NHKスペシャル「未完のバトン 第3回 “均等法の母”に続く長い列」 ― 2025-06-03
2025年6月3日 當山日出夫
NHKスペシャル 未完のバトン 第3回 “均等法の母”に続く長い列
かなり考えてバランスを考慮して作った番組だなとは思うのだが、少し気になったところがあることもたしかである。
デンマークの事例があって、女性の首相であったことは言っていた。しかし、デンマークは、国会議員の数についてクオータ制をとっていないかと思う。ちょっとWEBで調べてみただけなのだが、はっきりとそう明言できないようである。見ていて、番組の流れとしては、ここのところで、すこし断絶があるなと感じるところがあったので、気になった。(強いていえば、すこしごまかして作ったな、という印象を持ってしまうことになる。)
デンマークについていうならば、最近のニュースで話題になったこととしては、女性も徴兵制の対象としたことがある。男女平等ということをいうならば、このようなことを避けてとおるということは、もはやできない時代になっているということを、まず理解しておくべきだろう。
完全な非武装論というのはあってもいいが、この議論とはまた別のことである。女性は平和を好むから兵士になるべきではない、というような方向の議論になったりすると、それなら、男性と女性と役割があってもよい、ということになる。
私は、アファーマティブアクション(このことばは、番組の中ではつかっていなかったが)を必ずしも否定はしない。状況によっては必要な場合もあると思う。だが、この結果として、逆に自分たちが疎外されていると感じる人たちを生み出しては、うまく機能しないものである、ということも考えられるべきだろう。
クオータ制は、単に男女だけの問題であるならばいいが、今の時代としては、いわゆるアイデンティティ・ポリティックスにおいて、さまざまな人のことを考えなければならなくなる。性の違いだけではなく、いわゆる人種や民族、宗教、言語、その他、いろんな要素がある。無論、人間を男性と女性とだけに二分して考えることは、現在のいわゆるリベラルな立場からは、もっとも否定されるべき価値観である。
男女の平等を政策的に推進した結果、かえって男女間の対立を生むということにもなりかねない。ある意味では、現代の韓国社会の問題かもしれない。ジェンダーの問題については、普通は欧米先進国という国のことが参照されることが多いのだが、アジアの近隣の韓国や台湾などのことも、考えてみるべきことだと思う。欧米=進んでいる、アジア=遅れている、という価値観がどこかにあると感じることになる。
このようなことを分かったうえで、では、これからの日本はどうすべきか……となると、常識的な考え方をこえるものではなかった。社会の人びとの意識の変化、制度の拡充、それを段階的に進めていくということぐらのところしか、おとしどころはないだろう。
男女の平等ということについては、現代の社会において共通の理解になっていることは確かである。問題は、その理想がどのような状態であれば実現したことになるのか、その具体像について、考え方の一致を見ることがむずかしいことである。それでもなお女性は差別されていると感じる女性はかならずいるだろうし、同時に、これでは逆に自分たちが差別されていると感じることになってしまう、特に社会的に弱い立場におかれた男性という存在のことも考えなければならない。
おそらくは、ロールズの言った正義についての考え方を、さらに深めていくということが必要だろうと思う。
2025年6月1日記
NHKスペシャル 未完のバトン 第3回 “均等法の母”に続く長い列
かなり考えてバランスを考慮して作った番組だなとは思うのだが、少し気になったところがあることもたしかである。
デンマークの事例があって、女性の首相であったことは言っていた。しかし、デンマークは、国会議員の数についてクオータ制をとっていないかと思う。ちょっとWEBで調べてみただけなのだが、はっきりとそう明言できないようである。見ていて、番組の流れとしては、ここのところで、すこし断絶があるなと感じるところがあったので、気になった。(強いていえば、すこしごまかして作ったな、という印象を持ってしまうことになる。)
デンマークについていうならば、最近のニュースで話題になったこととしては、女性も徴兵制の対象としたことがある。男女平等ということをいうならば、このようなことを避けてとおるということは、もはやできない時代になっているということを、まず理解しておくべきだろう。
完全な非武装論というのはあってもいいが、この議論とはまた別のことである。女性は平和を好むから兵士になるべきではない、というような方向の議論になったりすると、それなら、男性と女性と役割があってもよい、ということになる。
私は、アファーマティブアクション(このことばは、番組の中ではつかっていなかったが)を必ずしも否定はしない。状況によっては必要な場合もあると思う。だが、この結果として、逆に自分たちが疎外されていると感じる人たちを生み出しては、うまく機能しないものである、ということも考えられるべきだろう。
クオータ制は、単に男女だけの問題であるならばいいが、今の時代としては、いわゆるアイデンティティ・ポリティックスにおいて、さまざまな人のことを考えなければならなくなる。性の違いだけではなく、いわゆる人種や民族、宗教、言語、その他、いろんな要素がある。無論、人間を男性と女性とだけに二分して考えることは、現在のいわゆるリベラルな立場からは、もっとも否定されるべき価値観である。
男女の平等を政策的に推進した結果、かえって男女間の対立を生むということにもなりかねない。ある意味では、現代の韓国社会の問題かもしれない。ジェンダーの問題については、普通は欧米先進国という国のことが参照されることが多いのだが、アジアの近隣の韓国や台湾などのことも、考えてみるべきことだと思う。欧米=進んでいる、アジア=遅れている、という価値観がどこかにあると感じることになる。
このようなことを分かったうえで、では、これからの日本はどうすべきか……となると、常識的な考え方をこえるものではなかった。社会の人びとの意識の変化、制度の拡充、それを段階的に進めていくということぐらのところしか、おとしどころはないだろう。
男女の平等ということについては、現代の社会において共通の理解になっていることは確かである。問題は、その理想がどのような状態であれば実現したことになるのか、その具体像について、考え方の一致を見ることがむずかしいことである。それでもなお女性は差別されていると感じる女性はかならずいるだろうし、同時に、これでは逆に自分たちが差別されていると感じることになってしまう、特に社会的に弱い立場におかれた男性という存在のことも考えなければならない。
おそらくは、ロールズの言った正義についての考え方を、さらに深めていくということが必要だろうと思う。
2025年6月1日記
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