JAPAN DELISH「ギョーザ」 ― 2025-06-27
2025年6月27日 當山日出夫
JAPAN DELISH ギョーザ
再放送である。最初は、2025年3月15日。もともとは、NHKの国際放送の番組で、それの日本語版。
餃子が、中国、それも満州にわたった日本人が、日本にもちかえってひろまった、ということはすでに知られていることだと思う。中国では、ゆでる水餃子がメインであるが、日本では焼き餃子になる。なぜ、こうなったかは、分からないようなのだが。
餃子が日本で馴染みの料理になったのには、冷凍食品の普及がある、ということはたしかなことだろう。それが、いまでは、油も水もいらない、というものもある。
これを開発したのは、味の素になる。しかし、発売当初、苦情がSNSで寄せられた。そこで、会社では、全国の消費者からフライパンを送ってもらい、それを調べることになった、という。
このあたりの経緯は、是非とも、「神田伯山のこれがわが社の黒歴史」でやってもらいたい。(「新・プロジェクトX」ではなくて。)こちらの方が、絶対に面白い。
たぶん、フライパンのメーカの方でも、餃子をきれいに焼けるフライパンの開発をすすめているかと思う。ひょっとすると、もう商品になっているかもしれない。
宇都宮と浜松と宮崎の、餃子の争いは、毎年の恒例行事のようなものである。それぞれに、地方色があっていいと思っている。
番組を作った側としては、どうでもいいことのはずだが、私として非常に気になって見ていたのは、「餃子」の「餃」の字をどう書いているか。左側の「食」(しょくへん)を、今の普通の「しょくへん」で書くか、それとも、古い字体で書くか。
漢字の部分字体の整合性、といような概念で説明することになる現象であるが、「謎」「賭」「捗」などの、新しく常用漢字になった漢字では、近年になって、字体が変わってきている。特に、テレビの字幕の文字で顕著にこれが観察できる。一般の印刷媒体では目にすることはない(おそらく、書籍などでは校閲の目が入り、また、印刷会社の使用するフォントが、古い字体を採用したものになっているからだと思うが。)
「餃」の字が、宇都宮の店が映ったときには、「しょくへん」が新しい字体になっているものがいくつか目についた。これは、非常に興味深い。私の観察してきた範囲だと、街中の中華料理屋さんなどの看板では、ほとんど見かけることがない。それが、宇都宮では、かなりあるようだ。
若くて元気だったら、宇都宮まで行って、餃子屋さんの文字……こういうのを、文字研究の分野では景観文字という……の調査などしてみたいところである。だが、これは、もう若い人にまかせることかとも思う。
2025年6月24日記
JAPAN DELISH ギョーザ
再放送である。最初は、2025年3月15日。もともとは、NHKの国際放送の番組で、それの日本語版。
餃子が、中国、それも満州にわたった日本人が、日本にもちかえってひろまった、ということはすでに知られていることだと思う。中国では、ゆでる水餃子がメインであるが、日本では焼き餃子になる。なぜ、こうなったかは、分からないようなのだが。
餃子が日本で馴染みの料理になったのには、冷凍食品の普及がある、ということはたしかなことだろう。それが、いまでは、油も水もいらない、というものもある。
これを開発したのは、味の素になる。しかし、発売当初、苦情がSNSで寄せられた。そこで、会社では、全国の消費者からフライパンを送ってもらい、それを調べることになった、という。
このあたりの経緯は、是非とも、「神田伯山のこれがわが社の黒歴史」でやってもらいたい。(「新・プロジェクトX」ではなくて。)こちらの方が、絶対に面白い。
たぶん、フライパンのメーカの方でも、餃子をきれいに焼けるフライパンの開発をすすめているかと思う。ひょっとすると、もう商品になっているかもしれない。
宇都宮と浜松と宮崎の、餃子の争いは、毎年の恒例行事のようなものである。それぞれに、地方色があっていいと思っている。
番組を作った側としては、どうでもいいことのはずだが、私として非常に気になって見ていたのは、「餃子」の「餃」の字をどう書いているか。左側の「食」(しょくへん)を、今の普通の「しょくへん」で書くか、それとも、古い字体で書くか。
漢字の部分字体の整合性、といような概念で説明することになる現象であるが、「謎」「賭」「捗」などの、新しく常用漢字になった漢字では、近年になって、字体が変わってきている。特に、テレビの字幕の文字で顕著にこれが観察できる。一般の印刷媒体では目にすることはない(おそらく、書籍などでは校閲の目が入り、また、印刷会社の使用するフォントが、古い字体を採用したものになっているからだと思うが。)
「餃」の字が、宇都宮の店が映ったときには、「しょくへん」が新しい字体になっているものがいくつか目についた。これは、非常に興味深い。私の観察してきた範囲だと、街中の中華料理屋さんなどの看板では、ほとんど見かけることがない。それが、宇都宮では、かなりあるようだ。
若くて元気だったら、宇都宮まで行って、餃子屋さんの文字……こういうのを、文字研究の分野では景観文字という……の調査などしてみたいところである。だが、これは、もう若い人にまかせることかとも思う。
2025年6月24日記
100分de名著「アトウッド“侍女の物語”“誓願” (3)言葉を奪われた女たち」 ― 2025-06-27
2025年6月27日 當山日出夫
100分de名著 アトウッド“侍女の物語”“誓願” (3)言葉を奪われた女たち
この月のような本の場合、それについて語ることは、どうしてもポジショントークになりがちなので、どのような歴史的文脈のなかで、この本が書かれて読まれてきて、その評価は、賛否をふくめてどうだったか、というようなことは語られることはないと思っている。だから、その語られた内容について、ことさら否定的なことを言おうとは思わない。だが、賛否のある作品であるということについては、きちんと言っておくべきだろうとは思う。
興味深かったのは、聖書を読むことを禁じられていたが、文字を覚えて、聖書のテクストを読むことが可能になって、それまで、音声言語で語られていた内容が、新たに文字を媒介として、まったく別のものとして出現する……これは、歴史的に見れば、カトリックの歴史のなかで、聖書が印刷された書物になって広く一般に読まれるようになって、プロテスタントの信仰がはじまる……このような流れを、あらためてなぞっているかのようである。
ただ、聖書のことばというのは、そもそも文字に書かれることを前提としていたのだろうか、という疑問もある。端的にいえば、イエスは文字を書いたのか、ということでもある。同じことは、仏教についても、イスラムについても、儒教についてもいえるはずである。啓典は、文字に書かれることによって啓典としての「権威」を得る、このようにいってもいいかもしれない。
その文字のテクストが、再度、音声言語として新たな価値を見出すようになる……このようなことを思ってみると、いろいろと考えるところがある。
2025年6月26日記
100分de名著 アトウッド“侍女の物語”“誓願” (3)言葉を奪われた女たち
この月のような本の場合、それについて語ることは、どうしてもポジショントークになりがちなので、どのような歴史的文脈のなかで、この本が書かれて読まれてきて、その評価は、賛否をふくめてどうだったか、というようなことは語られることはないと思っている。だから、その語られた内容について、ことさら否定的なことを言おうとは思わない。だが、賛否のある作品であるということについては、きちんと言っておくべきだろうとは思う。
興味深かったのは、聖書を読むことを禁じられていたが、文字を覚えて、聖書のテクストを読むことが可能になって、それまで、音声言語で語られていた内容が、新たに文字を媒介として、まったく別のものとして出現する……これは、歴史的に見れば、カトリックの歴史のなかで、聖書が印刷された書物になって広く一般に読まれるようになって、プロテスタントの信仰がはじまる……このような流れを、あらためてなぞっているかのようである。
ただ、聖書のことばというのは、そもそも文字に書かれることを前提としていたのだろうか、という疑問もある。端的にいえば、イエスは文字を書いたのか、ということでもある。同じことは、仏教についても、イスラムについても、儒教についてもいえるはずである。啓典は、文字に書かれることによって啓典としての「権威」を得る、このようにいってもいいかもしれない。
その文字のテクストが、再度、音声言語として新たな価値を見出すようになる……このようなことを思ってみると、いろいろと考えるところがある。
2025年6月26日記
映像の世紀バタフライエフェクト「激動 アジアの隣人たち 韓国 戒厳令との闘い」 ― 2025-06-27
2025年6月27日 當山日出夫
映像の世紀バタフライエフェクト 激動 アジアの隣人たち 韓国 戒厳令との闘い
韓国の現代史を、手短にまとめると、こんなものかなとは思う。
見ながら思ったことを、とりあえず書いてみる。
韓国の民主化にプロセスが、はしょりすぎてあるので、韓国の人びとにとって、民主主義とはどういうものとして考えられてきたのか、ということが分かりにくい。今の日本だと、無条件に民主主義は良いもの、ということになっている(私は、このことに異論があるのではない。)だが、それが、日本の人びとの間にどうやって定着してきたのかということは、歴史的に考えてみる必要はある。(場合によっては、明治維新の「五箇条の御誓文」ぐらいから説きおこすことになるかもしれないし、大正デモクラシーということも考えるべきであるし、普通選挙の実施があり、戦後のGHQの統治のあり方も考えなければならない、そんなに簡単なものではない。)
今の世界でそうであるが、民主的=良いもの、ということは、確かにそのとおりではあるが、それぞれの国や地域での、この考え方の歴史ということも、考えておくべきだろうと思う。でなければ、現代の中国のことや、一部の国に残る、開発独裁ということについても、よく分からないだろう。民主化していない=遅れている=悪い、というステレオタイプの価値判断は、避けるべきだと考えている。(だからといって、中国のような一党独裁がいいというつもりはない。)
少なくとも、日本の統治下にあったときにさかのぼって、韓国の人びとが民主主義ということをどうとらえてきたのか、それを知った過程、ということが、重要なことであるにちがいない。だが、これを言いだすと、植民地支配で日本は韓国にいいこともした、していない、という不毛の議論になりかねないのではあるけれど。(少なくとも、日本で行われた、男子普通選挙について、どう思っていたかということぐらいは、語るところがあってもいいのではないか。思想の歴史を語るべきところである。韓国の人びとは、近代的な人権意識をどうやって形成していったのだろうか。)
日韓基本条約の締結のときのこととして、今の国民に迎合するものではだめで、百年後に評価されるものでなければならない……という意味のことを、池田勇人だったと思うが、言っていたのは、この条約の是非とは別に、たしかにそのとおりだと私は思う。今の国民にうける、ということは、現代のいいかたでいえば、ポピュリズム、ということになるだろう。だからといって、いわゆる民意や輿論(世論ではなく)を無視していいということではないのではあるが。いや、今の時代としては、世論こそ重要ということになるかもしれないが。
韓国について、何よりも気になることは……これまで、たびたび戒厳令が出され、また、大統領の弾劾もあったのであるが、これが可能な制度(憲法の規定ということになるのだろうが)を、変えようとしないのは、なぜなのだろうか。前のユン・ソンニョル大統領が、非常戒厳を出したことを否定するならば、どんな大統領であっても、二度とこのようなことができないように制度を改めるのが、普通の考え方だろうと、私には思える。意地の悪い見方かもしれないが、大統領が戒厳令を出せる権限を手放したくはない、このように新しいイ・ジュミョン大統領は思っているのだろうか。ここは、韓国政治に詳しい専門家の解説を聞きたいところである。
冷静に考えると……戒厳令が可能な国家のシステムの方が普通であり、それは必要なことであるのかもしれない。今の世界、これから何がおこるかわからない。日本の場合、今の憲法になってから、それを必要とするような事態にたまたまならなくて済んだというだけのことであると考えるべきだろう。そして、その戒厳令に対する抑制の機能も、同時に必要である。この意味では、韓国の政治の制度はまともである……実際の運用はまた別のことであるが……ということもできよう。
また、いうまでもないが、今の韓国における党派の分断はどうにかならないものかと思う。先般の非常戒厳のときも、これに賛成した人びとも少なからずいた。これは、お互いに、自分と対立する相手を馬鹿だと思っている、というだけのことになるかもしれないが、なぜ、そのように考えるようになったのか、その歴史が知りたい。(ここまでのことになると、この番組の枠をこえたことにはなるだろうが。)
2025年6月24日記
映像の世紀バタフライエフェクト 激動 アジアの隣人たち 韓国 戒厳令との闘い
韓国の現代史を、手短にまとめると、こんなものかなとは思う。
見ながら思ったことを、とりあえず書いてみる。
韓国の民主化にプロセスが、はしょりすぎてあるので、韓国の人びとにとって、民主主義とはどういうものとして考えられてきたのか、ということが分かりにくい。今の日本だと、無条件に民主主義は良いもの、ということになっている(私は、このことに異論があるのではない。)だが、それが、日本の人びとの間にどうやって定着してきたのかということは、歴史的に考えてみる必要はある。(場合によっては、明治維新の「五箇条の御誓文」ぐらいから説きおこすことになるかもしれないし、大正デモクラシーということも考えるべきであるし、普通選挙の実施があり、戦後のGHQの統治のあり方も考えなければならない、そんなに簡単なものではない。)
今の世界でそうであるが、民主的=良いもの、ということは、確かにそのとおりではあるが、それぞれの国や地域での、この考え方の歴史ということも、考えておくべきだろうと思う。でなければ、現代の中国のことや、一部の国に残る、開発独裁ということについても、よく分からないだろう。民主化していない=遅れている=悪い、というステレオタイプの価値判断は、避けるべきだと考えている。(だからといって、中国のような一党独裁がいいというつもりはない。)
少なくとも、日本の統治下にあったときにさかのぼって、韓国の人びとが民主主義ということをどうとらえてきたのか、それを知った過程、ということが、重要なことであるにちがいない。だが、これを言いだすと、植民地支配で日本は韓国にいいこともした、していない、という不毛の議論になりかねないのではあるけれど。(少なくとも、日本で行われた、男子普通選挙について、どう思っていたかということぐらいは、語るところがあってもいいのではないか。思想の歴史を語るべきところである。韓国の人びとは、近代的な人権意識をどうやって形成していったのだろうか。)
日韓基本条約の締結のときのこととして、今の国民に迎合するものではだめで、百年後に評価されるものでなければならない……という意味のことを、池田勇人だったと思うが、言っていたのは、この条約の是非とは別に、たしかにそのとおりだと私は思う。今の国民にうける、ということは、現代のいいかたでいえば、ポピュリズム、ということになるだろう。だからといって、いわゆる民意や輿論(世論ではなく)を無視していいということではないのではあるが。いや、今の時代としては、世論こそ重要ということになるかもしれないが。
韓国について、何よりも気になることは……これまで、たびたび戒厳令が出され、また、大統領の弾劾もあったのであるが、これが可能な制度(憲法の規定ということになるのだろうが)を、変えようとしないのは、なぜなのだろうか。前のユン・ソンニョル大統領が、非常戒厳を出したことを否定するならば、どんな大統領であっても、二度とこのようなことができないように制度を改めるのが、普通の考え方だろうと、私には思える。意地の悪い見方かもしれないが、大統領が戒厳令を出せる権限を手放したくはない、このように新しいイ・ジュミョン大統領は思っているのだろうか。ここは、韓国政治に詳しい専門家の解説を聞きたいところである。
冷静に考えると……戒厳令が可能な国家のシステムの方が普通であり、それは必要なことであるのかもしれない。今の世界、これから何がおこるかわからない。日本の場合、今の憲法になってから、それを必要とするような事態にたまたまならなくて済んだというだけのことであると考えるべきだろう。そして、その戒厳令に対する抑制の機能も、同時に必要である。この意味では、韓国の政治の制度はまともである……実際の運用はまた別のことであるが……ということもできよう。
また、いうまでもないが、今の韓国における党派の分断はどうにかならないものかと思う。先般の非常戒厳のときも、これに賛成した人びとも少なからずいた。これは、お互いに、自分と対立する相手を馬鹿だと思っている、というだけのことになるかもしれないが、なぜ、そのように考えるようになったのか、その歴史が知りたい。(ここまでのことになると、この番組の枠をこえたことにはなるだろうが。)
2025年6月24日記
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