ETV特集「火垂るの墓と高畑勲と7冊のノート」2025-08-14

2025年8月14日 當山日出夫

ETV特集 火垂るの墓と高畑勲と7冊のノート

見て思うことを率直に書くと……映画『火垂るの墓』は戦争を描いた映画の傑作であり、いかなる批判も許さない、批判してはいけない、というようなことを感じてしまうのだが、かんぐりすぎだろうか。『火垂るの墓』は反戦映画ではない、という言い方に、逆説的な言い方ではあるが、私はそれを感じる。

この番組の作り方で、すこしごまかしていると感じるのが、高畑勲は、原作に忠実に作ろうとしているということを言いながら、その一方で、原作にはない要素を設定していることを、高く評価していることになっている。このことについては、どこまで原作に忠実であり、どの部分が高畑勲が、省略したり、また、加えた部分であるのか、冷静に分析することが必要だろう。

高畑勲が加えた部分は、清太F、という存在である。清太から分離して、その姿を見つめる、また、この映画を見る観客にも眼差しを向ける、霊的な存在、メタな視点、ということになる。これはこれで、高畑勲の映画づくりとして評価されるべきとこであるとは思うのだが、しかし、原作にはなぜこういう視点が無いのか、ということも重要である。

高畑勲が原作からそぎ落としてしまったものがある。それは太平洋戦争(大東亜戦争)の末期から、終戦後にかけての人間の作り出した混沌とした猥雑さである。比喩的にいえば、原作には、臭い、ということを感じる。闇市の、あるいは、駅の通路に横たわっている浮浪児たちの臭い(悪臭といってもよいが)を感じる。

これを高畑勲はあえて描いていない。その代わりに、蛍を印象的に使ってきわめて抒情的な映画にしている。見方にもよるが、蛍の映像は、戦争の犠牲者として、不幸にも亡くなった兄と妹への鎮魂のイメージである。

そして、この蛍のイメージは、野坂昭如が、原作『火垂るの墓』を書いた後、ラストを改編しているのだが、そこの部分にもかかわる。

清太F、メタな視点は、野坂昭如にとっては描くことがなかった。それは、あくまでも、戦争の焼跡の混沌と猥雑のなかに身をおいて、その視点から描くことにこだわったせいだと考えることができる。(作家というのは、その書き手であるということにおいて、すでにメタな視点を自分自身のうちに持って、作品を書いているものである。)この意味では、清太Fという視点を設定した、高畑勲の映画は、原作とはまるで別物になってしまっているということできよう。

無論、このことと、原作の小説としての評価、高畑勲の映画の評価、これは別に考えなければならないことである。だが、この番組のなかで、野坂昭如の原作について、まったく言及がなかったのは、非常に意図的に作った……野坂昭如がこの映画についてどう思っていたか……ということを、排除してあったと思うことになる。この意味では、このETV特集の番組の作り方は、アンフェアである、ごまかしている、ということを感じることになる。一見すると、非常に真面目に作ってあるように見えるのだけれど、きわめて作為的である。

2025年8月8日

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