斉藤功を聞きに行ってきた2019-11-28

2019-11-28 當山日出夫(とうやまひでお)

斉藤功

ある縁があって、斉藤功のコンサートに行ってきた。

斉藤功は、ギター奏者、それも、演歌ギターの名手として知られている。そのCDもいくつか私は持っている。特に、自動車の中で運転しながら聞くのにいい。ギターの音色が、自動車のエンジン音にまぎれることがない。そして、その演奏は、運転しながら聴いていて、邪魔にならない。これは、CDをMP3にに変換して、SDカードにいれたものを聞いている。

二〇〇人ほどの観客であったろうか。ただ、集まった観客の年齢層は、かなり高い。コンサートのはじまりは、懐かしの映画音楽から、ということであったのだが……「太陽がいっぱい」「禁じられた遊び」「鉄道員」……このあたりの選曲からして、だいたいの年齢層がわかろうというものである。

そういえば、これらの曲は、私が高校生のころ、ラジカセ、いや、その前に使っていた、AM・FMラジオ(もちろんモノラル)で、聞いた記憶がある。

印象にのこっているのが、バイオリンを弾いていた女性……かなり若い女性であった……が、実に楽しそうな表情で、演奏していた。無論、その演奏もうまかったのだが、それよりも、演奏を楽しんでいる感じの顔の表情がよかった。コンサートを楽しんでいるという雰囲気が伝わってきた。

二時間弱の時間だったろうか。久々で、生の楽器の演奏を聴いて時をすごした。楽しい時間であった。

中島みゆきにおける挫折した人生2018-01-06

2018-01-06 當山日出夫(とうやまひでお)

私のWalkmanとiPodには、中島みゆきのCDは全部はいっている。ほぼ毎日のように聞いているといってよい。中島みゆきの歌については、いろいろ言うことができるだろう。

いくつか分析する切り口があると思うが、ここで書いてみたいのは、「挫折した人生」という観点である。(すでに、どこかでだれかが書いていることかもしれないが。)

最新のアルバム『相聞』にある「慕情」。非常に抒情的な作品である。この歌をきいて、また、同じアルバムにある「小春日和」をきいて、中島みゆきは、現代におけるすぐれた叙情歌人であると思う。

が、それとは別に、「慕情」では次のような歌詞である。

「もいちどはじめから もしもあなたと歩きだせるなら/もいちどはじめから あなたに尽くしたい」

http://j-lyric.net/artist/a000701/l041eed.html

ここで歌われているのは、「挫折した人生」を悔悟する心情である。同じアルバムの「小春日和」もまた同様に、かつての人生を振り返って、なにがしかの後悔の念をいだいている心情をうたっている。

このような人生の「挫折」というような心情は、初期の中島みゆきにすでに見られる。たとえば、「おまえの家」などは、ミュージシャンとして生きていくことに「挫折」した友達を訪問している。また、「永遠の嘘をついてくれ」もまた、「挫折」して日本を離れてしまった友……それは、今、ニューヨークにいるのかもしれないし、上海にいるのかもしれない……に呼びかける歌である。

中島みゆきは、失恋ソングの歌手というイメージがつよい。だが、視点を変えてみるならば、失恋もまた、ある意味で人生の「挫折」である。

そして、場合によるとその人生の「挫折」はきわめて政治的なメッセージをともなうこともある。「パラダイス・カフェ」に出てくる「カレンダー」は、なぜ「60年」なのだろうか。1960年といえば、安保闘争の年である。そして、この事件もまた、日本社会の大きな「挫折」であるともいえる。

また、「パラダイス・カフェ」の「永遠の嘘をついてくれ」も「阿檀の木の下で」も、ほとんどプロテストソングと言ってもいいかもしれない。

このような理解は、かなり強引であるかもしれない。だが、中島みゆきの歌の多くが、「挫折」した人生、過去をふりかえり、共感し、そしてそれを、非常に抒情的に歌っている。私は、中島みゆきの歌に、「挫折した人生」「挫折した過去」を抒情的なそして暖かなこころで振り返って歌う、歌人の姿を見る。挫折した人生をもつものへのやわらかなまなざしがあると感じる。

「挫折した人生」によりそう歌として、印象にのこるのは「風にならないか」である。このような歌の聴き方は、あまりに文学的であろうか。

『椰子の実』の歌詞を誤解していた2017-05-20

2017-05-20 當山日出夫(とうやまひでお)

私は、どうやら『椰子の実』(島崎藤村)の歌詞を誤解していたようだ。

NHKの朝ドラ「ひよっこ」を見ている。その中で、コーラスのシーンがある。今週は、『椰子の実』が歌われていた。

ヒロイン・みね子の働くような職場で、合唱がおこなわれていたことの背景については、すでに書いた。

やまもも書斎記 2017年5月19日
『うたごえの戦後史』河西秀哉
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2017/05/19/8565235

この放送では、歌詞もでていたのだが、次の箇所、

「おもいやる やえのしおじお」

この「しおじお」は、「汐々」であった。ここを、私は、てっきり、「汐路を」であると思ってこれまで聞いていた。

海岸にたどりついた椰子の実が、これまではるばる旅をしてきた海の道について思いをはせているのだとばかりおもっていた。これは、誤解だったようだ。(強いていえば、「汐々」であっても、「汐路を」であっても、そんなに意味は変わらないかもしれない。)

WEBで確認してみると、「汐々」となっている。

椰子の実
http://www.worldfolksong.com/songbook/japan/yashinomi.htm

この曲、自動車のなかで聞くことにしているCDにもはいっている。薬師丸ひろ子が歌っている。アルバム「時の扉」に収録。これを、MP3にして、SDカードにいれて、自動車のなかで聞いたりしている。

たぶん、この他にも誤解している歌詞はたくさんあるのだろうが、たまたま気付いたので書き留めておいた次第である。

『うたごえの戦後史』河西秀哉2017-05-19

2017-05-19 當山日出夫(とうやまひでお)

河西秀哉.『うたごえの戦後史』.人文書院.2016
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b241570.html

NHKの朝ドラ「ひよっこ」を見ている。ヒロイン・みね子たちの勤める工場には、合唱部がある。これには、社員は、なかば自主的に、なかば強制的に参加させられるようである。

はじめてみね子たちが、会社にやってきた時には、歓迎のコーラスがあった。「手のひらを太陽に」だった。それから、みね子たちも参加してうたっていた。ここでは、「トロイカ」が歌われていた。

私の世代(昭和30年生)では、さすがに、歌声喫茶の体験はないのであるが、しかし、歴史的な知識としては、そのようなものがあったことは知っている。番組でも、ナレーションで説明があった。

戦後、多くの「日本人」「国民」が歌をうたっていたといえるだろう。もちろん、学校での音楽の授業の延長ということもあるのかもしれないが、それだけではなく、職場などを単位として合唱団を組織するということが、ひろくおこなわれていた。

この本は、このような戦後の日本の合唱のありかたをあつかった本。

私が注目したのは、次の二点になる。

第一には、戦後の合唱ブームとでもいうべきものは、戦後になってから作られたものではなく、戦前からの連続性があるという指摘。太平洋戦争中、日本国民の一体感を高めるために、合唱がよくおこなわれていたという。この側面、戦前からの連続性のうえに、戦後の合唱をとらえる視点というのは、重要だと思う。

第二には、戦後の合唱の隆盛には、下から自然発生的に生まれた側面と、逆に、上から組織してつくった側面と、両方があるという指摘。これも、いわれてみれば、なるほどと納得のいくことである。ただ、自発的に始まったというものではないようであるし、同時に、上からの命令だけで組織されたというものでもない。両方の動きが相まって、合唱ということがおこなわれた。

本書の帯には、「民主主義はうたごえに乗って」とある。まさに、戦後日本の民主主義……みんなで共同してひとつの仕事をなしとげる……は、合唱に象徴されるといってもいいかもしれない。

以上の二点が、私が読んで特に気になったところである。そのほか、本書には、「うたごえ運動の歴史」とか「おかあさんコーラスの誕生」など、興味深い考察がなされている。

うたごえ運動……これはなにがしか左翼的なものではあるのだが……において、日本にもたらされたものとして、ロシア民謡がある、とある。「ひよっこ」でも、職場の合唱団では、「トロイカ」を歌っていたのを思い出す。番組のナレーションでは、シベリア抑留からの帰還者が、日本にもたらしたと説明があった。

日本でロシア民謡が人びとの合唱曲としてうたわれてきたその背景には、歴史的な背景があることがわかる。「トロイカ」は、私の子どものころ(小学校のころ)、よく耳にした記憶がある。この曲が日本で歌われる背景があることを知ってみると、いろいろ感慨深いものがある。

さて、今、合唱はどうなっているだろうか。学校を単位としての合唱はいまだにつづいている。コンクールもある。だが、その一方で、音楽の享受という面では、限りなく「個」にちかづいているともいえそうである。iPodやスマホなどでひとりで聞く音楽が、今の音楽の聴き方の主流であろう。

この本は、合唱というものについて、それなりの歴史があるということを教えてくれるいい仕事であると思っている。

中島みゆき「Why & No」に見る抵抗の精神2017-02-11

2017-02-11 當山日出夫

中島みゆきが昨年(2016)に出した二枚のアルバム。

中島みゆき・21世紀ベストセレクション『前途』

中島みゆき Concert 「一会」 2015~2016 - LIVE SELECTION -

たしか同時期に発売であったと記憶する。同じときの発売だから、選曲にはそれなりの工夫があるはずである。入っている曲をみてみると、基本的には重複しない。ライブアルバムの方は、これまでに出したライブアルバムとも重複は避けているようだ。

ところが、二曲、この二枚のアルバムに共通して入っている曲がある。

「麦の唄」と「Why & No」である。

このうち、「麦の唄」は、近年の中島みゆきの代表作といってもいいだろう。NHKの朝ドラ「マッサン」の主題歌である。その年の紅白で、歌っていたのを見た(録画であるが)。だから、この曲が重複してはいっていることは、それなりに理解できる。

が、もう一つの曲「Why & No」である。なぜ、この曲が、ベスト版と、ライブ版と、両方に入れてあるのか……私なりに感じたところを述べてみたいと思う。それは、中島みゆきの、現代という時代における「抵抗の精神」である、と。

「Why & No」は、この世の理不尽を黙ってやりすごすことができない気持ちを歌っている。

http://j-lyric.net/artist/a000701/l0384d3.html

歌詞の一部を引用してみると、

「もしかして世の中が正しいものかもしれないなんて
”正しい他人”なんて あるもんか」

これは、中島みゆきが若いときに歌った「時代」と対極に位置する。かつて「時代」では、このように歌っていた。

http://j-lyric.net/artist/a000701/l003c2f.html

「そんな時代もあったねと
いつか話せる日がくるわ」

「だから今日はくよくよしないで
今日の風に吹かれましょう」

いまはつらい、苦しい。しかし、未来には希望がもてる。そんな時代の気分を歌っていた。だが、21世紀になって、「Why & No」では、未来への希望はもはやない。あるのは、今現在の時代の理不尽に対する、いきどおりである。どうしようもない、絶望的な感情といってもよいかもしれない。いまは、不遇の時代である。だが、その時代の中にあって、流されるままにあるのではなく、なぜ、「No」と言わないのか……

個人的な感想を記せば、この曲を聴いて、私の脳裏に思い浮かぶのは、電通の過労死事件である。過酷な労働環境のなかで、彼女は、なぜ、「No」と言えなかったのだろうか。言えばいいじゃないか。「No」と言えばいいのである。どうして、言えないのか。あるいは、言わないのか。

死んでしまった犠牲者の、いや、あの事件以外に報道されないだけで、多くの過酷な条件のもとの生きざるをえない、あるいは、死んでしまった人たちが多くいるにちがいない。そのような人びとの鬱積した気持ちの裏側にあるものを代弁しているように、私は聞くのである。

曲の雰囲気もまったちがっている。かつての「時代」のときは、ギターの弾き語りであった。それが、「Why & No」では、ロックになっている。もはやギターの弾き語りで歌うような内容ではない。激しいリズムを何かにぶつけるような方向でしか表現できないのかもしれない。

うがちすぎた感想かもしれないが、「Why & No」を聞くたびに、上に記したような感慨を抱いている。この歌こそが、かつて「時代」のヒットで世に出た中島みゆきの、21世紀の現代における「抵抗の精神」である。

由紀さおり『あなたと共に生きてゆく』2016-09-14

2016-09-14 當山日出夫

漱石の『猫』の苦沙弥先生は、寝るときに必ず本をもっていくらしい。私も昔は、そうしていた。今から考えれば若いときのことである。今では、本のかわりにKindleをもっていくようになった。Kindleの方が、文字がおおきいし、眼鏡をはずしても読める。逆に、眼鏡をかけていると、もう本が読みづらくなってきた(老眼である)。そのKindleも、最近ではあまりつかわないで、カバンにいれっぱなしになっている。で、何をもっていくかというと、Walkmanである。

そのWalkmanで、最近、毎晩のようにきいているCD。しかし、WalkmanでCDをきくというのも無くなっている。CD用Walkmanは、昔は持って使っていたが、いまではもう無い。全部メモリのタイプになってしまっている。だから、厳密には、持っているCDを、パソコンを使って、Walkmanに入れた音楽、ということになる。なお、ファイルの形式は、FLACを使ってる。

このところ、聞いているのが、

由紀さおり『あなたと共に生きてゆく-由紀さおり テレサ・テンを歌う-』
http://www.universal-music.co.jp/yuki-saori/products/upcy-7149/

である。

今の時代である。オンラインでもダウンロードできる。これは、ハイレゾもある。
http://mora.jp/package/43000006/00600406779915/

一昨年(2015)、テレサ・テンが亡くなって20年。それを記念してか、いくつかのCDが出たりした。私もCDを買ったりもした。だが、今ひとつ好きになれないでいた。

たしかに日本語の歌としてうまいのであるが……やはり、どこか無理をしているような印象……母語ではない日本語で歌っていることの無理……が残ってしまう。そのなかでは、かなり以前に買ってあったCDだが、鄧麗君の名前で歌っている『淡々幽情』は好きで時々聞いていた。(中国古典文学の「詞」にメロディをつけて歌っているものである。もちろん、中国語で。)

テレサ・テンの歌は、日本の歌謡曲の歴史のなかにあって、その正統な位置にあると思う。ただ、それを、日本語を母語としない歌手が歌うことによって、かろうじてなりたっていたものであったのかもしれない。

ところで、そうこうしているうちに、最近でたのが上記の由紀さおりのアルバム。なんで知ったか忘れてしまったが、たまたまWEBで見つけて買った。(このごろ、CDを買うのにCD屋さんに行くことも無くなってしまっている。)

これはいいと思っている。

収録曲は、
・時の流れに身をまかせ
・つぐない
・スキャンダル
・別れの予感
・恋人たちの神話
・空港
・夜のフェリーボート
・ふるさとはどこですか
それから、
・あなたと共に生きてゆく(これは、故・テレサ・テンと一緒に歌っているという構成に作ってある。)
・つぐない(これは、ほんとに蛇足だと思う。由紀さおりが中国語で歌っている。こんなことしなくていいのに。)

テレサ・テンの歌……日本における歌謡曲……その歌の魅力を最大限に表現しているのが、この由紀さおりのアルバムであると思う。しっとりとおちついた大人の女の魅力を感じさせる。これはおすすめと言っていいと思う。

波多野睦美「月の沙漠」2016-07-25

2016-07-25 當山日出夫

波多野睦美.『月の沙漠-日本のうた-』(2014)
http://www.dowland.jp/cdinformation/cd.html

このごろ、寝るときに聴くことにしているCDである。(厳密には、CDを聴くのではなく、WalkmanにFLACでコピーしたものを聴いているのだが。)

なんとも、格調の高い、そして、叙情的な「月の沙漠」であることよ……と思って聴いている。おそらく、ほとんどの人……あえて日本人といっておくのだが……であれば、知っている曲。それを、正統なクラシックの歌唱でうたいながらも、格式張ったところがない。ごく自然に、耳にはいってくる。やさしい情緒がある。

波多野睦美が日本の歌をうたったCDとしては、

波多野睦美.『美しい日本の歌』

がある。これは、最初出たときは、CCCDだった。近年、通常のCD版がでたので、これも買ってWalkmanにいれてある。

重複する曲がいくつかある。「ちんちん千鳥」「城ヶ島の雨」など。聞き比べてみると……このような言い方が適切であるかどうか自信はないのだが、年を経て、年齢をつみかさねていった、成熟といってもいいだろうか……が、感じられる。『月の沙漠』に収められている方が、はるかに、しっとりと落ち着いた情感がある。

たぶん、伴奏が、ピアノ(野平一郎)から、ハープ(西山まりえ)にかわったことも影響しているのかなと思ったりするが、それよりも、本人(波多野睦美)の歌唱が、年を経て、より落ち着いた感じのものになっている。

なんといえばいいのだろうか……クラシック音楽の歌唱として、ユニバーサルな美を追究しながら、そのなかに自然と、ローカルなもの……これを日本的といってしまってもいいのか思うが……が、にじみ出てる感じなのである。意図的に、いわゆる日本情緒を強調しようとした感じはしない。そうではなく、ごく自然に歌った結果が、そうなっている、といえばいいだろうか。

『月の沙漠』は、「蘇州夜曲」からはじまる。この曲、その曲のなりたちからして、中国的な情感と日本的な情緒をミックスしたようなところがある。それを、ふくみながらも、ユニバーサルな美しさを感じさせる歌になっている。

このようなことは、「庭の千草」にいえる。もとは、アイルランド民謡。外国の曲であるが、日本でしたしまれている。それを、日本的な要素をまじえつつも、原曲をどこか感じさせる。

そして最後に、「アカシアの雨がやむとき」。この歌、いろんな歌手がうたっている。もちろん、オリジナルは、西田佐知子。それはわかっているのだが、この波多野睦美版の「アカシア…」は、凛とした気品のある歌になっている。そして、情感もある。

月並みないいかたであるが、美しい日本語の歌、という言い方がこのCDにはぴったりとくると感じている。

中島みゆき「霙の音」2016-06-26

2016-06-26 當山日出夫

中島みゆきのアルバム『組曲』(Suite))については、すでに言及した。

やまもも書斎記:中島みゆき「36時間」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/20/8115592

このアルバム『組曲』(Suite)のなかには、もうひとつ気にいっている曲がある。『霙の音』である。

中島みゆき……もし、シンガーソングライターにならなかったら、時代がもうすこしはやかったら、歌人か小説家になっていたかもしれない、という意味の発言をどこかで目にしたことがある。(何であったかは忘れてしまったが。)

初期の作、(70~80年代)ぐらいの作品を見ていくと、短編小説をおもわせるような作品がいくつかある。『まつりばやし』(『あ・り・が・と・う』)、『おまえの家』(『愛していると云ってくれ』)、『蕎麦屋』(『生きていてもいいですか』)、等々。

そのなかで、心境小説的な作品、孤独な絶望感をリリカルにうたいあげた作品として、『肩に降る雨』(『miss.M』)が、その極北に位置するものと、私は感じている。

『霙の音』も、これに匹敵するぐらいの、いやそれ以上の凄絶さを感じさせる作品になっている。この歌に表現されているものは、何といえばいいのだろうか。悲しみ、さびしさ、せつなさ、といった諸々の感情を、極言にまでつきつめていったいったところで、ふと自分をみつめてみたときにうまれる、ある種のむなしさのようなものといってよいであろうか。絶望といってもよい。

絶望的な感情を歌ったものとしては『うらみます』(『生きていてもいいですか』)がある。これは感情がストレートである。こころの叫びともいえる。だが、この『霙の音』の絶望は、屈折している。

かつての『肩に降る雨』のときには、最後に希望の光を感じることができている。しかし、『霙の音』には、もはやすくいがない。ただ、「みぞれのおと」が聞こえてくるだけである。絶望の絶唱、あるいは、ささやき、といってよい。このような絶望を叙情的にうたった歌をほかに知らない。そして、このすくいのない作品を、さりげなくアルバムのなかにいれている中島みゆきは、やはりすごいとしかいいようがない。

中島みゆき「36時間」2016-06-20

2016-06-20 當山日出夫

このところ、毎晩、聴いている曲がある。中島みゆき「36時間」である。

寝るとき、Walkmanをもっていくことにしている。以前は、Kindleをもっていっていた。それより以前は、紙の本であった。これも最近では、Kindleで本を読むよりも、Walkmanで音楽を聴いていることの方が多くなってきている。

最近のお気に入りは、中島みゆきのアルバム『組曲』(2015)。特に、その冒頭におかれた「36時間」がいい。一日が「24時間」ではなく「36時間」と歌ったこの曲、一日の最後に、じっくりと聴くと気分がやすまる。

中島みゆきのCDのほとんどは持っているつもりでいる。基本的に好きなのは、1980年代のころ。孤独な悲しみを歌った曲の数々が好きである。そのようなCDを、(実際には、WalkmanにFLACでコピーしたものであるが)を、自分の部屋で一休みするようなときには、よく聴いている。しかし、自動車のなかでは、あまり聴かない。(運転しながら聴くには、向いていないと感じる。)

最近、といっても、ここ10年ぐらい、あまりいいCD(アルバム)が出ないなあと思っていた。(このあたり、人による好みの違いはあるだろうが。)ここしばらくのロック調のものは、あまり聴いていない。(持ってはいるのだが。)

去年(2015)発売になったアルバム『組曲』……ひさびさにしっとりと落ち着いた感じの曲調の作品を中心に構成してある。どの曲もいいと思うのだが、特に「36時間」が気に入っている。一日のおわり、今日も一日が終わったなと寝るときになって、じっくりと聴く。

歌の世界で語ってくるほどに、「おいつめられた」生活をおくっているとは思ってもいないのだが、それでも、このように語りかけられると、つい耳をかたむけたくなってしまうというのは、やはり、今の生活にどこか、落ち着きのないところがあるせいかもしれない。そんな思いをかみしめながら、毎晩、寝る前に「36時間」を聴くのである。

70年代、ギターの弾き語りでデビューした中島みゆき、その成熟したすがたがここにあると私は思う。

『夫婦善哉』あれこれ2016-06-16

2016-06-16 當山日出夫

『夫婦善哉』について、思いつくまま書いてみたい。

NHKの土曜日『トットてれび』を見ている。森繁久弥がでてくる(吉田鋼太郎)。この時代の、つまり、テレビの草創期の森繁久弥といえば、たぶん、『夫婦善哉』(映画)かなと思って見ていたりした。

では、『夫婦善哉』といって、ひとは何をまず思い浮かべるだろうか。ふと、小説を読んでおくべきだと思って、読んでみることにした。

(1)織田作之助の小説『夫婦善哉』(初出は、昭和15年。)
小田作之助.『夫婦善哉』(岩波文庫).岩波書店.2013
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/31/9/3118520.html

(2)これは、映画『夫婦善哉』で有名になった作品であると認識している。森繁久彌・淡島千景、豊田四郎監督、昭和30年(1955年)。

(3)NHKのドラマ『夫婦善哉』も最近のものとしてある。森山未來・尾野真千子、平成25年(2013年)。
http://www6.nhk.or.jp/drama/pastprog/detail.html?i=meotozenzai

(4)石川さゆりの歌っている『夫婦善哉』も思いうかぶところである。昭和62年(1987年)。

私の場合、(2)の映画(1955)は見ていない。

(1)については、岩波文庫で読んだ。読んでみての感想としては……

まず、大阪の小説だな、という印象。大阪を舞台にした小説といえば、『細雪』(谷崎潤一郎)を思い浮かべるが、この作品は、それとは違う大阪を描いている。もっと庶民的な猥雑な世界である。

ただ、私個人にしてみれば、あまり大阪の街にはなじみがない。知っている街といえば、京都と東京ぐらいである。

戦前の大阪の街の風俗とはこんなものだったのか……と、いろいろと興味をひかれるところがある作品である。とはいえ、小説として面白いかどうかとなると、正直いってあまり面白いとは思わなかった。

それよりも、今の私にとっては、先年放送した、(3)のNHK版『夫婦善哉』のドラマのイメージが強すぎるので、「ああ、あのシーンは、もとの小説では、こんふうに書いてあったのか」と逆の方向で、納得するようなところが多い。ドラマの中での食事シーンや、いとなんでいる店のシーンは、印象的な場面が多かったが、それがどのように原作の小説で出てくるかも興味深い。

このドラマ、気にいって、録画して見て、たしか2~3回は繰り返して見た記憶がある。

それから、(4)の石川さゆりの『夫婦善哉』の歌である。これは、私のお気に入り。そんなに多く石川さゆりのCDを持っているというわけではないが、持っている中では一番気にいっている曲といっていいのではないだろうか。

石川さゆり『夫婦善哉』たぶん、時期的なことを考えれば、(2)の映画版『夫婦善哉』のイメージがもとになっているのだろうと推測する。しかし、そのようなこととは独立して、歌として聞いていて、非常にいい。石川さゆりの歌の特徴は、その情感表現のたくみさと、それと同時に、わかりやすさにあると思っている。

たぶん、『夫婦善哉』というのは、日本の大衆文化のなかで、今後も生き続けていくものであるにちがいない。