『べらぼう』「我こそは江戸一利者なり」 ― 2025-06-16
2025年6月16日 當山日出夫
『べらぼう』 我こそは江戸一利者なり
この回も、前回と同様に、外に出て太陽の光のさすところの場面はあまり出てきていない。屋外のシーンがあるにはあるが、強い太陽光を感じない。佐野政言の屋敷の桜の場面であるが、これは、このドラマでこれから起こるはずの事件の伏線ということになっているかと思う。また、冒頭の吉原の弁柄格子から光が差し込むシーンは、これは、太陽光をたくみに演出したことになる。
土山の屋敷を夜の場面で描くのはうまいと思う。豪勢な屋敷の様子を、夜の闇のなかに浮かびあがらせるのは、効果的であり、また、たぶんセットなどの制作コストも下げられるのだろう。
誰袖がとてもいい。これまでに登場してきた、瀬川、うつせみ、などとは違った魅力がある。こういう花魁になら、松前廣年(=蠣崎波響)が夢中になるのも、もっともだと思える。それにしても、このドラマに蠣崎波響がかなり重要な役どころで登場するとは、予想していなかった。だが、田沼時代の蝦夷地のことを描くとなると、出てきていてもおかしくはない。蠣崎波響が出てきたぐらいだから、本居宣長も登場してほしいと思う。時代としては、もう少し後のことになるが。
歴史の結果としては、田沼意次の蝦夷地の開拓の計画は実現しない。これが実際におこなわれるのは、明治になってからのことである。これは、周知のことであろう。ここで、もし、田沼意次が蝦夷地を上地して開拓に乗り出していたとしたら、日本の歴史はどうなっていただろうか。南下政策をとるロシアと、どこかで衝突することになったかもしれない。ひょっとすると、結果次第では、北海道はロシアの領土になっていた可能性もまったく否定できないだろう。(最終的には、北海道は日本のものということになり、その後、日露戦争から太平洋戦争を経て、今日の状態がることになる。ここに住んでいた多くのアイヌの人びとにとっては、どちらが幸福なことであったろうか。無論、アイヌの独立国という選択肢もありえなかったわけではないだろうが。)
蝦夷地については、なんとなく流れとしては日本の領土という形で描いてあった。まあ、これはNHKとしては、そうなるだろう。(アイヌの人たちのもの、という歴史観もあるだろうが。)
この回から、黄表紙、ということばが出てきた。日本の普通の文学史の知識としては、黄表紙の名称の方が一般的だろう。しかし、何回もおなじことを思ってしまうのだが、戯作と浮世絵だけで、江戸時代の出版を語るのは、どう考えても無理がある。その他の多くの出版物が、どのように作られ、全国に流通していたか、(厳密な考証は難しいことだということは分かっているが)もうすこし描いてあってもいいかと思う。(どうせ、フィクションのドラマなのであるから。また、松平定信の時代になって、寛政異学の禁のことを描くなら、近世の出版について広くあつかってあった方がいいと思うのであるが、どうなるだろうか。)
大田南畝が、戯作者、狂歌師としてしか出てきていない。これも、私としては違和感のあるところである。れっきとした幕臣であり、この時代においては、ずばぬけた教養人であった。そもそも狂歌は、古典和歌についての素養がなければ、面白いものを作れないし、読んでも、その面白さが分からないものである。(岩波書店の「大田南畝全集」は出たときに買って、今でも持っている。)
日本橋の白木屋が出てきていた。火事の事件のことで歴史に名前が残っているということかと思うが、その後、東急百貨店日本橋店になり、これも、姿を消すことになった。百貨店業界の栄枯盛衰は、世の中とはこういうものかと思う。
蔦重は、日本橋に進出することを決意する。今でいえば、銀座に店を出す。千代田区に本社をおく、というようなことだろうか。ここいたる経緯として、江戸の街で、どういう条件や力関係や利権があって、店舗をかまえることができたのか、できなかったのか、ここは歴史学上のこととして、かなり気になるところである。
2025年6月15日記
『べらぼう』 我こそは江戸一利者なり
この回も、前回と同様に、外に出て太陽の光のさすところの場面はあまり出てきていない。屋外のシーンがあるにはあるが、強い太陽光を感じない。佐野政言の屋敷の桜の場面であるが、これは、このドラマでこれから起こるはずの事件の伏線ということになっているかと思う。また、冒頭の吉原の弁柄格子から光が差し込むシーンは、これは、太陽光をたくみに演出したことになる。
土山の屋敷を夜の場面で描くのはうまいと思う。豪勢な屋敷の様子を、夜の闇のなかに浮かびあがらせるのは、効果的であり、また、たぶんセットなどの制作コストも下げられるのだろう。
誰袖がとてもいい。これまでに登場してきた、瀬川、うつせみ、などとは違った魅力がある。こういう花魁になら、松前廣年(=蠣崎波響)が夢中になるのも、もっともだと思える。それにしても、このドラマに蠣崎波響がかなり重要な役どころで登場するとは、予想していなかった。だが、田沼時代の蝦夷地のことを描くとなると、出てきていてもおかしくはない。蠣崎波響が出てきたぐらいだから、本居宣長も登場してほしいと思う。時代としては、もう少し後のことになるが。
歴史の結果としては、田沼意次の蝦夷地の開拓の計画は実現しない。これが実際におこなわれるのは、明治になってからのことである。これは、周知のことであろう。ここで、もし、田沼意次が蝦夷地を上地して開拓に乗り出していたとしたら、日本の歴史はどうなっていただろうか。南下政策をとるロシアと、どこかで衝突することになったかもしれない。ひょっとすると、結果次第では、北海道はロシアの領土になっていた可能性もまったく否定できないだろう。(最終的には、北海道は日本のものということになり、その後、日露戦争から太平洋戦争を経て、今日の状態がることになる。ここに住んでいた多くのアイヌの人びとにとっては、どちらが幸福なことであったろうか。無論、アイヌの独立国という選択肢もありえなかったわけではないだろうが。)
蝦夷地については、なんとなく流れとしては日本の領土という形で描いてあった。まあ、これはNHKとしては、そうなるだろう。(アイヌの人たちのもの、という歴史観もあるだろうが。)
この回から、黄表紙、ということばが出てきた。日本の普通の文学史の知識としては、黄表紙の名称の方が一般的だろう。しかし、何回もおなじことを思ってしまうのだが、戯作と浮世絵だけで、江戸時代の出版を語るのは、どう考えても無理がある。その他の多くの出版物が、どのように作られ、全国に流通していたか、(厳密な考証は難しいことだということは分かっているが)もうすこし描いてあってもいいかと思う。(どうせ、フィクションのドラマなのであるから。また、松平定信の時代になって、寛政異学の禁のことを描くなら、近世の出版について広くあつかってあった方がいいと思うのであるが、どうなるだろうか。)
大田南畝が、戯作者、狂歌師としてしか出てきていない。これも、私としては違和感のあるところである。れっきとした幕臣であり、この時代においては、ずばぬけた教養人であった。そもそも狂歌は、古典和歌についての素養がなければ、面白いものを作れないし、読んでも、その面白さが分からないものである。(岩波書店の「大田南畝全集」は出たときに買って、今でも持っている。)
日本橋の白木屋が出てきていた。火事の事件のことで歴史に名前が残っているということかと思うが、その後、東急百貨店日本橋店になり、これも、姿を消すことになった。百貨店業界の栄枯盛衰は、世の中とはこういうものかと思う。
蔦重は、日本橋に進出することを決意する。今でいえば、銀座に店を出す。千代田区に本社をおく、というようなことだろうか。ここいたる経緯として、江戸の街で、どういう条件や力関係や利権があって、店舗をかまえることができたのか、できなかったのか、ここは歴史学上のこととして、かなり気になるところである。
2025年6月15日記
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