今日は、京都で名刺交換会2010-04-21

2010-04-21 當山日出夫

今日は、yuki_oさんの、上洛記念名刺交換会である。yuki_oさんとは、Twitter上での知り合い。まだ、リアルにあったことはない。だが、この世界は狭い。だいたい私がフォローしている人どうしは、かなり高率で相互に知り合いだったりする。たまたまの知り合いができて、じゃあ、みんなであってみましょうという感じ。

いわゆる、Twitterオフ会とも、ちょっとちがうかな。もうすこし、リアルの方によったあつまり。

ともあれ、今晩は、それほどではないがちょっと遅くなる。
京都近辺の図書館関係者が、なにほどかあつまってくれる予定になっている。さあ、どんな会になるだろうか。

Twitterは、茫漠としてゆるやかなつながりではあるが、しかし、一面で、コミュニケーションの手段でもある。いろんな使い方があるだろうが、私は当面の間、いまの方針でいこうと思っている。

當山日出夫のTwitterアカウント:htoym
http://twitter.com/htoym

當山日出夫(とうやまひでお)

Twitter雑感2010-03-25

2010-03-25 當山日出夫

たまたま、偶然、であるのかもしれないが、私が、Twitterでフォローしている人に、かたよりがある。いや、人にかたよりがある、というよりも、大学にかたよりがある。ある大学については、非常に積極的にみんなつかうし、フォローも多い。

一方で、最新のデジタル情報に精通していなければならないはず、と私が思っているあるひとたちからは、フォローがほとんどない。これは、ほんとに、たまたま、偶然であるのか。私を避けているのか。

私の場合、Twitterでも名前を出してあるから、特定してフォローすることは可能である。逆に避けることも。

そうはいいながらも、まだまだ、Twitterについては、人による温度差を感じることがある。積極的につかっていこうという人と、まだ、もうすこし様子を見ようという人と。

しかし、まさか、教員が学生に、あんなものつかってはいけません、と言う時代ではないだろう、とは思っている。こんなことしているようでは、おわりだ。Ustream+Twitterという時代になって、Twitterアカウントもっていません、というのは、時代遅れといわれてもしかたないだろう。

なお、私のTwitterは、「htoym」。「當山日出夫」の名前も出してある。

當山日出夫(とうやまひでお)

今日はつながるTwitterそれに研究会と情報発信のこと2010-03-15

2010-03-15 當山日出夫

やはりここはTwitterの名誉のために(?)……今日は、ちゃんとつながっています。ただ、まだ、システム全体としてちょっと不安定なところがあるのかもしれないとおもったり。たとえば、先日、それまでに送受信した、ダイレクトメッセージが消失してしまう、という事態になって、復旧しない。

まあ、たいしたことやりとりはしていないし、電子メールでもメッセージはとどくから、実害は無いのであるが。

これからは、研究会などやって、「どうして、TwitterとUstreamを使えるようにしないのですが…」という問いに答えなければならなくなるだろう。この半年ほどの間の激変に意識がついていける人と、そうでない人の落差が、これから出てくるにちがいない。

情報法は発信するところにあつまる。この意味で、研究会などの開催において、UstreamとTwitterは、実に強力。研究会こそ情報発信の場ではないのか。

當山日出夫(とうやまひでお)

グーグルへの対抗意識2010-03-05

2010-03-05 當山日出夫

国会図書館でのシンポジウムとか、あるいは、京大での「文化とコンピューティング」などで、感じたこと。日本では、グーグルに対する対抗意識が希薄なのではないか。

いや逆だろう。ヨーロッパの方であると、はっきりと、対グーグル(アメリカ)という意識を明確に持っている。自分の国の文化遺産、文化資源は、自らの責任でデジタル化して発信するのだ、という強固な意志を感じる。

これにくらべると日本はどうだろう。国会図書館の大規模デジタルライブラリ構想とはいっても、グーグルブックサーチに対抗して、自国の文化遺産(書籍)を、自国の手でデジタル化するのだ、という意識があるか、どうか。どうも、これまでの、グーグルブックサーチをめぐる日本での議論は、そういう方向ではないように思えてならない。

それから、この観点から重要なこと。ヨーロッパが、対グーグルということで、自らの文化資源をデジタル化するという方向を選んでいるということは、つまり、ヨーロッパのものから優先的にデジタル化され発信されるということである。

欧米には、多数の日本の(あるいは、東洋・東アジアのと言ってもよいか)美術品などがある。これらの、調査・研究、そして、デジタル化と発信が、後回しにされる、ということを意味する。これでいいのだろうか、と思うが。さて、どうだろうか。

グローバルなデジタルの社会になっての、ナショナリズムというものを無視はできない。これは、東アジアにあっても、中国・韓国についても言えるだろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ネットがあれば履歴書はいらない』(2)2010-01-23

2010-01-23 當山日出夫

前日にも記したとおり、この本には重要な指摘が、さりげなく書いてある。

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これは新たな格差社会なのかもしれない。(p.116)

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学生を見ていて、つくづく思うことのひとつ。ケータイしかつかえない、という学生。これは、いったいどのように考えればいいのか。そこまで、ケータイが進化したといえば、肯定的に考えられる。しかし、ケータイの小さいディスプレイを超えたところにある、ひろがりのあるコンテンツにアクセスできない。ケータイの小さいディスプレイの範囲内のなかで充足してしまっている。

とはいえ、ケータイであっても、それを使いこなして、自分自身で情報発信できる人間と、そうでない人間にわかれる時代になっている、とはいえそうである。

といいながら、いま、私の携帯電話(音声通話でしか使用しないので、こう称する方がいいだろう)、充電中。あまりにつかわないので、出かけようと思ったら、電池がきれていた。あわてて、30分ばかり充電してから出発の予定。その間にこれを書いている。

あらたかな格差社会、デジタルデバイド、これが錯綜して進行しているように思えてならない。パソコン、インターネットを縦横に使える人間、ケータイしかつかえない若者、逆に、ケータイがまったくダメだがパソコンならなんとかなるような私のようなタイプ(これは希少であろうが)、様々な種類の、デジタル環境、機器への対応の違いがある。

単純にWEB2.0、その次は何だ……と言ってはいられないように思うのである。

と、ここまで書いたあたりで、そろそろ最低限の充電はできたようなので、出かける用意をすることにしよう。JADS(アート・ドキュメンテーション学会)の関西地区部会の見学会(大阪のエル・ライブラリー)である。

當山日出夫(とうやまひでお)

『ネットがあれば履歴書はいらない』2010-01-22

2010-01-22 當山日出夫

佐々木俊尚.『ネットがあれば履歴書はいらない-ウェブ時代のセルフブランディング術-』(宝島社新書).宝島社.2010

宝島社
http://tkj.jp/book/?cd=01748501

これを読んでいろいろ考えることが多い。特に、学生に教える立場としては、である。

まず、この本は、「エゴサーチ」のことからはじまる。WEBで自分自身を検索してみることである。そして、その結果が、その人間の「価値」を決める要因の一つになる。

たとえば、次のような指摘。

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いまのインターネットの流れからすると、プライバシーというのは将来的にはいまよりもずっとゆるやかになり、個人の情報をよりオープンにすることによって、利便性を高めるという方向におそらくは進んでいくということは間違いないだろう。

(中略)

インターネット世界と現実は全然異なるとみている人もいるだろう。インターネット上のことを”あちら側の世界”と例える人もいるが、その操作をしている人は確実に現実に存在している。そもそもインターネットが別世界だと考えるような時代は終わっている。

p.55

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また、

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情報を発信することでのリターンは他人からは見えず、本人にしか感じることはできない。怖いと感じ何もしない人と、怖さはゼロではないが、そこに面白さ見いだして情報を発信する人との間に気が付けば、天地の差がつく。

p.72

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そして、さりげなく書いてあるが、この指摘は重要である。「これは新たな格差社会なのかもしれない(p.116)」。

ま、ここにこのように書いている私個人のことはおいておこう。考えるのは、学生に、授業の実習としてWEB上で何かをやらせること、その問題である。大学の授業の一部として、たとえば、ブログを作る、Twitterで発言する、などやらせるとして、基本的には、名前を出して、ということになるだろう。(私個人は、この主義でいる。その方が、より「安全」であると考えるから。)

学生個人が特定できるような形でなければ、教師の側としては、評価できない。誰が書いたかわからないでは困ってしまう。ここは、どうしても、名前を出して、ということになる。

だが、これは、同時に、学生が自分の履歴書を常に書いていくようなものである。もうすでに行われているだろう……就職などに際して、学生が、WEBでどのような発言をしているかリサーチするということ、が。

この本、前半は、上述のようなWEB上での情報発信と社会とのコミュニケーションの話し。後半は、それをつかいこなすためのツールとしての、Twitterや、その効果的利用法についてのノウハウ。

いますでにわれわれは、WEBとリアルとが融合した社会のなかにいるのだ、このようなことを考えさせる本である。もはや逃避することはできないだろう。それを理解したうえで、どのような距離をおくか、自分で選択する(それができる人とできない人にわかれるのかもしれないが)、になるのかと思う。

當山日出夫(とうやまひでお)

『「みんなの意見」は案外正しい』の文庫化2009-11-06

2009-11-06 當山日出夫

さて、きたる22日の、Wikimediaカンファレンス2009、どんな話しをしようか。だが、どんな話しをするにしても、基本となる文献のひとつは、

「みんなの意見」は案外正しい
ジェームズ・スロウィッキー著
小高尚子訳

であることは確かだろう。この本、どうやら、角川書店の単行本が無くなって、文庫本になるらしい。ただ、角川書店のHPでは、11月25日発売予定とある。

http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=200805000104

単行本は、すでに持っているが、気になるのは、文庫本化にあたって、「解説」がどのように付加されたか/なしのままか、というあたり。「みんなの意見」をささえるものとして、既刊の書籍情報があるなら、グーグルブックサーチの流れをうけて、集合知をどう考えるか……このあたりに、興味がある。

この種の本、ほんの数年前までは、一部の専門家の本だった。それが、今の時代とはいえ、文庫本化というのは、それだけ、「集合知」についての社会の関心のたかまり、なのであろう。

當山日出夫(とうやまひでお)

グーグルとアメリカ政府のデジタル戦略2009-10-20

2009-10-20 當山日出夫

これも、もとは、twitterから。

日経デジタル・コア
【ネット時評 : 城所岩生(国際大学GLOCOM)】
グーグル和解問題に見る米国のしたたかな国家戦略
http://www.nikkeidigitalcore.jp/archives/2009/10/post_208.html

この記事を見ると、政府レベルでは、アメリカは、完全にデジタルの方向にむかっていることが、理解できる。基本路線として、グーグルブックサーチをみとめるとして、では、それを、どのように承認していくか、そのプロセスをさぐっているようにさえも思える。

これにくらべて、我が国は……と、やはり、こころもとない。政府レベルでの大規模デジタル化、どうなるだろうか。

公共事業は、その事業の結果としてできたものを使うひとのためにつくる。作るひとのためだけ(ざっくばらんにいえば、建設業者とか)の、目先の利益と、すぐに結果のでる効果だけをねらってのものではないだろう。

といって、建設業を否定するのではない。その建物や道路を本当につかうひとが、しあわせになれるようなものをつくるべきだ、ということ。

で、もとにもどって、グーグル。国家規模での、大規模デジタル投資が必要だろう。それにむけての法整備も……というと、じゃあ、それにむけて「議論」しましょう……となる。議論はもういい、まず、動き出すことだ、と敢えて言っておきたい。

未来のために、デジタル資産(Digital Cultural Heritage)を残そう。

當山日出夫(とうやまひでお)

Twitter雑感:ヤシガラ椀の外へ2009-10-11

2009-10-11 當山日出夫 

まあ、凝り性といわれれば、それまでであるが、Twitterで、まずは、1000メッセージを目指してという状態。これぐらいつかうと、なんとなく分かってくる。単なる「つぶやき」でありながら、フォローと、#(ハッシュタグ)によって、コミュニティが生まれることを。

ホームページから、ブログへと移行したように、今年から、急激に、Twitterになだれこんでいるような印象をもっている。出版社、美術館などでも、Twitterとブログとメールマガジンとホームページと、相互に有機的に関連づける方向で、動いている。

たとえ、140字の「つぶやき」であっても、それが外に向かって開かれた自分というものを保証してくれるとき、その存在意義は大きいと言えるだろう。

まさに、
『ヤシガラ椀の外へ』.ベネディクト・アンダーソン.加藤剛訳.NTT出版.2009
http://www.nttpub.co.jp/search/books/detail/100001986

につながると、直感する。ただ、『想像の共同体』とどう関連していくかは、これからのユーザによって決まってくるのだろうがとは、思う。

當山日出夫(とうやまひでお)