100分de名著「アトウッド“侍女の物語”“誓願” (1)すぐそこにあるディストピア」2025-06-07

2025年6月7日 當山日出夫

100分de名著 アトウッド“侍女の物語”“誓願” (1)すぐそこにあるディストピア

数年前のことになるが、光文社新書の『文学こそ最高の教養である』を読んで、ここでとりあげてある作品を全部読もうと思ってみんな読んだことがある。このなかで、一番長大なのは、『失われた時を求めて』であるが、これは、すでに読んでいた(岩波文庫の吉川一義訳で既刊分、その他は集英社文庫の鈴木道彦訳)。『虫めづる姫君』は、現代語訳で読む気もしないし、昔、古典大系で読んだ作品なので、これはパスした。

このあと、何を読もうかと思って、歴代のブッカー賞の作品・候補作品を眺めていって、中に『侍女の物語』があったことは憶えている。だが、結局、ブッカー賞(候補作をふくめて)で翻訳のあるものを読んでいくということは、なしで終わってしまったのだが。

ちょっと調べてみると、さまざまに毀誉褒貶のある作品であることになる。だが、番組では、ディストピア小説の傑作という、評価する立場からあつかっている。これは、まあ、そうなるだろうと思う。

番組を見て思ったことの一つは、今の時代、独裁者として悪役になってもいいのは、ヒトラーぐらいしかいない、ということである。その他は、番組を見るひとが自分で想像してあてはめて考えてください、ということである。それは、スターリンかもしれないし、習近平かもしれないし、金日成かもしれないし、ポルポトかもしれないし、無論、最近の人物としては、トランプかもしれないし、プーチンかもしれないし、安倍晋三かもしれない。

私としては、ヒトラーは、手続き的には民主的な選挙で政権を獲得したのだし、その時代(ワイマール体制のいきづまり)にあって、ヒトラーを支持したドイツ国民としては、ある意味で合理的な判断でもあったことは、認めなければならないだろうと思っている。また、選挙ということを経ていない中国共産党政権は大きな問題であるが、それでも、多くの国民が支持している、あるいは、反対できないでいるということは、こういうタイプの独裁もあることは、視野にいれておかなければならないだろう。

番組の始まりで紹介されていた他のディストピア小説としては、『すばらしい新世界』(ハクスリー)があげられていてもよかったと思うのだが、出てこなかった理由は何なのだろうか。

気になることとしては、宗教的寛容さ、ということについて、どう番組のなかで言及するか、あるいは、しないで終わる(ごまかしてしまう)のか、ということである。

2025年6月4日記

NHKスペシャル「ドキュメント 医療限界社会 追いつめられた病院で」2025-06-07

2025年6月7日 當山日出夫

NHKスペシャル ドキュメント 医療限界社会 追いつめられた病院で

医療については、完璧を求めすぎてはいけない……少なくとも、人間はミスをするものである、ということを前提にした、医療のシステムを考えるべきだし、社会としては、それを受け入れていかなければならない。総論としては、私はこのように思っている。

病院の経営が、どこもかなり厳しいという状況は、そう簡単には是正できないことかとも思う。高度な医療については、地域による集約ということにならざるをえないし、町中の診療所や病院の規模や場所に対応して、総合的な連携システムを作っていくということしかないだろう。

そして、場合によっては、医療にかかわるコスト(保険料や医療費の負担)の増額ということも、ありうることとして考えることになる。(でなければ、形を変えて税金で負担することになる。)

たまたま、日本では、ここ二〇年ほど物価がほとんど上がってこなかったので、なんとか現状維持ということが可能であった。だが、これは、同時に、根本的な構造改革をストップさせることにもつながった。ここに、直近の物価上昇などがあれば、いろんなところにひずみが顕在化するのは当然だろう。

都市部の大きな病院だと、救急患者を多く受け入れようとしている。そうしないと、病院の経営に影響する。しかし、よく言われることとして、救急搬送の受け入れ先が決まらなくて、長時間、待機しなければならないということがある。はたして、実際の医療の現場ではどうなっているのだろうか。これは、地域差ということもあるにちがいない。

医療関係者の働き方改革をふくめて、地域ごとの人口動態など、さらに総合的な視野から考えるべきことにちがいない。ただ、国民の誰もが、その時代の最先端で最高水準の医療を受けられるものではなく、そうではなく、標準的なレベルの医療が全国どこでもまんべんなく行きわたるようにするにはどうすべきか、ということではないかと、私は考えている。(より不幸な人を、より少なくする、ということである。)

番組の趣旨とは関係ないことだが、大学の経営について語るとき、医学部があって附属病院を持っている大学は病院の収入が大きい、と言われる。大学医学部の附属病院というのは、そんなにもうかるようなものなのだろうか。

2025年6月2日記

映像の世紀バタフライエフェクト「シリーズ 核の80年(2)ヒロシマ 世界を動かした2人の少女」2025-06-07

2025年6月7日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト シリーズ 核の80年(2)ヒロシマ 世界を動かした2人の少女

原爆の被害について語るとき、私は、どうしてもジレンマを感じる。その被害の悲惨なこと、深刻なことは、ことばをつくしても語りうるものではない。だが、同時に、その悲惨さを語れば語るほど、そのように強力な兵器なら持つだけの(あるいは、使う)価値がある。これほど日本人が原爆を恐れているのなら、核兵器でおどせば日本はなんとでもなるにちがいない……このように考える人間がいるだろうことである。この観点では、原爆の被害について語ることが、必ずしも、核兵器廃絶にすぐにつながるものではない、これも残念ながら現実の姿だというしかない。

この番組としては、従来の原爆の被害を強調するという作り方ではなかった。かなりこの面については、抑制した編集になっていた。

目新しい(というのも適切ではないような気がするが)こととしては、原爆の被害の様子、その調査の記録映画について、GHQは検閲していて、多くの日本人が原爆の被害の実態を知るのは、占領が終わって独立をはたしてからのことであったということを、はっきりと言っていたことである。GHQによる言論統制は、いまだにマスコミにおいては、あまり大きく語られることではない。

だが何も知らなかったということではない。永井隆の『この子を残して』の刊行は、1948年である。(学生のとき、神保町でたまたま見つけて買った本でもある。その名前は、高校生のときぐらいに覚えただろうか。修学旅行は九州で長崎にも行った。)

それから、被爆者が差別されていたこと。このことは、私ぐらいの年代(1955、昭和30年生)だと、なんとなく体験的に分かることでもある。「ピカドン」ということば(このことばは番組のなかでは出てきていなかったが)が、差別的につかわれることばであったと記憶している。被爆者への差別ということがあった、こういうことも、現代では歴史の暗黒面になってしまっているのかとも思う。

広島、長崎に原爆が投下され、日本が終戦をむかえてから、すぐに、核兵器反対となったわけではなく、それは今日にいたるまで紆余曲折の歴史があることなのである、この当たり前のことを、再確認しておく必要がある。思想にはかならず歴史がある。たとえそれが、好ましくないものであると現在の価値観から判断されるものであっても、その歴史があったことを忘れてはならない。(往々にして、自分とは相容れない立場からの歴史への発言について、歴史修正主義と非難することが多いが、まずは自分自身のよってたつ思想にも歴史があることをかえりみる姿勢が必要だと、私は思う。これはどのような立場であるにせよ、である。)

エノラ・ゲイの搭乗員が命令を拒否することはできたかもしれない。その場合は、他の兵士が代わって任務にあたることになる。その結果は変わらない。しかし、トルーマンが決断しなければ、原爆の使用はなかった。この違いをきちんと理解することが重要である。

吉本隆明の『「反核」異論』を覚えている人はもうあまりいないかもしれないが、これも歴史の一コマである。

終末時計というのは、基本的に、この世には終わりがおとづれるはずである、という黙示録なのだが、こういう発想自身が、あまりに西欧的というか、キリスト教的という印象がある。いったい誰が、これを考えたのだろうか。

2025年6月6日記