長谷川宏『いまこそ読みたい哲学の名著』2016-11-18

2016-11-18 當山日出夫

長谷川宏.『いまこそ読みたい哲学の名著-自分を変える思索のたのしみ-』(光文社文庫).光文社.2007 (原著 光文社.2004)
http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334742409

いまさら、と思われるかもしれないが、このような本を手にするのが楽しみになってきた。基本的には、いわゆる西洋哲学の概説書という感じ。

たとえば、「Ⅰ 人間」のところでは、
『幸福論』アラン
『リア王』W・シェイクスピア
『方法序説』デカルト

といったところ。この本にとりあげてあるのは、15の書物なのだが、はっきり言って「読んでいない本」がある。だからといって、まずその本を読んでからとは、もう思わない。この種の概説書の存在意義は、〈地図〉を作ってくれることにあるのだと思う。

「読んでいない本」であっても、それが、哲学史、文化史のなかで、どのような位置づけになるのか、いったいどんなことを語っている本なのか、概略がわかる。そして、興味があれば、その本を読めばよい。いまでは、そのように思うようになってきた。

これが若いころであれば、是が非でもこれだけは必読書として読んでおかねばならない本として、遮二無二に本を乱読したりしたものだが、もうそのような元気はない。そのかわり、適当に気にいった本をみつくろって、熟読・味読したいと思うようになってきた。

そのような人間にとっては、このような本が文庫本で手軽に読める形で出ているのはありがたい。しかも、紹介してある本については、どのような翻訳があるのかの紹介があり、そのおすすめまで記してある。

ただ、出たのが、今から10年以上前になるので、その後、新しい翻訳の出たものもある。『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などは、日経BPで、中山元の新しい訳が出ている。
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P47910.html

とはいえ、このような新しい訳の存在も、今では、簡単にネットで探せる。

ところで、私の若い頃、学生の頃でであれば、まず、岩波文庫とか、「世界の名著」(中央公論)あたり……という時代であった。岩波文庫は今でもつづいているし、「世界の名著」など、古本でさがせば格安で手にはいるようになってきている。これもネットで探して買えるようになっている。

読みそびれたままになっている「読んでいない本」を、これから、ぽつりぽつりとながらでも、じっくりと読んで時間を過ごしたいと思うようになってきている。そんな私にとっては、この『いまこそ~~』は、ありがたい仕事である。

佐和隆光『経済学とは何だろうか』2016-11-17

2016-11-17 當山日出夫

佐和隆光.『経済学とは何だろうか』(岩波新書).岩波書店.1982
https://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/42/9/4201820.html

いうまでもないことだが、私は、経済学など専門外である。しかし、岩波新書のこの本ぐらいは読んでいる。で、ここで書いておきたいと思っているのは、「パラダイム」という語についてである。

今、「パラダイム」ということばはよく使われると思う。より広義には、思考の枠組みとでもいうような意味で使われるだろうか。もちろん、このことばは、トーマス・クーンの『科学革命の構造』でもちいられた、科学哲学の専門用語である。

そして、今では、このことば「パラダイム」について論じようとするときには、クーンの本に依拠して述べるというのが、普通になっていると思われる。

トーマス・クーン/中山茂(訳).『科学革命の構造』.みすず書房.1971
http://www.msz.co.jp/book/detail/01667.html

だが、私の経験では、この「パラダイム」ということばを初めて眼にしたのは、クーンの本によってではない。それを引用してつかった、佐和隆光の岩波新書『経済学とは何だろうか』によってである。そして、私の見るところでは、日本の社会のなかで、「パラダイム」ということば多く使われるようになったのは、この岩波新書を契機としてであったように、思うのである。

そこを確認するならば、「クーンの「科学革命」論」として、

「「科学の客観性」への疑問を、もっと鮮明なかたちで提示したのが、科学史家トーマス・クーンである。クーンは、その著『科学革命の構造』(1962年、邦訳みすず書房刊)で、〈範型〉(パラダイム)という概念を提案し、古い〈範型〉が新しい〈範型〉によって、とってかわられる過程を、「科学革命」と呼んだ。」(p.154)( )内はルビ。

そして、パラダイムということば・概念をもちいて、経済学の潮流の変化を説明していく。(経済学の門外漢である私には、そのことについて評価はできないが。)

この本を若い時に読んで、経済学の何であるかは分からなかった(今でも分からないままであるが)、「パラダイム」ということばだけは、はっきりと覚えている。その後、何かのおりに使い初めて、今日にいたっている。

その後、みすず書房の『科学革命の構造』も買って読んだりしたものである。かなり難解な本で、あまりよくわからなかったというのが正直なところであるが。

現在ではどうなんだろうかと思う。「パラダイム」ということばが一般化しているので、特に意識することなく、普通の人は普通にこのことばをつかっていると思う。特に、若い人はそうだろう。もし、ちょっと勉強してみようという気のある若者ならば、直接に『科学革命の構造』を読んでみたりするかもしれない。

だが、学問史……というほどの大げさなものではないとしても、「パラダイム」という概念で、学問・研究の進展の枠組みを考えようとするならば、是非とも『経済学とは何だろうか』をはずすことはできないと思う。少なくとも、私の個人的経験からするならば、日本において「パラダイム」の語がひろまったのは佐和隆光の『経済学とは何だろうか』(岩波新書)によってであると、理解しているからである。

すくなくとも、上記のような観点において、『経済学とは何だろうか』は、読まれていい本だと思っている。

ピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』2016-11-11

2016-11-11 當山日出夫

ピエール・バイヤール/大浦康介(訳).『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫).筑摩書房.2016 (原著、筑摩書房.2008)
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097576/

最初、単行本で訳書が出たとき買って、ざっと読んで、今回、文庫(ちくま学芸文庫)になったので、また買って再読してみた。

この本の内容について、ふさわしくタイトルをあえて変えるとするならば、

『なぜ読んでいない本について堂々と語れるのか』

とでもした方がいいのかもしれない。

読んでいない本について、堂々と語る仕事としてまず、思い浮かぶのは大学の教師である。私の専門領域としては、国語学ということになるが、では、国語学の専門書、日本文学については、古典大系、古典文学全集の類を網羅的に読んでいるかというと、はっきりいってそんなことはない。

『源氏物語』を、最初から通読したことはないということは、すでに書いた。しかし、大学の講義で、『源氏物語』について言及するのに、なんら不都合はない。もちろん、全巻を順番に読んでおくにこしたことはないだろうが、それが必須の条件というわけではない。

では、なぜ、『源氏物語』について授業で語れるのか……それは、その作品の文学史的な位置づけ、研究史の概略を知っているからであり、全部を順番に読んだことはないにしても、かなりの箇所はきちんと読んでいる。部分的には精読しているといってよい。

つまり、『源氏物語』の読み方を知っている。勉強の方法を知っている、ということなのである。

だが、だからといって、『源氏物語』をまったく読んでいなければ、それについての研究書・論文のいくつかを読んだことがなければ、これは、はっきりいって、教師として失格と言ってよいであろう。

このようなことを、『読んでいない~~』では、次のような箇所が該当するのかと思う。

「教養があるとは、一冊の本の内部にあって、自分がどこにいるかをすばやく知ることができるということでもあるのだ。そのために本を始めから終わりまで読む必要はない。この能力が発達していればいるほど本を通読する必要はないのである。」(p.39)

「このように、教養とは、書物を〈共有図書館〉のなかに位置づける能力であると同時に、個々の書物の内部で自己の位置を知る能力である。」(p.66)

つまり、「教養」があれば、本を全部にわたって通読する必要はない。

では、どうやればその教養は身につくのか……それは、やはり、「読書」と「教育」によってである、ということになる。ある程度は、本を読み、その読み方について教育をうける、これが必要だろう。

本書『読んでいない~~』は、読書論であると同時に、教養論であり、教育論の本であると思う。タイトルはいたって挑発的であるが、しかし、その書かれている内容は、逆に、常識的な読書文化論、教養論であると、私は読んだ。その常識的なレベル、あるいは暗黙知と言ってもよいかもしれない、そのようなことを、あえて、俎上にのせて論じてみたということである、と理解する。

はっきりいって、この本を読まずに読んだふりをするのも、決して悪いことではないと思う。それは、この本の語っている内容が、ある意味で、きわめて常識的な読書についての考察であるといってもよいからである。常識的すぎる、あるいは、暗黙知であるがゆえに、いままであまりおもてだって言及されることのなかったことについて書いてある。この意味では、なぜ自分は読んでいない本について語ることができるのか、じっくりと内省してみれば、おのずと答えの出ることであるともいえる。

とはいえ、暗黙知とされるべきことについて、あえて論じるというのは、刺激的で知的な興味をそそる仕事ではある。この観点において、非常に面白い本だと思う。

ちくま日本文学全集『柳田國男』2016-11-02

2016-11-02 當山日出夫

このところ、古本を買っている。最近、買ったのは、

ちくま日本文学全集『柳田國男』.筑摩書房.1992

解説を書いているのは、南伸坊。文庫版の全集、という体裁のシリーズである。調べてみると、このシリーズは、体裁をかえて、今でも新本で売っているようだ。今売っているのは、2008年の刊行らしい。タイトルも、「ちくま日本文学」と変わっている。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480425157/

http://www.chikumashobo.co.jp/special/nihonbungaku/lineup/

この『柳田國男』であるが、収録作品を見ると、まず、
「浜の月夜」
「清光館哀史」
がのっている。それから、「遠野物語」「木綿以前のこと」など、柳田の代表的な作品が、収録、あるいは、抄録されている。おおむね「文学」の観点からみた柳田の文章がおさめられている。

『定本柳田国男集』も持っているのだが、このごろでは、このような手軽な編集の本が好みになってきた。柳田国男を論じるために読むというよりも、自分の楽しみの時間のために読む、そんな読書の時間をつかうには、ちょうどいい。文庫本サイズなので、ちいさいし軽い。とにかく、気楽に読める雰囲気の本づくりになっているのがいい。それから、このシリーズは、文字が大きい。これも、老眼になった身としては、とてもありがたい。

ところで、私は、これまで、「遠野物語」を通読したということがない。時に、ページを開くことはあっても、全部を読んではいない。理由は、こわいからである。「遠野物語」の文章を読むと、ぞっとするような恐怖を感じる。とても、全部をとおして読む気になれない。で、今にいたっている。

それほど、日本民俗学の文章というのは、読む人間にとって、迫力のあるものなのである。

これに近いものとして……『今昔物語集』の巻二十七があるのだが、この巻も、読んではいるのだが、夜ひとりで読んだりするのは、とてもこわい。

そのせいもあって、実は、『共同幻想論』(吉本隆明)を、あまりきちんと読んだことがないのである。『古事記』の引用はいいのだが、『遠野物語』の引用箇所を読むのに恐怖を感じることがあって、途中でやめたり、とばしたりしている。

年をとってきて、文章に対する感性もかわってきたと感じる。そろそろ、純粋な楽しみの読書の時間をつかうように、そのように生きていきたいものだと思っている。この意味で、手軽な文庫本はありがたい。

岡茂雄『本屋風情』2016-10-22

2016-10-22 當山日出夫

柳田国男の『雪国の春』については、触れた。

やまもも書斎記 2016年10月21日
柳田国男「浜の月夜」「清光館哀史」
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/10/21/8233186

ここで、「浜の月夜」と「清光館哀史」が一緒になったのは、『雪国の春』の刊行の時と書いておいた。昭和3年刊、岡書院。この岡書院の岡茂雄の書いた本が、『本屋風情』である。

岡茂雄.『本屋風情』(中公文庫).中央公論社.1983 (原著、平凡社.1974)

今では、もう売っていないようである。

これをよむと、「よくぞ生まれた『雪国の春』」という文章がのっている。読むと、興味深い。冒頭を引用する。

「昭和二年十一月下旬のある日、陽も落ちて燈火のの冴える頃であった。柳田(国男)先生が電話で「すぐ朝日(新聞社)へきてくれないか」といわれたので、何事かと思い、車を呼んで駆けつけた。先生は当時朝日新聞社の編集局顧問で論説を担当しておられた。(中略)先生は改まった面持ちで「君は岩波(茂雄)君と親しいようだから、本(出版)を頼んでくれないか、一月にはどうしても出したい本なんだ」といわれた。」(p.88)

活版の時代である。現代のようにデジタルデータで原稿がそろっているという状況ではない。11月に話しをして、1月には本を出したいというのは、無理だろう・・・と、まあ、常識的には考える。

しかし、この本『雪国の春』は、柳田国男としては、岩波書店から出したい意向のようだったらしい。それが無理と判断して、岡書院から出ることになった。そして、その岡書院は、なんとかそれを実現してくれたことになった。

読むと、いそいだ出版だったらしいので、いろいろトラブルがあったようだ。1台(16ページ)、印刷しなおし、というようなこともあったらしい。

そして、最後に次のようにあるのが印象的である。

「十二年の後、S社から何々選書の仲間入りをして再刊されたが、国民服をまとうたような恰好で現われ、掛けた襷字を見なければ『雪国の春』と知ることもできないような姿を、侘しく眺めなければならなかった。」

さもありなん。『雪国の春』におさめられた文章は、国民服にはふさわしくない。昭和(戦前)の世相をあらわす出版史のひとこまかもしれない。

なお、この岡書院という出版社。戦前の言語学・民族学などの分野で名をのこしている。言語学関連では、この『本屋風情』に登場する本としても、
『アイヌ叙事詩/ユーカラの研究』生誕実録
『分類アイヌ語辞典』と金田一博士
ソッスュール『言語学原論』を繞って
『広辞苑』の生まれるまで
などの文章が収録になっている。国語学・日本語学研究史としても、興味深い内容である。

山本貴光『「百学連環」を読む』2016-10-14

2016-10-14 當山日出夫

山本貴光.『「百学連環」を読む』.三省堂.2016
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/books/100gaku/

これは、三省堂のHPに連載されたもの。この本のなりたち、また、評価については、すでに各所に出ていると思う。いつものように、個人的感想などいささか。

最低限のことを確認しておくならば、この本「百学連環」は、今から150年ほど前(明治3年)に、西周による講義。それを筆録したもの。それを、133回に分けて、ネット上に公開しながら、順番に読んでいった、その講義録のようなもの。この本の主題とすべきは、明治初期の「学問」の総体である。

さて、私がこの本を読んで感じたのは、次の二点。

第一には、デジタル化された知識を縦横につかっていること。筆者は、この本を書く(WEB上で連載する)にあたって、その手のうちを公開している。たとえば、洋学関係の資料をみるにあたっては、Google Books を参照したことなど、書かれている。

たぶん、この本は、インターネットにある様々なデジタル化された「知」がなければ書けなかったであろう。

第二には、しかし、それでもなお不十分な点を感じるとすれば、近世の蘭学資料とか、明治初期の啓蒙的著作について、調べが及んでいないと感じさせるところ。これは、ひとえに、まだこれらの資料がデジタル化されて、自在に検索できる状態になっていないからである。

簡潔に述べれば、上記の二点になる。つまり、この本は、まさに今の時代、21世紀の初めの10年頃、その時期における、『百学連環』の読書録である、ということである。これは、ある意味では、この本の限界である。だが、著者は、この限界を、はっきりと意識しているように思える。さらに、各種の資料がデジタル化されて検索可能になれば、近世から幕末・明治初期にかけて、西洋の学問が、どのように日本において、いや、当時の東アジアにおいて、受容されてきたのか、そして、考えられてきたのか、このようなことが明らかになるだろう。その時代は、ひょっとすると、かなり近未来におとづれるかもしれない。

だが、その時代を待たずに、今の時点で、できる範囲のことで読んでみた、このように私は感じながら読んだのであった。

たとえば、ウェブスターの辞書のデジタル版(テキスト版)が、各版ごとにそろえば、この本の調査は、もっと精密なものになるにちがいない。だが、とりあえず、著者の見ることのできる版において調べた範囲のことで、これだけのことは分かる。このようなことは、この本を読み進めていくうちに、おのづと納得する。

あるいは、福沢諭吉の著作の、その初期のものがデジタル化されていれば、明治初期における、西周の、また、福沢諭吉の、学術史的位置づけを、総合的に再検討することができるにちがいない。この本では、「惑溺」の語について、福沢への言及があるが、その全著作の語彙については、及んでいない。

このように、この本を読むと、現代の時代における「限界」を随所に感じる。しかし、その「限界」は、逆に言えば、これからの「可能性」でもある。この意味において、将来の研究の「可能性」を、読み取ることができよう。

そして、その「可能性」は、(たぶん、すでに言われていると思うが)、従来の学問の領域構成(文理の区別にはじまって、大学の学部・学科、あるいは、学会の成り立ち、など)を、つきくずすものになるにちがいない。

かつて、明治初期、まだ西洋の学問が日本に入ってきたばかりで、未分化の状態を読み解いている。それを、将来、デジタル化された各種ツールを駆使することによって、新たな学問のあり方を提言することができる……この「可能性」を強く示唆している本だと思うのである。

追記
著者名 まちがえていました。訂正しました。貴光でした。申し訳ありませんでした。

電子書籍からの引用はどう示すか2016-06-24

2016-06-24 當山日出夫

電子書籍について思うことを書いてみる。

電子書籍の利便性については、いろんなところでいろんなひとが述べている。ここでくりかえすまでのこともないだろう。ここでは、私が困っていることについてしるしておきたい。

それは、「引用」と「典拠」のしめしかたである。

論文やレポートを書く。そのときに、引用・出典ということが重要になる。これは、紙の本についてであれば問題はない。さまざまな流儀があるとはいえ、これまでの各研究分野における、習慣というか、伝統的なスタイル、とでもいうべきものがある。

これが、電子書籍になるとどうか。

引用はできる。PCで見ているにせよ、Kindleなどの専用デバイスで見ているにせよ、とにかく、内容を書き写す(コピー)することは、紙の本と同様である。

では、次に、この出典を注記しようとしたとき、どうすればいいか。このときになって、はたと困ってしまうのである。ページが書けないのである。

いうまでもないことだが、電子書籍には「ページ」の物理的概念がない。本文のデータがあって、それをディスプレイに表示する。そのとき、文字の大きさにあわせて、ディスプレイの表示文字数は変化する。リフローするのである。引用して、その典拠・出典としての、どの本の何ページと、確定的に指示できないのである。

これは、論文・レポートを書くとき、致命的に困ることだと思うのだが、はたして、ひとはどう思っているのだろうか。

たとえば、私のKindleには、「角川インターネット講座」(全15巻、合本版)がいれてある。(安かったから買ったのだが、今、確認してみると、値段があがっている。買ったときの値段を確認してみると、2700円だった。)

ともあれ、この本から何か引用しようとしたとき、本文をディスプレイ表示を見ながら書き写すのはいいとしても、その典拠・出典を書かねばならなくなったとき、困ってしまう。ページ番号が書けないのである。これでは、引用することができない。これでは、私が書く文章……論文とまではいわなくても、このようなブログに引用することもできない(少なくとも、典拠を明示して書こうとするならば。)

引用できないということは、学生の勉強につかえない、少なくとも、論文やレポートを書くときの参考文献としては利用できない、ということになる。論文やレポートでは、引用した箇所については、かならずその典拠をしめさなければならない。これは、アカデミックな世界における決まったルールである。そして、しめされた典拠にしたがって、その論は検証できなければならない。

電子書籍の利便性について語られることは多いが、上記のような問題点については、あまり言及されることがないように見ている。はたして、この問題、どのように考えればいいのだろうか。

文献リストでサブタイトルの書き方2016-06-18

2016-06-18 當山日出夫

学生に論文・レポートの書き方を教える。そのなかで、文献リストの書き方も教えることになる。

論文において、参考文献リストは重要である。

第一に、これまでの、その研究テーマについての研究史を示すものになっていないといけない。(これがあまりに膨大になる、逆に、あまりにも乏しいものは、研究テーマとして再考した方がいい。)

第二に、そのリストは、研究の背景をしめすと同時に、論文それ自体とあいまって、今後の展望・発展をあらわすものである。卒業論文などの場合、たいていの学生ならば、それで研究は終わりで、そこから先は無いのが普通。しかし、論文である以上は、その先の研究の展望がしめせないといけない。

ところで、この参考文献リストの書き方が難しい。いろんな研究分野でいろんな方式がある。文学部のなかでも、日本文学、日本史のような分野と、心理学の分野とでは、大きくスタイルが違っている。統一的なルールを、これだ、といってしめすことはできない。

これについては、またあらためて整理してみたいが、今回、確認しておきたいのは、サブタイトル(副題)の書き方である。

たとえば、宮崎市定の『科挙』という中公新書の本がある。東洋史・中国文学のみならず、日本文学・日本史などの勉強をする学生にとっては、必読の本であるといってよい。この本、サブタイトルに「中国の試験地獄」とある。さて、これをどう表記するか。

(1)『科挙-中国の試験地獄-』 全角ハイフンまたはダッシュで前後をはさんでしめす。

(2)『科挙――中国の試験地獄』 全角のダッシュの二つでしめす。

(3)『科挙:中国の試験地獄』 コロン「:」でしめす。

私は、このうち、(1)と(3)を教えることにしている。(2)は言及しない。

その理由は、全角ダッシュ「―」がわからない学生がいるからである。半角のハイフンを二つ書いて「--」、それを書いたつもりになってしまう学生が出てくる。まず、半角・全角の区別ができるかどうかが問題なのだが、ともあれ、「―」を確実に入力できないといけない。(コンピュータ文字について、全角・半角の区別がわからないという学生は、意外と多い。)

普通の学生のコンピュータ技能、というか、ワープロの使い方として、キーボードの右端にあるテンキーの角にある「-(マイナス)」から、入力・変換できればよいとしておく。(それでも、これを半角記号で書いている学生も多いのだが。)

そして、何よりも重要なことは……サブタイトルの書き方は、原本の再現ではない、ということである。原本にどう書いてあろうとかまわない。それが、タイトルがあって、サブタイトルがついていることを、一定の書式でしめす、これが重要である、といっている。つまり、書き換えてかまわない、いや、書き換えないといけないのである。

参考文献リストを書くとき、絶対に書き換えてはならない箇所もあれば、書き手の意図にしたがって、一定のルールで書き換えないといけない箇所もある。その区別がある、このようなルールがあるという認識を、まず教えなければならない。

ちなみに、以前にとりあげた『カラー版書物史への扉』では、上記のうち、(2)の方式で書いてある。

やまもも書斎記(2016-05-31):宮下志朗『カラー版書物の歴史への扉』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/31/8099280

文献リストの書き方は、何年教えていても、難しいと感じる。

世界をまるごと分かりたい2016-06-17

2016-06-17 當山日出夫

今回は、この本について書いてみたい。

戸田山和久.『科学哲学の冒険-サイエンスの目的と方法をさぐる-』(NHKブックス).日本放送出版協会.2005
https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000910222005.html

この本については、このブログでかなり以前に言及したことがある。

やまもも書斎記 2008年6月8日
科学について思うこと:『論文の教室』と『科学哲学の冒険』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2008/06/08/3568333

今回この本を読みなおしてみようと思った理由は、『歴史を哲学する』(野家啓一)の本を読んだからである。歴史的事実とは何か、あたりまえのこととして、事実を認定することはむずかしい。

やまもも書斎記 2016年5月23日
『歴史学ってなんだ?』
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/05/23/8094500

さて、現在、この本をよみなおして感じることは、基本的に三つある。

第一には、すでに、2008年のときに述べたことの確認である。論文を書くときには、事実と意見を区別する必要がある。しかし、その事実とはなんであるか、確定的にいうことはむずかしい。これは、学生に作文を教えるなかで問題となる。(この点については、ここではもうくりかえさない。)

第二には、上にのべた点をうけてのことであるが、歴史哲学における事実の認定の問題である。『歴史を哲学する』(野家啓一)を読んで、歴史は物語である……という趣旨の主張に、私がさほど違和感をいだかずに読みすすめることができのは、おそらく、以前に、『科学哲学の冒険』(戸田山和久)を読んでいたせいだろう。

物質は原子からなる、このような自明とも思われるようなことであっても、それを事実として認定することは、科学哲学上の大問題である。科学的実在論を主張するのは、なかなか困難であることが、この本を読むと理解できる。

たぶん、高校生ぐらいまでの知識(歴史・科学について)で、自明の事実とされるものであっても、それを、歴史哲学・科学哲学の分野の課題として、確実にいいきることは、なかなか困難なことである。社会構成主義は、きわめて手強い。

この論点については、また、あらためて考えてみたい。

第三には、(これが今回、ここで特にいいたいことであるが)なぜ勉強するのか、その基本姿勢についてである。勉強するときの心構えととでもいおうか。これは、すでに書いた……『文学』(岩波書店)休刊について書いたこととも、関連する。

やまもも書斎記 2016年6月12日
『文学』休刊に思うこと
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/12/8109505

このとき、私は、現在にいたるまでの勉強する姿勢の変化とでもいうべきことについて書いておいた。『文学』を継続的に読むような勉強のスタイルが消えてなくなってしまったのであると。

これは、文学研究という文科系のこととして書いたのであったが、今回『科学哲学の冒険』を読んで、理系でもそのようなことがあるのかと、思った次第である。たぶん、この本の本来の趣旨からすれば脇道にはいって書いたとおもわれる、つぎのような箇所。

「(この本を書いた動機として)、もう半分は、若い人から「世界をまるごと分かりたい」という気持ちが失われてきているし、社会全体からもそういう活動に払う敬意がなくなってきているってこと。大学で教えていると、最近ものすごく痛感する。」(p.242)

「むしろ理系の学生に顕著な傾向だよね。教えていると、え、この世の仕組みをもっとよく分かりたいから科学を勉強しているんじゃないのって言いたくなることがけっこうあるよ。」(p.242)

「問題は、そうして入ってくる理数系学生の気持ち、というか知的動機づけの問題なんだよね。」(p.242)

今回、このような箇所に、ふかく同意するところがあった。やはり理系でもそうなのか、という思いである。しかも、この本が書かれたのは、今から10年以上もまえである(2005年の刊行)。

「世界をまるごとわかる」……だいそれた望みかもしれない。しかし、若い時に勉強する動機というか、原動力としては、このような感覚は大事である。

私の若いころ、学生のころのことをいえば、哲学を勉強していたということではなかったが(所属していたのは文学部の国文科)、文学作品、哲学書などを読むときの感覚として、いま自分が読んでいるこの小さな本をとおして、その向こう側に、この世の世界のすべてがひろがっている、そこに通じている道にいま、自分はたっている……このような感覚をもっていた。そのように、自分の若いころのことを思い出す。

もちろん、学生のころに、そんなこと(世界をまるごとわかる)が可能であろうはずはない。しかし、どのような基本姿勢が根底にあって勉強にのぞんでいるか、本を読んでいるか……年をとってふりかえってみると、このような姿勢の価値とでもいうべきものがわかってくる。

たとえば、文学研究でいえば……一首の歌について、その三十一文字のなかに、世界が凝縮された宇宙がある、というような感覚である。

ところで、そういえば、かつては理系の分野では、『科学朝日』という雑誌があった。この雑誌も、かなり以前に休刊になってしまっている。世の中全体の理系離れなどということがいわれたような記憶があるが、実は、問題の根底には深いものがあったのだなと、いまさら考えてみたりしている。

科学であろうが、歴史であろうが、文学であろうが……何を勉強しているにせよ、世界をまるごとわかりたい、この一冊の書物のなかに世の中の真実のすべてがつまっている……このような感覚が、特に若いひとたちのなかから消えていってしまっていといってよいであろうか。このような状況のなかでは、もはや『文学』(岩波書店)が生きのびるのは、むずかしいことであるといわざるをえない。

そして、このようなことが、現在いわれている人文学の危機的状況の根底にある問題なのだと、私は思う。さらにいわせてもらえれば、私とて、まだ、世界をまるごとわかりたい、という気持ちを捨て去ったわけではない。まだ、こころの奥底になにがしかは残っていると感じる。埋み火のように。若いころのようにはいかないかもしれないが。

『文学』休刊に思うこと2016-06-12

2016-06-12 當山日出夫

すでにWEB上その他で、いろんな人が発言している。私にとってみれば、ああ、また一つ雑誌が減ったのか。あるいは、岩波書店は、これから本当に大丈夫なのだろうか、といった感想であった。

『文学』休刊のお知らせ
http://www.iwanami.co.jp/bungaku/

『文学』(岩波書店)休刊のニュースからやや時間がたったので、ここで自分なりに思うことをすこし書いてみたい。

まず、いうまでもないことであるが、日本文学・国文学関係の各種雑誌の衰退ということがいえよう。『国文学』『解釈と鑑賞』は、すでにない。『月刊言語』もなくなってひさしい。

また、これもよく指摘されることであるが、全国の大学から、日本文学・国文学の専攻が減少傾向にある、ということもいっておかねばなるまい。

だが、こんなことは、私がここで今さら書くほどのことでもないだろう。

ただ、私の立場で思うことは、
・雑誌は、「商品」として流通するものである。
・自分は、それを商品として買う「消費者」である(図書館での利用をふくめて)。
このことの確認である。つまり、消費者がいなくなれば、その商品は売れなくなる、これは当たり前のことである。そして、重要なポイントは、自分もその顧客・消費者の一人である、という認識である。商品が売れるためには、まずその消費者が存在しなければならない。

自分が買わなくなった商品なら、それが市場から姿を消してもおかしくはない。いや、当たり前である。自分が行かない、買わないお店が、つぶれて廃業したとしても、それは当然のこととするのが、今の社会のあり方であろう。

需要と供給……これは、ニワトリとタマゴのようなものであろう。だが、これから「供給」(雑誌)をいくら工夫しても、需要(消費者・読者)が、増えるということは、たぶんないだろう。少なくとも、日本文学関連の分野については、と思う。

ところで、私は、昔は(学生のころからしばらく)、『文学』を定期購読していた。大学の生協の書店で、ずっと買っていた。三田の文学部国文科の学生のころのことである。そして、だいたいは読んでいた。そんなに丁寧に読むということはなかったけれど、ざっと目を通すぐらいのことはしていた。ちなみにいえば、『国文学』も買っていた。

それが、買わなくなってしまってしまっている。その理由は、次の三つだろうか。

第一に、大学院にすすんで、自分の専門は「国語学・日本語学」と決めるようになったので、文学全般にわたる雑誌に、それほど必要性を感じなくなった、ということがある。学会として、国語学会(現在の日本語学会)、訓点語学会には所属していた。これは、今でも続けている。「文学」から「国語学・日本語学」へ専門的にシフトしていったということである。

第二に、図書館で読めると判断したからである。文学部というようなところで教えていえれば、『文学』ぐらいはおいてある。強いて、自分で買って持っておくほどのこともない。

第三に、内容がつまらないと感じるようになったからである。特に、近年のことであるが、月刊から隔月刊になって以降は、あまり読む気がしなくなった。たまに、特集で興味のあるときは買ったりしたが。

これら三つの事柄は、同時におこったことではなく、別途、時間をかけて徐々にあったことではある。しかし、総合的に考えて、このような三つの理由で、『文学』を定期購読することは止めてしまった。つまり、消費者であることをやめたのである。だが、今になって思うことは……ずっと買い続けていればよかった、そして、毎月、ざっとでも目を通すようにしておけばよかった、という悔恨である。(いや、逆にいえば、そのような雑誌であってほしかったという「願望」というべきである。)

これは、自分の勉強のあり方について考えることにもなる。あまりに、専門領域……国語学・日本語学のなかでも、訓点語・文字・表記、そしてそれから私の場合には、コンピュータの文字について……に、とじこもらずに、ひろくいろんな文章・論文を読んでおくべきであった。

今になって、そのような生活をおくってみたい、このようなブログで『文学』というカテゴリを作って毎月の号の感想を記す、こんなこともいいかな……と思ったところで、その『文学』がなくなってしまうことになっている。

けれども、もし、私が定期購読者を続けたところで、かつてのような月刊の『文学』が存続したとも思えない。だが、そうはいっても、いささか残念な思いがあることも事実である。

そして、これを、別の観点からはこのようにいうこともできよう……『文学』を毎月ひととおり読み続けるような勉強のあり方が、もはやすたれてしまったこと、このことが基本にある。文学部での勉強のスタイルというか、生き方のようなものが、変化してしまったのである。

そのようなスタイルの勉強が変容してしまったこと、『文学』がつまらなくなってしまったこと、『国文学』などが終わりになったしまったことなどは、関連する一連のできごとだと思う。

いうなれば、いまでは、『文学』という商品の供給を必要とするような、消費者がいなくなってしまったのである。

このことについては、後ほど続けて書いてみたい。

付記
なお、この文章は、松本功(ひつじ書房)のFacebookでの発言に触発されて書いたところのあることを、書き添えておきたい。誤解してのことかもしれないが。

追記 2016-06-19
この文章のつづきは、
「世界をまるごと分かりたい」(2016ー06ー17) として書いてある。
http://yamamomo.asablo.jp/blog/2016/06/17/8113547