フロンティア「旧約聖書 滅亡の街の真実」2024-04-14

2024年4月14日 當山日出夫

フロンティア 旧約聖書 滅亡の街の真実

シュリーマンの『古代への情熱』を思い出す。

まだ、仮説の段階というべきなのだが、しかし、面白い。文献資料、史料から様々な自然現象を読みとることができる。地震や天体の現象など。そのなかに隕石の衝突も可能性として考えられることになる。

エンジニアをやっていて、それがスカウトされて発掘の調査団に加わる、という経緯も興味深い。この発掘の調査団は、いったいどういう組織になっているのだろうか。

考古学という研究分野は、学際的な研究領域であることが重要かもしれない。人文学、歴史学、人類学の一部であったかと思うのだが、近年では、さまざまな科学的な調査が行われるようになってきている。人骨からのDNA調査などはその代表かもしれない。

旧約聖書に書かれたような隕石衝突が、将来ふたたび起こるかもしれない。現にシベリアでは、数十年前に起こっている。

文献史学と、考古学と、科学的研究の融合した研究領域は、これからも進んでいくことだろうと思う。

2024年4月8日記

『虎に翼』「第2週「女三人寄ればかしましい?」2024-04-14

2024年4月14日 當山日出夫

『虎に翼』第2週「女三人寄ればかしましい?」

この週で描かれていたことは、既存の概念をうちやぶって新しい道をきりひらこうとした女性たち、その先駆的な活動……というようにとらえることが可能だろう。世評としても、ドラマのなかで出てきた裁判の判決について、きわめて肯定的にとらえるものが多い。だが、これは、そのように世の中の視聴者が反応することを見越した上での脚本であり演出であるとは思うが。

たしかにこの時代、女性の権利は制限されたものであった。

だが、女性に対して男性が優遇されていたかというと、かならずしもそうばかりとはいえない。男性の普通選挙が制度として決まったのは、一九二五年(大正一四年)である。このドラマは、昭和七年のことになっているはずだから、その数年前まで、男性でも選挙権のない人びとが多数を占めていた。

それよりも気になるのは、旧・民法をあまりに否定的に見ていることである。明治になって民法が制定されたが、それは明治二九年~三一年のことになる。明治になってしばらくして、ようやく憲法が作られ、各種の法律と制度が整備されていったことになる。それらは、その当時の世界の法や制度と照らして、はたしてどんなものであったのか、このことを歴史的に考えてみる視点も重要だろう。

現在の価値観からすれば、旧弊であると言えるかもしれないが、それを、江戸時代の名残の多くのこっている時代に、なんとか近代的な法制度を作っていった先人たちの努力と工夫について、思いをめぐらせる必要もあると私は思う。(たぶん、このような視点は、このドラマでは出てこないかと思うが。)

近代になって、突然に近代市民社会が成立したということではない。江戸時代から、日本に住む人びとは、いったいどんな暮らしをしてきたのか、例えば婚姻制度についても、実際はどのようであったのか、歴史人口学とか民俗学などの知見が重要になってくるにちがいない。強いていえば、民法の規定にそう書いてあるからといって、普通の日本人(この場合、法の規定のもとにあるので日本人といっていいと思うが)が、現実にどのように結婚し、生活し、あるいは、離婚していたのか、これはまた別の問題があるはずである。法律にそのようにあるから、その当時の人びとがそのような生活をしていたと考えるのは、ちょっと短絡的である。

法廷に正解はない、と言っていた。だが、その一方で、法の安定性ということも重要である。裁判の傍聴席に誰がいるかということで、判決が異なるようなことはあってはならいだろう。そして、何よりも、日本国民が等しく法のもとにあるという意識が、近代になってから、どのように形成されてきたのかという観点も需要であろう。

ところで、このドラマでうまいと思うのが、教室で座る席。よねは、一番前に座っていた。長年、教師稼業をしてきたから(もうリタイアすることにしたが)感じることかもしれないが、おおむね教室の一番前の席に座る学生というのは、何かあつかいにくいところがある。だいたいできる学生は、寅子の座るような位置に座ることが多い。

水之江瀧子という名前を久しぶりに目にした。私の世代であれば、なんとか憶えているかと思う。

寅子の同級生仲間もいろいろと事情をかかえているようである。次週、どうなるか楽しみに見ることにしよう。

2024年4月13日記

アナザーストーリーズ「連続企業爆破事件〜見えない敵との闘い〜」2024-04-13

2024年4月13日 當山日出夫

アナザーストーリーズ 連続企業爆破事件〜見えない敵との闘い〜

東アジア反日武装戦線という名称ははっきりと憶えている。『腹腹時計』も名前を憶えている。この事件の当時、私はまだ京都にいた。大学生になって東京に出るのは、その翌年のことになる。家のテレビで、この事件の報道を見ていたことを記憶している。

この事件のことを、NHKのどの番組でどのようにとりあげることになるのか、これも、今日の視点としては、興味のあることである。今年、桐島聡が死亡したことをうけて、特集番組があってもよかったのかもしれない。「アナザーストーリーズ」は、このごろ非常に面白い企画で番組を作ることがある。(去年だったか、阿部定をとりあつかっていたことがあった。そのとき、大島渚が『愛のコリーダ』を撮ったとき、まだ生きていたのだということに驚いたものであった。このことは、番組では言っていなかったが。)

ただ、事件の当時の記憶としては、犯人たちの主張を肯定する意見もあったかと記憶するが、どうだったろうか。日本は、戦後の復興をはたしたが、アメリカと結託してベトナム戦争に加担し、世界の国々に経済的な侵略を行っている……このような主張が、堂々となされていた時代でもあった。また、たとえば、毛沢東が礼讃されていた時代でもあった。

警察の公安部の仕事はあまり表に出ることはない。しかし、そのような組織があり活動があることは、知られていることだろう。今日でも、警察のこのような活動をこころよく思っていない人たちもいるけれど。

よく犯人をつきとめたものだと思うが、また、その一方で産経新聞の記者たちの働きもすごい。まあ、今ほど、ジャーナリズムに厳しい倫理的な規範が求められる時代でもなかったし、警察への取材もおおらかであったということになる。

テロ事件の被害者の視点から事件を語るというのは、やはり今の時代ならではの番組の作り方だと思う。

番組の最後で言っていたこと……つかまった犯人たちのうち、死刑が確定し行われたのは一人だけ。まだ、行われていない犯人もいる。また、超法規的措置で日本を出国したものもいる。この事件はまだ終わっていない、と。

さて、この超法規的措置となった事件はどんなものだったのか、私の年代なら記憶していることだが、若い人は知らないだろう。今日の視点からふりかえるとどう思うことになるだろうか。あるいは、日本の現代史における失敗事例……テロに屈した……ということになるだろうか。

2024年4月9日記

「シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (6)「慈悲の実践」」2024-04-13

2024年4月13日 當山日出夫

こころの時代 シリーズ 歎異抄にであう 無宗教からの扉 (6)「慈悲の実践」

批判的に見ようと思えばいくらでも言える。特に、思想史、文献学、歴史学の立場からするならば、かなり粗雑な議論であるだろう。だが、そんなことは、安満利麿は十分承知の上で語っているにちがいない。それは、最終回で、高木顕明のことについてふれたことからも、そうであると思う。

念仏とは呪文ではない。また、個人のなかにとどまるものではなく、社会的な実践をともなうものでもある。このこと自体に異論はない。

だが、それが宗教のすべてである、と言っていいかとなると、問題を感じないではない。また、仏教=親鸞=歎異鈔、という結びつけは、どう見ても強引にすぎるところがあると感じざるをえない。

余計なことかと思うが、ベトナム戦争のときのことを持ち出してくるのは、やはり生きてきた時代を感じるところがある。ここもあえて天邪鬼に批判的に見るならば、ベトナム戦争は、軍事力の戦いだけではなく、イデオロギーを背景にしたプロパガンダの戦いでもあった。ベトナム反戦運動についても、今日の観点からは、絶対平和主義だけではなく、多様な見方が可能であるかと思う。

仏教も、浄土思想も、そのおかれた歴史的な背景のなかで成立し、人びとに信仰されてきたという側面から考えてみることも、大切なことだと私は思う。そのうえで、なお普遍的な価値として何を見出すことができるか、ということである。そして、経典、啓典は、常に時代の流れのなかで読み継がれ、再解釈されていくものである。

2024年3月18日記

100分de名著「フロイト“夢判断” (2)夢形成のメカニズム」2024-04-12

2024年4月12日 當山日出夫

100分de名著 フロイト“夢判断” (2)夢形成のメカニズム

なぜ夢を見るのかということも興味があるが、それよりも、なぜ夢は憶えていないのだろうか、ということも非常に関心がある。

私は、夢は見るけれども、後まで憶えているということはない。起きてすぐに忘れてしまっている。憶えておこうと思っていても、忘れている。これは、なぜだろうか。単なる記憶力の問題ではないはずである。夢に見た内容だからこそ、記憶しないでおこうというメカニズムがどこかで働いているのかもしれない。

たぶん、夢というものの本質は、それを長く記憶にとどめないということと無関係ではないはずである。このあたりのいきさつについて、フロイトがどう考えていたのか、また、現代の精神医学などの分野ではどう考えられているのか、もうすこし掘り下げて解説してくれるところがあってもよかったかと思う。

それから精神分析の限界、という問題。これは、現代社会においては重要な課題であるにちがいない。無意識というものがあるとしても、それはどこまで解明可能なのだろうか。また、人間というものは、無意識の世界から独立して、完全に自己決定の意志を持てるものなのか、というあたりもさらなる論点になるところだろう。

2024年4月9日記

時をかけるテレビ「世界の科学者は予見する 核戦争後の地球」2024-04-12

2024年4月12日 當山日出夫

時をかけるテレビ 世界の科学者は予見する 核戦争後の地球

一九八四年の放送である。この番組を見たという記憶はないのだが、「核の冬」ということばは、そのころ広く使われていたことは憶えている。

こういう番組を見ると、ジレンマを感じるというのが正直なところである。

核兵器の残酷さ、それが使用されたときの恐怖というものを強調すればするほど、それを所有したい、(使うことはないかもしれないが)敵対する相手国に対して恫喝の材料にしたい、このように思う、国家の指導者というのが、存在することになる。

今、現に核開発に突き進んでいる国がある。北朝鮮であり、あるいは、イランも含めていいだろうか。これらの国に対して、核兵器はこれだけ危険だから持つな、と説得力を持って言えるだろうか。むしろ、実際には、これほどの兵器ならば自分たちも持って、敵対する国……アメリカなどということになるが……に対抗したい、そう思うかもしれない。いや、おそらくはそう思うだろう。

究極の理想として核兵器の廃絶という理念を否定するものではないが、それだけではなく、現に存在する核兵器の厳格な管理、コントロールという現実的な施策について、着実な議論が必要であると思っている。(こういう議論は、一部の理想主義者からは嫌われることかもしれないが。)

今から四〇年ほど前に核戦争の脅威があったことになるが(それは今でも消えたわけではないけれど)、新たな問題として地球温暖化問題がある。とも共通することは、未来の人びとに対する責任ということになる。

今生きている人間の未来に対する責任、ということを考えなければならない。それには、今ある人びとの暮らしは、先人たちの努力のたまものであるという基本的な歴史教育が必要である。これは過去を礼讃することではない。過去からつながる営みのうえに今の暮らしがあることを実感できないところに、これから先の未来の人びとのことを思いやる気持ちは生まれないと考えるのである。

2024年4月11日記

映像の世紀バタフライエフェクト「巨大事故 夢と安全のジレンマ」2024-04-11

2024年4月11日 當山日出夫

映像の世紀バタフライエフェクト 巨大事故 夢と安全のジレンマ

登場していた映像の多くは記憶のうちにあるものであった。とはいえ、さすがに飛行船の事故とか、タイタニックは知らないが。

科学と技術、その発展が巨大な事故につながる。このことはいたしかたのないことかもしれないが、そこにあって、人間がどれだけの努力をするかということが問われることになる。

飛行船の事故が水素によるものであることは知っていたが、それが、アメリカからヘリウムを輸入できなかったせいで、水素を使うことになったことは、この番組で知った。

興味深かったのは、アメリカで行われた飛行機事故の実験映像。実際に飛行機を墜落させて事故をおこしてみる。このような映像を見たのは初めてかと思う。(この発想の延長になるのだろう。自動車の開発では、実際に事故を起こしてぶつけてみてどれだけ壊れるか、乗員は安全か、試験するようになっている。この試験で、日本で不正が発覚したのはつい最近のことである。)

それから、新しいタイプの原子力発電。事故が起こることを前提にして、それでも安全なように作ってあるという。このことは、テレビの報道などで見たとは憶えていないのだが、はたしてその安全性はどのようなものなのだろうか。原子力発電について、その危険性を言うだけではなく、より安全にするにはどのような工夫がありうるのか、このようなことについても伝えられるべきかと思う。

ただ、原子力発電について、ドイツにならうべきだというだけでは一面的すぎる。ヨーロッパの諸国は、お互いに電力を輸出入できる。ここは、広い地域での電力について、発電と需給について総合的に見る必要があるだろう。少なくともEU域内、さらにはロシアなどもふくめて総合的に見るべきだと思う。

そして、これからの未来の人びとの生き方が、どのようなライフスタイルであるべきか、という議論が必要だろう。新しい技術が人間に不幸をもたらすことがあるとしても、もはや世界の多くの人びとの生活を産業革命以前にもどすことは不可能であろう。

人間は必ずミスをする。そのことを前提にシステムは構築されるべきである。

2024年4月9日記

「舟を編む ~私、辞書つくります~」(8)2024-04-11

2024年4月11日 當山日出夫

「舟を編む ~私、辞書つくります~」(8)

辞書の用例採集カードが登場してきた。最も著名なのは、見坊カードだろう。

さて、このような用例カードは、今、どう管理されているのか。また、これからどう管理していくべきなのか。紙の耐用年数はそう長いものではない。基本的には、デジタル化(画像データ)して、しかるべき検索用の見出しを付加して、データベース化、ということにならざるをえない。

ドラマで出てきているのは、現代語の範囲のことばになる。これも、古典語にまでひろげるとことは簡単ではない。古典テキストは時代によって変わる。一般には、古典は不変であると思われているかもしれないが、しかし、専門の研究者の目で見るならば、古典のテキストは、その時代の本文研究に従って変化していくものである。こういうものは、最新の研究成果をふまえた本文に基づかねばならないことは言うまでもない。

見出し語にもれがないかどうかという問題だが、この時代なら、デジタルのデータで処理することになるだろう。とはいえ、見出し語の認定ということは、かなり高度な判断をともなうことになるので、機械的にできるというものではない。細部については、人間の目でのチェックが必要になる。

ドラマに出てきた、「血潮」のようなことばならば、デジタルデータの照合で発見できているはずだと思うが、どうだろうか。

ところで、今、WEBで「血潮」を検索してみると、いくつかのデジタル版辞書をみることができる。まあ、たしかに便利になったとは感じる。だが、安心してその語釈を信じていいかどうか、用例は信用できるものなのかどうか、ということになると、少なからず不安が残ることもたしかである。こういう場合、やはり旧来の紙の辞書を見るということになるかと思う。

現在、WEB版デジタル辞書は、ジャパンナレッジのような有料課金システムになるか、あるいは、無料で使えるが広告が入るか、ということになっている。

令和の年号が発表されたときのことが出てきていた。「令和」を用例カードに書き込むとき、「令」の字を明朝体のデザインで書いていた。たしかに、官房長官の示した字のかたちもそうであった。しかし、この字は、手書きでは「マ」のように書くのが通例である。あるいは、手書きの慣習である。

これは、今の学生も大きく影響を受けている。令和の年号が決まったとき、教えている学生に、コミュニケーションカードに漢字を書かせたことがある。圧倒的に、明朝体のデザインに従って書いている。これは、今の時代の趨勢かもしれない。

しかし、ドラマに登場していた、日本語学者の松本先生の年代なら、「マ」のように書いてもいいところである。

ところで、ドラマのなかで本(辞書)を初めて開いてみるシーンがあった。このとき、最初からページをめくっていくのではなく、まず真ん中あたりを開く。本、特に厚みのある本の扱い方としては、これが正しい。

2024年4月10日記

ドキュメント20min.「わたし、【終活】しています。」2024-04-10

2024年4月10日 當山日出夫

ドキュメント20min. わたし、【終活】しています。

終活を考える若者というのが、どうもイメージできないでいたのだが、見ると、なるほど今の若い人たちは、こんなことを考えて生きているのか、とふと感じるところがある。

一つには、いわゆる生きづらさというものなのかもしれない。今の世の中で、贅沢な暮らしをしたいというのではないようだ。いや、富を得るということが、もはや絶望的な時代になってきているともいえるだろうか。格差の増大、富の偏在という世界に今はなってきている。そのなかで、ミニマリストとして生きている。生きていくために必要最低限のことはなにか、ということを考えることが、自分の死んだ後のことを考えることにつながっているのかとも思う。

それから、登場していた若い人たちは、映像で見る限りは独身のようだ。これが、結婚して子どもがいて、となると、また考え方も変わってくるかなとも感じるところもある。あるいは、さらに考えてみるならば、とおい将来の日本の人びとのことを考える、ということもありうるのかもしれないが、そのような感じはしない。あえて悪くいえば、今のことを考えている。しかし、今の時代に生きるということは、そういうことなのかもしれないとは思う。

私も、老人となっている。いろいろと考えることもある。

2024年4月9日記

世界サブカルチャー史「特別編 戦争と大衆の百年」2024-04-10

2024年4月10日 當山日出夫

世界サブカルチャー史 特別編 戦争と大衆の百年

「世界サブカルチャー史」は、以前、BSで放送していたときは、かなり見ていた。ただ、見ていて不満に思うことがある。それは、おそらくは著作権の関係なのだろうが、テレビや漫画などの紹介がかなり限定的であるということである。見ていて、なにかもどかしいのである。特にそれを強く感じたのは、日本の一九七〇年代をあつかったとき。BSの放送を見ていたが、山口百恵のことが一切出てきていなかった。これはどうかなと思って見ていた。

そのような事情があって、Eテレに放送が移って、そう興味をひくことなく過ぎていたのだが、この特集は見ておきたいと思って録画した。

サブカルチャーから戦争をとらえる、この発想は一つの方法としてありうることだと思う。実際の戦争がどうであるか、あったか、ということとは別に、それが社会の人びとにどのように受けとめられてきたのか、戦争観の変遷というようなことは、サブカルチャーを通してしか見ることのできないものかもしれない。

私は、一九五五年(昭和三〇)の生まれなので、昭和三〇年代の少年漫画雑誌の誕生のころが、ちょうど小学生のころだった。「少年マガジン」や「少年サンデー」の世代ということになる。番組でも語っていたように、この時代、少年漫画雑誌で、戦争は大きなテーマだった。戦記漫画というべき作品が多くあった。

また、テレビドラマの「コンバット」は見ていた。サンダース軍曹のことは、はっきりと憶えている。そのテーマ曲は未だに忘れない。

プラモデルで、戦闘機や軍艦を作ったこともある。

かなり前のことになるが、近所の書店で、「紫電改のタカ」の文庫本を売っていたので買った。それから、望月三起也も買った。第二次世界大戦のとき、ヨーロッパ戦線で従軍した日系人兵士のことをあつかっている。このことは、子どものときに漫画で憶えた。このような経験の人は多いのではないか。

これらを買ったのは、自分がなつかしくて読みたいと思ったこともあるが、子どもがちょうど小学生のころだったので、これらの漫画は読んでおいてもいいかと思うところもあった。戦争漫画だからといって、戦争を肯定的に描いているばかりではない。その底にヒューマニズムを感じる作品もある。

さて、今、漫画研究の分野では、昭和三〇年代の少年漫画雑誌で描かれた戦争ということに、どのような研究があるのだろうか。私は漫画研究にはまったく疎いので知らないでいるのだが、このあたりのことは興味がある。

そして現代である。SNSとスマートフォンの普及により、戦争は一変したと言っていいだろう。ウクライナでの戦争でも、イスラエルのことでも、まさにリアルタイムで戦地の様子が、世界に拡散する。また、それを前提として、戦争が行われている。

番組では使っていなかったが、ハイブリッド戦争という。この時代にあっては、スマートフォンのゲームも、また、戦争の一端に組み込まれる時代がきていることになる。

また、番組ではここまでは言及していなかったこととして、AIによるフェイク情報もありうる。これが、サブカルチャーの中に流れ込んできたとき、戦争をとりまく人びとの感覚は、どのようなものになっていくだろうか。

2024年4月1日記