「THE 陰翳礼讃 〜谷崎潤一郎と日本の美〜」 ― 2025-06-20
2025年6月20日 當山日出夫
テレビのHDに残っていたものを、ようやく見た。4K放送である。見てみると、この番組は、2020年に8Kで作成したもののようである。
『陰翳礼讃』は、高校生ぐらいのときに読んだかと覚えている。その後、大学生ぐらいで読み、また、かなり間をおいてであるが、近年になってからも読みかえしている。このような美意識があってもいいかな、というのが私の思っているところである。
だが、これを、谷崎潤一郎が論じた「日本の美」としてしまうのには、かなり抵抗がある。(少なくとも私はそう思っている。)
番組の中であつかっていたことがらは、歴史上のこととしては、大部分が室町時代以降の上級の武士や公家などの階層の人びとの間で生まれたものである。床の間とか、障子とか、一般に普及するのは、室町時代よりもさらに下った時代のことになる。江戸時代になって、上級の武士とか上層町人など、あるいは、寺院など、ということになるだろう。こういう文化の伝統というべきものがあることは確かなのだが、これらが日本の文化の本筋ということには、かなりの無理があると私は思う。そうではない人びとのことも考えるべきである。
たまたま、最近になって読んだ本として、『明治大正史 世相編』(柳田国男)がある。これを最初に読んだのは、学生のときだった。その当時の、中央公論社の「日本の名著」のシリーズで読んだと覚えている。今は、注釈を付けたテクストが角川ソフィア文庫にあり、Kindle版で読める。
『明治大正史 世相編』が書かれたのは、昭和6年である。『陰翳礼讃』が昭和10年であるから、さほど時代はちがわない。だが、これらの書物の中で語られる、「日本古くからの伝統」というものは、大きく異なっている。
そもそも、柳田国男は、「常民」から貴族とか武士を排除していたことは、知られることであろう。(ただ、「常民」の明確な定義にもとづく文化史を柳田はまとめることはなかったが。)
見ている対象となる人びとの生活が違うのだから、そこに、異なる美意識があってもかまわないといえばそれまでである。だが、現代、我々は、柳田国男を読んでも、また、谷崎潤一郎を読んでも、どちらにも、日本の古くからの伝統的美意識がどんなものであったか、ということを感じることになる。
陰翳礼讃で日本の伝統的な美を論じることが無意味だとは思わないのだが、しかし、この視点では見えてこない人びとの生活の中の美意識が、別の流れとして存在していた、それもつい近年までつづいていた、ということは、忘れてはならないことであると思うのである。
柳田国男、宮本常一などが、近代になってから発掘したといっていいかもしれないが、古来よりの日本の中で普通に生活してきた人びとの感覚の歴史という視点も、またかえりみる価値があると思う。
この番組のなかで、藤原新也の写真が使ってあった。ある時代、日本の近現代社会に対してするどい批判者であったのだが、それを意図して使ったということなのだろうか。藤原新也の写真が『FOCUS』に連載された時代があったことを、私は記憶しているのだが。『全東洋街道』は、いい本である。(もうこの本のことを知っている人も少なくなったかと思う。)
2025年6月7日記
テレビのHDに残っていたものを、ようやく見た。4K放送である。見てみると、この番組は、2020年に8Kで作成したもののようである。
『陰翳礼讃』は、高校生ぐらいのときに読んだかと覚えている。その後、大学生ぐらいで読み、また、かなり間をおいてであるが、近年になってからも読みかえしている。このような美意識があってもいいかな、というのが私の思っているところである。
だが、これを、谷崎潤一郎が論じた「日本の美」としてしまうのには、かなり抵抗がある。(少なくとも私はそう思っている。)
番組の中であつかっていたことがらは、歴史上のこととしては、大部分が室町時代以降の上級の武士や公家などの階層の人びとの間で生まれたものである。床の間とか、障子とか、一般に普及するのは、室町時代よりもさらに下った時代のことになる。江戸時代になって、上級の武士とか上層町人など、あるいは、寺院など、ということになるだろう。こういう文化の伝統というべきものがあることは確かなのだが、これらが日本の文化の本筋ということには、かなりの無理があると私は思う。そうではない人びとのことも考えるべきである。
たまたま、最近になって読んだ本として、『明治大正史 世相編』(柳田国男)がある。これを最初に読んだのは、学生のときだった。その当時の、中央公論社の「日本の名著」のシリーズで読んだと覚えている。今は、注釈を付けたテクストが角川ソフィア文庫にあり、Kindle版で読める。
『明治大正史 世相編』が書かれたのは、昭和6年である。『陰翳礼讃』が昭和10年であるから、さほど時代はちがわない。だが、これらの書物の中で語られる、「日本古くからの伝統」というものは、大きく異なっている。
そもそも、柳田国男は、「常民」から貴族とか武士を排除していたことは、知られることであろう。(ただ、「常民」の明確な定義にもとづく文化史を柳田はまとめることはなかったが。)
見ている対象となる人びとの生活が違うのだから、そこに、異なる美意識があってもかまわないといえばそれまでである。だが、現代、我々は、柳田国男を読んでも、また、谷崎潤一郎を読んでも、どちらにも、日本の古くからの伝統的美意識がどんなものであったか、ということを感じることになる。
陰翳礼讃で日本の伝統的な美を論じることが無意味だとは思わないのだが、しかし、この視点では見えてこない人びとの生活の中の美意識が、別の流れとして存在していた、それもつい近年までつづいていた、ということは、忘れてはならないことであると思うのである。
柳田国男、宮本常一などが、近代になってから発掘したといっていいかもしれないが、古来よりの日本の中で普通に生活してきた人びとの感覚の歴史という視点も、またかえりみる価値があると思う。
この番組のなかで、藤原新也の写真が使ってあった。ある時代、日本の近現代社会に対してするどい批判者であったのだが、それを意図して使ったということなのだろうか。藤原新也の写真が『FOCUS』に連載された時代があったことを、私は記憶しているのだが。『全東洋街道』は、いい本である。(もうこの本のことを知っている人も少なくなったかと思う。)
2025年6月7日記
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