知恵泉「豊臣秀長・寧々 リーダーを支える!家族の知恵」 ― 2026-01-05
2026年1月5日 當山日出夫
知恵泉 新春SP 豊臣秀長・寧々 リーダーを支える!家族の知恵
これはつまらなかった。『豊臣兄弟!』関連の番組の一つである。目についたものは見る(録画)ことにしているのだが、これは、つまらない部類にいれていいだろう。
ただ、一つだけ面白かったのは、ゲストでスタジオで出ていた黒田基樹……『豊臣兄弟!』の時代考証担当である……が、秀長のことがこれまで知られていなかったのは何故ですかときかれて、それは、研究者の数が少ないからです、と答えていたのは、なるほどそのとおりだと思うし、ここは、同意できる。研究者として、はっきりこういう言い方をする人は、珍ししかもしれない。せいぜい、秀長については、史料・古文書で、残っているものが、秀吉に比べてとても少ない、とういぐらいかと思う。(こういう番組に出てしゃべるのも、ドラマの時代考証の仕事と思う。)
だが、何故、秀吉に関連する古文書は多くあって、秀長に関連するものは少ないのか……これはこれで、興味深い問題だとは思うのだが。文書を発給し、そして、それが残っているということは、それなりの理由があってのことであろう。逆に、残っていないことには、その理由があるはずである。そもそも文書が無かったのか、受け取った側で残さなかったのか、どうなのだろうか。
さりげなく言っていたことだが、秀吉と秀長は、父親が同じ、という説であった。これは、ドラマの時代考証として、こういう設定で作るということになっているからなのだろう。ここは、別に、父親が違っていても、兄弟でちからを合わせて天下をとった、という筋のドラマであってもよかったかもしれない。(むしろ、その方が、現代的には、より「正しい」ドラマになったかとも思う。)
昔のことの再現部分で、秀吉と秀長の家に、障子があったが、これは、どう考えてもおかしい。このての番組で、そう厳密に時代考証する必要はないと思うが、これぐらいは、なんとかしてほしいところである。
同じようなこととしては、秀長が大和の国を治めることになったくだりで、(これまでの多くの番組でもそうだったが)興福寺とか東大寺と言っている。興福寺は、この時代には、春日大社と一体で大規模なものであり、明治の廃仏毀釈の結果、現代のようになった。東大寺も、今見ることのできる大仏殿は、江戸時代になってから再建されたもので、さて、秀長の時代はどうだったのか。このことについて、『豊臣兄弟』関係の番組を見てきて、どの番組でも言っていなかった。分からないなら分からないでいいと思うのだが、少なくとも今の大仏殿ではなかったということぐらいは、ことわりがあってもいいと思う。
郡山のお城の石垣のお地蔵さんは、何度も登場している。別に、このお地蔵さんを映さなくても、郡山城の築城については、語ることは多くあると思うのだ、どうなのだろうか。まあ、逆さまになったお地蔵さんは、絵になることはたしかなのであるが。
秀長が奈良でおこなったこととして、奈良貸し、がある。これは、いくども言及されていることなのだが、これは、(古めかしいことばをつかうが)人びとに対する苛斂誅求の支配というべきか、あるいは、(今風のことばをつかえば)民間に資本投資というべきか、経済史などの分野では、どう考えられているのだろうか。
木綿と藍染めのことが出てきていたが、まだ、この時代としては、いわゆる「木綿以前の事」(柳田国男のいう)であって、むしろ触れておくべきは、奈良晒といわれる麻の方かもしれない。これも特産品となるのは、江戸時代以降のことだとは思うが。
ところで豊臣政権が長続きしなかったのは、ふさわしい後継者がいなかったからということが大きな一因であるはずだが、ありていに言ってであるが、なぜ、秀吉は側室を多く持たなかったのだろうか。そんな暇はないほど忙しかったのか。寧々が、許さなかったのか。ドラマとしては、どう描くことになるかは、難しいところかもしれない。前近代としては、後継者のために側室がいて、ということは、ごく当たり前のことだったはずであるが。
2026年1月4日記
知恵泉 新春SP 豊臣秀長・寧々 リーダーを支える!家族の知恵
これはつまらなかった。『豊臣兄弟!』関連の番組の一つである。目についたものは見る(録画)ことにしているのだが、これは、つまらない部類にいれていいだろう。
ただ、一つだけ面白かったのは、ゲストでスタジオで出ていた黒田基樹……『豊臣兄弟!』の時代考証担当である……が、秀長のことがこれまで知られていなかったのは何故ですかときかれて、それは、研究者の数が少ないからです、と答えていたのは、なるほどそのとおりだと思うし、ここは、同意できる。研究者として、はっきりこういう言い方をする人は、珍ししかもしれない。せいぜい、秀長については、史料・古文書で、残っているものが、秀吉に比べてとても少ない、とういぐらいかと思う。(こういう番組に出てしゃべるのも、ドラマの時代考証の仕事と思う。)
だが、何故、秀吉に関連する古文書は多くあって、秀長に関連するものは少ないのか……これはこれで、興味深い問題だとは思うのだが。文書を発給し、そして、それが残っているということは、それなりの理由があってのことであろう。逆に、残っていないことには、その理由があるはずである。そもそも文書が無かったのか、受け取った側で残さなかったのか、どうなのだろうか。
さりげなく言っていたことだが、秀吉と秀長は、父親が同じ、という説であった。これは、ドラマの時代考証として、こういう設定で作るということになっているからなのだろう。ここは、別に、父親が違っていても、兄弟でちからを合わせて天下をとった、という筋のドラマであってもよかったかもしれない。(むしろ、その方が、現代的には、より「正しい」ドラマになったかとも思う。)
昔のことの再現部分で、秀吉と秀長の家に、障子があったが、これは、どう考えてもおかしい。このての番組で、そう厳密に時代考証する必要はないと思うが、これぐらいは、なんとかしてほしいところである。
同じようなこととしては、秀長が大和の国を治めることになったくだりで、(これまでの多くの番組でもそうだったが)興福寺とか東大寺と言っている。興福寺は、この時代には、春日大社と一体で大規模なものであり、明治の廃仏毀釈の結果、現代のようになった。東大寺も、今見ることのできる大仏殿は、江戸時代になってから再建されたもので、さて、秀長の時代はどうだったのか。このことについて、『豊臣兄弟』関係の番組を見てきて、どの番組でも言っていなかった。分からないなら分からないでいいと思うのだが、少なくとも今の大仏殿ではなかったということぐらいは、ことわりがあってもいいと思う。
郡山のお城の石垣のお地蔵さんは、何度も登場している。別に、このお地蔵さんを映さなくても、郡山城の築城については、語ることは多くあると思うのだ、どうなのだろうか。まあ、逆さまになったお地蔵さんは、絵になることはたしかなのであるが。
秀長が奈良でおこなったこととして、奈良貸し、がある。これは、いくども言及されていることなのだが、これは、(古めかしいことばをつかうが)人びとに対する苛斂誅求の支配というべきか、あるいは、(今風のことばをつかえば)民間に資本投資というべきか、経済史などの分野では、どう考えられているのだろうか。
木綿と藍染めのことが出てきていたが、まだ、この時代としては、いわゆる「木綿以前の事」(柳田国男のいう)であって、むしろ触れておくべきは、奈良晒といわれる麻の方かもしれない。これも特産品となるのは、江戸時代以降のことだとは思うが。
ところで豊臣政権が長続きしなかったのは、ふさわしい後継者がいなかったからということが大きな一因であるはずだが、ありていに言ってであるが、なぜ、秀吉は側室を多く持たなかったのだろうか。そんな暇はないほど忙しかったのか。寧々が、許さなかったのか。ドラマとしては、どう描くことになるかは、難しいところかもしれない。前近代としては、後継者のために側室がいて、ということは、ごく当たり前のことだったはずであるが。
2026年1月4日記
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_ (未記入) ― 2026-01-05 10時57分11秒
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秀吉は信長配下だったときに大ポカをしでかし追放一歩手前までいったところ、信長の子を養子にすることで難を逃れた(「将来的に秀吉の所領を織田家に渡す」という表現でした)という経緯があったそうなので、自分の血筋を多く残すことで信長から疑いの目をつけられるのを恐れたのではという考えが思い浮かびました。