「チューザイ in the World」2025-06-30

2025年6月30日 當山日出夫

『べらぼう』を4Kで見ていたら、続いて放送だったので、そのまま見ていた。これは、けっこう面白かった。調べてみると再放送である。最初は、2025年3月25日。

マレーシアという国については、あまり知らない。かろうじて世界地図で場所が分かる程度であり、基本的にイスラムの国である、というぐらいの知識である。昔使っていた、SONYのWalkmanには、「Made In Malaysia」と書いてあった。(今使っているのには、どこの製造とは記していない。しかし、日本製ということはないだろう。)

首都のクアラルンプールに支店をもつ企業の駐在員の生活についてだったが、外国での仕事ということで、いろいろと面白いこと、困ったこと、変なこと、マレーシアでの生活というと、こういうことがあるのかと思うところがあった。

時間をまもらないとか、エスカレータが動いていないとか、そういうものなのかと思う。時間厳守の感覚が違うのは、まあ、国や地域の文化によってさまざまだろうと思うが、エスカレータが動かないというのは、いったいどういう事情によるのだろうか。電力の問題でなければ、都市機能のインフラの保守の問題となるのだが、これで近代的なビジネスの場として、大丈夫なのかという気になる。

物価の違いはあるのだろう。ただ、タクシーの料金が安いのは、どういう理由なのだろうか。鉄道が安いのは、公共料金として安く設定しているということかと思うが、タクシーもそういうことなのだろうか。はたして、タクシー運転手の給料とか処遇とは、どうなっているのだろうか。

多民族国家で、多くの企業が進出しているということは分かるが、おそらく、その社会の実態としては、貧富の階級格差がかなりあるのだろうと思う。労働力が安いから、企業が工場を作るなどして、進出することになっているかと思うのだが、どうなのだろうか。(この番組の趣旨ではないと思うが、現地の工場労働者とか、その工場で監督的な立場にある、日本からの駐在員などもいるはずで、そういう人たちのことも知りたいことである。)

日本から企業のDXの提案をして、システムの構築をビジネスにしようということなのだろうが、そううまくいくのだろうか。この分野では、世界に競争相手がたくさんいるはずである。中国企業を相手に勝算はあるのだろうか。

ノジマがクアラルンプールに店があるというのも、これは、驚く。家電の販売店なのだが、これは世界的に見れば、ビジネスとしてどういうメリットのあることなのだろうか。日本の企業ならではの強み(接客と商品知識)でもって、外国でも商売ができるということなのだろうとは思う。(日本の家電店などの場合、店員さんが声をかけてこない、どうぞご自由に店内を見てください、という方針の店もある。)

売れる家電製品として、ノンオイルのフライヤーがあったが、これは、日本でも発売したら、ヒットするかもしれない。油を使わないで済むというのは、これからの日本にも受け入れられる可能性がなくはないだろう。(それよりも、電子レンジだけで調理できる、という方向かもしれないが。)

居酒屋で駐在員さんたちが集まっているところで、書店、とあったので、どこのことかと思って見ていたら、TSUTAYAであるらしい。日本国内で、書店ビジネスは大きな曲がり角にきていて、そのなかで、TUTAYAが独自路線で頑張っているとは思うのだが、さて、外国で書店ビジネスというのは、どういう展開になっているのだろうか。(具体的には、Amazonで本を買うということになっているのだろうか。いや、そもそものリテラシのことも気になる。)

住んでいるマンションに、英語の家庭教師が来てくれる、スイミングの教師が来てくれる、これはありがたいことかとも思うが、こういう暮らしは、社会のなかにおいても、中流階層以上の生活ということになるのかと思う。ここに教えに来る人たちが、いったいどんな人たちなのか、その素性とか生活の方を知りたいとも思うところである。

マーケットに、ノンハラルの食品の売り場がある、というのは、イスラムの国ならではのことである。イスラムの人たちが、礼拝のためにビジネスの場からいなくなってしまう、という。これはこれとして地域の文化として重要なことではあるが、これは十分に予定にいれられるはずのことだと思う。だが、現地のビジネスの習慣として、これからどうなっていくだろうか。(まあ、日本にも、外国から見れば奇妙な生活やビジネス上の習慣というものは、たくさんあるだろうが。)

2025年6月29日記

『八重の桜』「鉄砲と花嫁」2025-06-30

2025年6月30日 當山日出夫

『八重の桜』「鉄砲と花嫁」

日曜日の昼間は、『八重の桜』から『べらぼう』とBSP4Kで見ているのだが、『八重の桜』は、演出の方針がかなりオーソドックスという印象を受ける。そんなに奇をてらったところがない。『べらぼう』は、吉原が舞台ということもあるが、意図的にケレン味のある演出をしている。

この回まで見てきて思うことの一つには、登場人物の着物がいい。特に女性の着物がきれいである。特に派手な衣装ではない。地味な柄が基本であるが、しかし、この時代の会津の田舎町(というのも失礼だが)だったら、こんなふうだっただろうと、十分に納得のいくものになっている。

時代考証としては、この時代なら、全国的に木綿が普及していただろうということになるだろう。織物の模様としては、絣か縞模様だろうと思うが、幕末のころのものなら、実物が残っていたり、絵画資料があったりするだろうから、考証するのにそう難しいことはないかと思う。いや、それでも、一般庶民の着ていた着物がどんなだったかは難しいだろうか。お姫様の着ていた豪華な着物の方が、衣装としては作りやすいかもしれない。

公武合体、尊皇佐幕、というあたりのことが、現実路線としてあったということになるのかとも思うが、理論的につきつめて考えるならば、天皇を頂点にして、徳川の将軍もその下に位置するということになる。ならば、その将軍と諸侯(大名たち)との関係はどうなのか、主従関係にあるのか、連合体なのか、ここのところの理解によっては、最終的に討幕ということにならざるをえないのだろう。そこに日本という国の独立ということをはさみこむと、討幕開国という路線になって、西郷隆盛などが、その路線をすすむことになった……まあ、ドラマとしては、このような筋書になる。

勝海舟と西郷隆盛が会っていたのだが、この後、再び出会うとすると、江戸城の無血開城をめぐる談判ということになるのだろう。

川崎尚之助が開発したのは、銃身の内部に螺旋の溝があると言っていたから、ライフルということになるのだろうが、その威力がどれぐらいのものだったのか、具体的に分かるように描いてあるとよかったと思うのだが。

宮下順子が出ていたが、この女優さんの若いときの姿をスクリーンで見たという人も、いまでは少なくなってきているだろう。

2025年6月29日記

『べらぼう』「灰の雨降る日本橋」2025-06-30

2025年6月30日 當山日出夫

『べらぼう』「灰の雨降る日本橋」

この回の演出は、大原拓なのだが、よほど暗い画面が好きと見える。それで悪いとは思わないのだが、日曜日の昼に、『八重の桜』の再放送から続けて見ていると、画面の暗さが、より際立っている。

吉原の誰袖の出てくるところとか、日本橋の丸屋の店内での蔦重とていのシーンとか、とにかく画面が暗い。まあ、だからこそ、誰袖(福原遥)やてい(橋本愛)の魅力が引き出せているともいえるのだが。

浅間山が噴火した。歴史のこととしては、浅間山の噴火、天明の飢饉、というようなことがあって、最終的に田沼意次の時代は終わることになる。浅間山の噴火のときに、江戸でも灰が降ったことは、たしか記録にもあったことだと覚えているが、実際には、どのようなことだったのだろうか。番組の終わりの紀行のときに、この災害のことでもとりあげるかと思っていたが、そうではなかった。

灰が降って、雨樋がつまらないように防ぐというのは分かることなのだが、屋根瓦を動かしても大丈夫だったのだろうか。この時代、実際に江戸の人たちが、どんなふうに対策を講じていたのか、史料は残っているかと思うが、気になるところである。

灰の降った日本橋の町の様子を、上から俯瞰して撮る、というのはまさに現代の技術ならではのドラマの演出かと思う。

うつせみは無事だったろうか。

降り積もった火山灰を川に捨てて大丈夫だったのだろうか。

最終的に、蔦重は、ていと祝言をあげることになる。これが吉原の座敷での盃ごとであったが、実際はどうだったのだろうか。演出の都合でこういうことになったのかとも思うが、ここは日本橋の丸屋の店であった方が、自然であったような印象でもある。鶴屋が祝いに暖簾を持ってくるのも、同じ日本橋の町内であった方が、自然かもしれない。悪所とされた吉原に、わざわざ祝いの品を持っていくということが、脚本で言いたいことかとも思ったりもするが。

祝言のシーン。ていは白無垢だったが、髪にさしていたかんざしは鼈甲だった。見た目には地味だが、とびっきりの贅沢である。

浅間山の噴火の灰の処理のとき、遊びにする……ということを蔦重は言っていた。これは、このドラマの展開としては重要なキーワードであるにちがいない。そして、私として気になるのは、「遊び」といったときに、『手鎖心中』(井上ひさし)の最後のところの登場人物の台詞が、どうしても思いうかぶ。言うまでもないが、『手鎖心中』は、蔦重の時代の戯作者たちを描いている。このドラマの脚本が、井上ひさしの小説を知らずに書いているとは思えないのだが、はたして、「遊び」ということが、これからどういう意味をもってくるのだろうか。

2025年6月29日記