『あんぱん』「勇気の花」2025-08-10

2025年8月10日 當山日出夫

『あんぱん』「勇気の花」

この週から東京編である。視聴率はいいようだが、私は見ていて、面白いと思うところがない。見ながら思ったことなど、書いてみる。

東京に舞台が移るということで、これはドラマの筋書としての区切りになるからなのだろうが、あっという間に5年がたってしまった。

メイコは健太郎と結婚する。

メイコがNHKののど自慢に出るシーンがあった。放送ではなく、予選会である。細かなことかもしれないが、この時代(昭和23年)のころに「NHK」といういいかたが一般的にあっただろうか、とは思う。だが、これは、脚本としては、分かりやすいようにということで作ったと理解しておく。このシーンを見ても感じることなのだが、やはり、この時代の雰囲気というものを感じない。たしかに歌っている歌は、その時代のものなのであるが、映っている人たちの全体の雰囲気になんとなく違和感を感じる。(こういうことは、見る側の感覚の問題といえばそれまでなのであるけれど。)

メイコと健太郎が結婚する前にお互いの気持ちを確認するシーン。見ていて、とても説明的にすぎるという印象がどうしてもある。これは、前の週ののぶと嵩のときにも感じたことである。人間は、自分の相手への気持ちを、このように説明的に語ることがあるのだろうかと思う。なかには、こういう事例があってもおかしくはないのではあるが、ドラマとしては、このように科白の説明で語られてしまうと、非常につまらない。

結婚式は、健太郎の故郷の博多であげた。これはいいとしても、健太郎の家がどんな家なのか、まったく説明がなかった。せめて結婚式の写真ぐらいはあってもよかった。新郎新婦だけでいい。そのかわりに、嵩が描いた絵が出てきていた。描いてあったのは、高知の人びとである。博多の健太郎の家の人はまったく出てきていない。写真のかわりにもってきたという脚本であったことになるが、もう死んでしまった人まで描いてあったのは、どうかなと思う。これを面白いと思って見るか、あるいは、あまりに不自然と思って見るか、意見は分かれるところであろうが、ここは、素直に、メイコと健太郎の新郎新婦の写真でよかったところだと私には思える。

5年たっても、嵩とのぶの暮らしは変わらない。それはいいのだが、その仕事の内容がまったく伝わらない。百貨店の宣伝部というのは、いろんな仕事があったにはちがいないのだが、これまでに出てきていたこととしては、ショウウィンドウのレイアウトと、劇場のポスターののこと、包装紙のこと(これは、たまたま嵩が文字を描くことになったが)だけである。いったい嵩は、どんな仕事をしていたのだろうか。百貨店の宣伝部の仕事がどんなだったか再現するというのは、そんなに考証が大変なことなのだろうか。

のぶの方も、議員秘書としては、スケジュール管理以外にもいろいろとあったはずだが、これもまったく具体的に描かれない。5年たつ間に、日本は、サンフランシスコ講和条約があって、独立をはたす。GHQがいなくなる。だが、それまでとは違った形で、日本政府にかかわってくることになったはずである。また、政党もいろいろと変遷があった時代でもある。そして、朝鮮戦争もある。このような面倒くさいことを、脚本にそれとなく織りこんで描くということは、かなり難しいことかもしれないが、それをはじめから諦めてしまうというもどうかと思う。

こういう世の中の動きを冷静に見る視点として、八木というような存在があってもいいのだが、闇市がなくなってから登場していない。あるいは、NHKのディレクタの健太郎の視点でも、世の中の動きを語ることはできるはずである。しかし、そのようにはなっていない。ここは、脚本の全体的な設計が失敗だったという印象をもつことになる。

健太郎は、ずっとしゃべることばが博多弁である。これは別にかまわないことかもしれない。しかし、NHK(この時代はラジオだけ)のディレクタという仕事をするうえで、方言のままというのは、どうだったのだろうかと思う。そもそも、そんなに簡単にNHKのディレクタになれるものだったのだろうか。このあたりは、NHKの内部に史料が残っているはずのこであると思う。

昭和23年のとき、喫茶店でみんながあつまっているシーンで、出ていた料理はスパゲティのナポリタンだったが、この時代に、そんなに広く普及していただろうかという気はする。別にあっても不都合ではないのだが、このドラマの制作の都合として、喫茶店のセットを一つ作っただけで、そこでなんでも済ませてしまおうという感じはどうしてもしてしまう。ここで、せめて、時代の変化によってメニューが変わってきたというようなことでもあればいいのだが、それもない。(やっと本物のコーヒーが出せるようになった、というようなことがあってもいいと思うのだが、これだと、『カムカムエヴリバディ』の二番煎じということになってしまうかも、であるが。)

中目黒の嵩とのぶの家の食事も、たしかに変化はあるのだが、そもそもが、豪華すぎるという印象がある。この時代、地方の農村の貧困の生活を思うと、とても贅沢をしていたように思えてしまう。都市部でももっと質素だったと思うが。(こういう感覚は、もう今の若い人にはないことかとも思うのだが。)

こういうことをふくめて、このドラマは、意図的に生活感や時代の雰囲気を消そうとしていると思った方がいいのかとも思う。有楽町のガード下の闇市もまったく雰囲気に欠けていたし、中目黒の家もきれいである。住居で生活を出そうと思うと、まず畳だと思うのだが、非常にきれいなままである。

時代の背景を描かない、生活感を描かないという方針であってもいいとは思うのだが、しかし、それで、やなせたかしをモデルにして、戦後の日本の姿を描けるのだろうかという気もする。

手嶌治虫が出てきていたのだが、この時代の漫画は、悪書であった。貸本漫画の時代でもあった。もう少し後のことになるが、街には白ポストがあった時代をむかえることになる。こういう時代の雰囲気をなんとか描こうとしていたのが、『ゲゲゲの女房』だったかと思うが、このドラマの場合はどうなるだろうか。百貨店のつとめをやめて漫画を描いていきたいというのは、今から考えるよりよっぽど冒険的で無茶なことだったと思える。せめて、この時代の漫画本の読者層、流通、世間の評価というようなことを、少しなりとも描いておくべきではないかと思える。

NHKとしては、やなせたかしや手塚治虫の業績をおとしめるようなことは描きたくないということはあるかもしれない。しかし、手塚治虫が偉大なのは、漫画が悪書と見なされた時代にあって、果敢にその表現にとりくんだところにある。その背景を描かないで済ませるというのは、かえって冒瀆的であると私は思うのであるが、どうだろうか。

手嶌治虫は少女漫画にいどむと言っていたが、これは、時代の「良識ある人びと」からすれば、とても見るにたえない、子どもなんかに絶対に見せられない、というものだったはずであるが、どうなるだろうか。

「自由」ということはどうなったのだろうか。戦前に、東京の美術の学校に行った嵩は、高知にとどまっているのぶに、東京(なかでも銀座)には、「自由」がある、と言っていた。これは、重要な科白だと思って見ていたのだが、その後、「自由」ということをめぐってドラマが展開することはないようである。高知の封建的反近代性と、東京にあった「自由」、それは、戦後の日本では、どういう意味を持つものとして、嵩やのぶは認識することになるのか、重要なことだと思うのだが、これもどうなるだろうか。もう、忘れてしまっていいことなのだろうか。

しかし、私には、漫画をめぐる表現の自由と関連して、決して忘れてしまっていい科白であるとは思えない。

2025年8月8日記

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