よみがえる新日本紀行「土と踊りと -岐阜県郡上郡八幡町-」 ― 2026-09-03
2026年9月3日 當山日出夫
よみがえる新日本紀行「土と踊りと -岐阜県郡上郡八幡町-」
再放送である。2019年。オリジナルは、昭和46年(1971年)。
見ていて感じることは、何よりも踊りを踊っている人たちの表情がとてもいい。一昔前の日本人の顔……こういう言い方しかできないのだが、今では、もう見ることができなくなってしまったものかと思う。いや、現代の部分でも、踊っている人たちの表情は魅力的である。しかし、見くらべると、昔の映像の人たちの方が、より親しみと懐かしさを感じる。
昭和46年というと、私が、高校生のころのことになる。この時代の日本の風景である。8月のお盆のころになって、故郷にみんな帰ってくる。都会に出て行った人も、故郷に帰る。このころは、まだ、帰る故郷が多くの人たちにあった時代だった、というべきかもしれない。
小学校で踊りの練習を、体育の授業としてやっている。この映像を見ると、裸足のこどもたちが、かなりいる。裸足で地面の上を歩く、踊る、走る……こういうことも、今の時代に消えてしまったことの一つである。
踊りのときに、多くの人が下駄を穿いている。下駄で踊るというのは、ちょっと難しいはずだが、その姿がさまになっている。これは、現代でも、受け継がれていることのようである。
踊りの人びとの中を、白い大きな紙に、駐車場の車の中で泣いている子供がいると書いてあるく。その文字を見ると、「子供が空車でないてゐます」と旧仮名遣いで書いてある。昭和46年まで、こういうことが普通にあった。日本語の表記の歴史としても、とても興味深い。
雑談の中で言っていたことだが、旅の途中で、見知らぬ人の家であっても泊まらせてくれと言うことができたし、また、そういう人がいたら泊まらせてあげる、ということだったらしい。こういうことも、今の時代で、消えてしまったことである。(かつて、宮本常一が日本を旅して歩いていたころ、夜の宿が決まっているわけではなく、適当な家を見つけて泊まらせてもらった、という。小沢昭一がラジオで思い出話として語っていたのを憶えている。小沢昭一が驚いたと言っているぐらいである。だが、そういう生活の感覚が、少し前までの日本の生活のなかにはあった。)
昔の一揆の慰霊碑。人名がま~るく円になるように書いてあった。順番をつけない、序列をつけない、全員が平等(といっても、現代的な平等の意識とはちょっと違うかもしれないが)ということの表現である。これが、この慰霊碑を作ったときまで、人びとの意識としてあったということになる。
昔の踊りの映像を見ると、観光客がいない。そして、全体に暗い。現代だと、観光客がたくさんいて、街の全体が明るい。
記念撮影の場面で使っていたカメラは、バイテン、つまり、8×10、だったと思うが、この時代に普通に使っていたということになるのだろうか。私の小学校のころだと、シノゴ、つまり、4×5、がほとんどだったと記憶する。
2026年8月26日記
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