らすことになる。北海道では、農業がたちゆかなくなって、一家離散となる。少女は、あやうく妓楼に売られそうになるが、そこはなんとかなって、東京に行くことができた。

昭和の初めごろの歴史を思ってみると、これから本格的に昭和の大恐慌の時代をむかえることになる。ドラマのなかでは、まだ、関東大震災からの復興ということで、いまから思えば世の中の景気がよかったころ、ということになるだろうか。

このような時代を描いているのだが、あまり悲惨な印象はない。北海道の蝶子の家の両親の会話など見ていると、なんだかほっこりする。それと対照的ではあるが、東京の下宿先のおじさん夫婦の会話も、見ていると、東京の庶民の落ち着いた生活感が感じられる。

なにより蝶子が、この時代の世の中のことについて、何も知らないというか、あるいは、楽天的というか、といって深窓のお嬢さまでもないし、人並み以上にやさしく思いやりのある少女として描かれている。まあ、今のところ、音楽学校に通っているとはいえ、音楽の才能で抜きん出ているということはないようなのだが。

蝶子の表情には、品のよさがある。北海道から、安乃をつれて東京にもどることになるが、少女をいたわる母性的存在でもないし(まだそれほどの年齢ではない)、社会悪に対して毅然としているわけでもない(社会悪というような概念は持っていない)。ただ、不幸な少女の身の上を案じているやさしさが感じられる。

神谷先生も、見ようによっては、とてもだらしない男ということで、今の時代なら、非難囂々であるかもしれないのだが、今のところは、児童文学に理想を持ち、新しい生活をはじめようとしている。邦子も、男性の教員をたぶらかしたふしだらな女ということではなく、気持ちの純粋さを感じさせる。

昭和のはじめのころの社会として、個人の善意や努力だけではどうにもならないことが多くあったはずである。だからといって、国家や為政者が悪者として描かれているわけでもない。そういう時代にあって、それぞれに生きている人びとの生活の情感を、丁寧に描いていると感じる。

朝、BSP4Kで続けてみているのだが、はっきりいって、『あんぱん』より、『チョッちゃん』の方が面白い。少なくとも私には、『チョッちゃん』の人物描写の方がうなずける。この時代にこんな人が、こんなふうに生きていたんだ、と共感できるところが多い。

あえていえば、このドラマでは、正義の立場から悪である敵を批判する、というような視点はない。そうではなく、静かに人間というもの、その社会というものを、見つめている。そこには、穏やかだが、しかし、確実に多くの人びとの人の心に深くしみいるヒューマニズムがある。

2025年5月17日記

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