知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?「AIは人間を超えるか」 ― 2025-07-16
2025年7月16日 當山日出夫
知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!? AIは人間を超えるか
AI研究の現状と問題点を、肯定的な立場からになるが、よくまとめてあったと思う。見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。
番組のなかで、ヘレン・ケラーのことがちょっとだけでてきていた。私は、世の中でパソコンというものが使われ始めたころから使っている。具体的には、NECのPC-9801である。このときから思っていたこととして、もし、ヘレン・ケラーの時代に、コンピュータがあったならば、彼女の活躍の場はもっとひろがっただろう。しかし、サリバン先生がいなければ、どうだっただろうか。そして、コンピュータがあっても、幼い目の見えない耳の聞こえない少女に、WATER、というものを教えることができるのだろうか。このことは、現在のAIの時代になっても変わらない。現在のAIで、同じような障害のある子どもに、WATER、を教えることができるだろうか。
これは、人間がものを知る、学ぶ、その感覚や知識と、身体性にかかかわる根本的な問題につながることだと思っている。
エピソードとして言及してあった、盲目の人が美術館に行くのが楽しみ、と言っているというのは、人間の感性と知性とはなんであるか、深く考えねばならないことになると思うことになる。
今から数十年前のことになるが、いわゆる脳死移植ということが世の中で話題になっていたことがある。このとき、人間が生きているということは何であるのか、という議論がさかんだった。議論のポイントとなったのが、意識があるかどうか、ということだった。脳死の人間は意識がない。意識の有無が、人間が生きていることのあかしである。意識のない人間は死んでいるのと同じである。だから、脳死の人から、臓器を取り出して移植しても、別に問題はない。こういう論理の是非をめぐるものだった。
これは、今、多くの人びとにはどう考えられているのだろうか。もし、AIが意識をもつということを想定できるならば、それは、人間と同じように生きているものと見なすことになる。そのAIを動かしている電源を切ることは、人間に対する殺人と同じことになる。こういう論理をうけいれざるをえなくなる。でなければ、AIの意識と人間の意識は違うものであると考えるか、あるいは、人間が生きていることの基盤を意識とは別のところにもとめることになるのか、である。そうなれば、根本的な、人間観の変革が迫られる。そのための準備、あるいは、覚悟を、今からしておくべきことになるだろう。
言語について、ただ、次に出てくることばを予測しているだけ、これが生成AIの基本である。ここで、LLMやディープラーニングについての簡単な説明があったことになる。
言語が人間の知性を作った。このように考えることもできることになる。だが、同時に、これは古風な構造主義的な言語観ではあるが、言語が世界を分節するという機能(あるいは、そのような現象というべきか)を、どう考えることになるのだろうか。よく知られた例では、言語によって虹の色は違って見える。ある色について、どういう色の名称でいうのかも異なる。物理的、生理的(眼のはたらき)には、色は人閒にとって同じであっても、言語や文化が違うと(これは脳のかかわる)、違った分け方で色を認識している。では、AIは、どのように色を認識しているのだろうか。
知能や意識と身体性ということは、これからさらに考えられていくことになるにちがいない。そして、これは、新しい人間観を生み出すことになる。それが、どういう方向にむかっていくかは、まだ分からないとすべきであるが。
人間について究極的な問いをつきつめていくならば、生命とは何かという問いであり、またそれは、遺伝子、あるいは、脳、というところにいきつくことになるはずである。それをサイエンスの方法論で研究することは可能であるが、では、そのサイエンスの方法論で考えている、その自分自身は、いったい何故そういうことを思っているのか、考えているのか、問いかけなおされるというところがあるにちがいない。
対話AIについて思うことであるが、ことばをかわすということではたしかにハイレベルのものになっている。だが、ここで、私が思っていることは、人間と人間のコミュニケーションでは、沈黙、ということがある。沈黙することによって、相手に伝えることができる、こういうことはたしかにある。では、AIは沈黙によって、何かを伝えるということができるようになるだろうか。
2025年7月13日記
知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!? AIは人間を超えるか
AI研究の現状と問題点を、肯定的な立場からになるが、よくまとめてあったと思う。見ながら思ったことを、思いつくままに書いてみる。
番組のなかで、ヘレン・ケラーのことがちょっとだけでてきていた。私は、世の中でパソコンというものが使われ始めたころから使っている。具体的には、NECのPC-9801である。このときから思っていたこととして、もし、ヘレン・ケラーの時代に、コンピュータがあったならば、彼女の活躍の場はもっとひろがっただろう。しかし、サリバン先生がいなければ、どうだっただろうか。そして、コンピュータがあっても、幼い目の見えない耳の聞こえない少女に、WATER、というものを教えることができるのだろうか。このことは、現在のAIの時代になっても変わらない。現在のAIで、同じような障害のある子どもに、WATER、を教えることができるだろうか。
これは、人間がものを知る、学ぶ、その感覚や知識と、身体性にかかかわる根本的な問題につながることだと思っている。
エピソードとして言及してあった、盲目の人が美術館に行くのが楽しみ、と言っているというのは、人間の感性と知性とはなんであるか、深く考えねばならないことになると思うことになる。
今から数十年前のことになるが、いわゆる脳死移植ということが世の中で話題になっていたことがある。このとき、人間が生きているということは何であるのか、という議論がさかんだった。議論のポイントとなったのが、意識があるかどうか、ということだった。脳死の人間は意識がない。意識の有無が、人間が生きていることのあかしである。意識のない人間は死んでいるのと同じである。だから、脳死の人から、臓器を取り出して移植しても、別に問題はない。こういう論理の是非をめぐるものだった。
これは、今、多くの人びとにはどう考えられているのだろうか。もし、AIが意識をもつということを想定できるならば、それは、人間と同じように生きているものと見なすことになる。そのAIを動かしている電源を切ることは、人間に対する殺人と同じことになる。こういう論理をうけいれざるをえなくなる。でなければ、AIの意識と人間の意識は違うものであると考えるか、あるいは、人間が生きていることの基盤を意識とは別のところにもとめることになるのか、である。そうなれば、根本的な、人間観の変革が迫られる。そのための準備、あるいは、覚悟を、今からしておくべきことになるだろう。
言語について、ただ、次に出てくることばを予測しているだけ、これが生成AIの基本である。ここで、LLMやディープラーニングについての簡単な説明があったことになる。
言語が人間の知性を作った。このように考えることもできることになる。だが、同時に、これは古風な構造主義的な言語観ではあるが、言語が世界を分節するという機能(あるいは、そのような現象というべきか)を、どう考えることになるのだろうか。よく知られた例では、言語によって虹の色は違って見える。ある色について、どういう色の名称でいうのかも異なる。物理的、生理的(眼のはたらき)には、色は人閒にとって同じであっても、言語や文化が違うと(これは脳のかかわる)、違った分け方で色を認識している。では、AIは、どのように色を認識しているのだろうか。
知能や意識と身体性ということは、これからさらに考えられていくことになるにちがいない。そして、これは、新しい人間観を生み出すことになる。それが、どういう方向にむかっていくかは、まだ分からないとすべきであるが。
人間について究極的な問いをつきつめていくならば、生命とは何かという問いであり、またそれは、遺伝子、あるいは、脳、というところにいきつくことになるはずである。それをサイエンスの方法論で研究することは可能であるが、では、そのサイエンスの方法論で考えている、その自分自身は、いったい何故そういうことを思っているのか、考えているのか、問いかけなおされるというところがあるにちがいない。
対話AIについて思うことであるが、ことばをかわすということではたしかにハイレベルのものになっている。だが、ここで、私が思っていることは、人間と人間のコミュニケーションでは、沈黙、ということがある。沈黙することによって、相手に伝えることができる、こういうことはたしかにある。では、AIは沈黙によって、何かを伝えるということができるようになるだろうか。
2025年7月13日記
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