こころの時代「ファンタジーに秘められた宗教 (6)『火の鳥』『風の谷のナウシカ』」 ― 2026-09-16

2026年9月16日 當山日出夫

こころの時代「ファンタジーに秘められた宗教 (6)『火の鳥』『風の谷のナウシカ』」

釋徹宗が言うように、宗教学を学生に講じるとき、現代のサブカルチャー、特に、漫画やアニメなどを題材に話をするというのは、普通にあることだろう。これは、特に宗教について語るにとどまらず、現代の日本の文化について語るときに、漫画やアニメを題材にしてということは、よく行われていることである。

この「ファンタジーに秘められた宗教」は、ずっと見てきている。だいたいの決着というか、落としどころとしては、日本の古来からの汎神論的アニミズムとでもいうしかない、宗教感覚、霊的な感性、これと大きく齟齬しないようにもっていっているということになるかと思っている。この番組のシリーズの中では、使っていなかったかと思うが、これは、天台本覚思想ともかかわることになるだろうし、日本の宗教史の大きな問題でもある。

だが、なんでもかんでも、大風呂敷の汎神論的アニミズムに取り込んで説明してしまおうというのも、はたして、どうなのだろかという気はある。

『火の鳥』は、我が家に揃っている。手塚治虫の主な作品は、子どもたちが小さいときに、こういうのは読んでおいていいだろうと思って、買って揃えて本棚においてある。

『火の鳥』は、どちらかといえば、唯一絶対神ということに近いのかもしれない。だが、これを、どう薄めて(?)、日本的な感性で描くか、ということになっているかと思える。

日本的な宗教的な感性と、折り合いが悪いのが、唯一絶対神、ということかと思う。そして、終末思想だろうか。ここのところで折り合いをつけるとすると、輪廻転生からの解脱、になるだろうか。

絶対の善とか、絶対の悪とか、こういうことは、むしろ具体的な事例……たとえば、ヒトラーとか、スターリンとか、トランプとか、プーチンとか、エプスタインとか、統一教会とか、(どれをイメージするかは、人によってちがうだろうが)から、どう距離をおいているか、否定的になるか、ということでし感じとれないのが、現代の日本の「正しさ」の感覚といっていいだろうか。唯一絶対の神にもとづく善ということがいいにくいとなると、このごろいわれるようになったこととしては、今の世の人間の共同体に基盤をおく共通善、ということになるのだろう。

共通善にもとづく宗教的な感性が、これからの時代にどうなっていくのか、大きな課題というべきだろうか。

そこであらためて考えてみると、日本においては、汎神論的アニミズムが自己と世界の調和をはかるものとして、意識的にせよ、無意識的にせよ、おおきくはたらいているといっていいかと思う。ただ、一般には、それを日本の宗教として見ようとはしない(思想史的な面では)ということになるのかもしれない。民俗学的な視点からは、視野にはいってくるかとは思うが。

2026年9月10日記

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